詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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767年-240 大覺高僧蘭若(卷二○(四)一八○一)注(1252)夔州詠物八首の巫山不見廬山遠 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10375 |
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(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10378 |
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(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10378
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中国史・女性論 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-1 呂后と戚夫人との葛藤
§-1 呂后と戚夫人との葛藤 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着―
2018年3月28日 |
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(Ⅱ-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10371 |
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(Ⅱ-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10371
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
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(Ⅱ-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
(Ⅱ-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人
2018年3月25日 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
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(Ⅱ-1)中国史・女性論 《Ⅱ漢の高祖をめぐる二人の女性》1.)大風の歌と鴻鵠の歌 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10343 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》
2018年3月22日 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
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中国史・女性論 |
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項羽と虞美人
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
これまで楚・漢の抗争を、もっぱら楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争としてとらえてきたが、この抗争は楚の文化圏と漢の文化の楚漢抗争の史的意義ともいうべきものについても、考えなければこの戦いを真に理解することはできない。
この戦いの舞台はまず、漢王がわの文化圏である渭水・黄河文化圏、中原(漢)文化圏と准水(准河)・長江華k流域の文化圏ともいえる項羽がわの楚文化圏との対立抗争でもあるということである。
漢王の劉邦は淮河流域、沛の出身ではあるが、かれの集団は、渭水・黄河文化圏(漢文化圏)をふまえた勢力であるのに対し、楚王項羽の集団は、准河・揚子江文化圏、それは准河中・下流域の西楚と、江東とよばれた長江下流域の東楚との文化圏を代表する勢力であったといえるのである。東楚は春秋・戦国時代の呉および越の地であり、西楚は旧楚国が前三世紀なかごろ以後移ってきた安徽省および江蘇省北部地区なのである。
戦国時代以来、あるいは、それよりもはるか以前から、准河および長江流域の楚民族は、渭水・黄河流域の漢民族とは相互に交流はあっても、かなり異色の文化をもっていた。湖北省江陵(荊州)は春秋・戦国期の楚国の都城郢の地―〔江陵縣城の北五キロ〕―であり、その都城址は1960年代なかば以後1980年代にかけて発掘調査が行われ、『楚都紀南城』という報告書も出刊されている。都城址の発掘とともに楚墓群についても発掘がつづけられているが、たとえば、1965年発掘の望山楚墓一号墳からの出土品をみても、漆器をはじめ竹筒・銅器の類にいたるまで、その一つ一つに楚国文化の特異性がうかがわれる。この望山楚墓の時代は、戦国期の前五世紀中葉に比定される。
なお江陵の楚墓については、近年一九七八年にも十三座の木廓墳が発掘され、木桶・彩絵の木鹿をはじめ漆盆・銅兵器や、おびただしい陶祭器類(罍・盉・琀・鼎・奠・壷)が出土している。
このほか楚国の遺物については、1954年6月にも長江をこえた江陵の南方にあたる湖南省長沙市南郊の左家公山からも戦国時代の木廓墳が発見されて多数の楚国の漆器類が出土しているが、これらにみえる図紋は、いずれも中原のものとはいちじるしく異なっている。さらに時代はやや下って、武帝以前の漢代初期のものと推定される長州、馬王堆一号古墳からの出土品をみても、ただに文物や図紋ばかりでなく、思想・宗教・民俗・民話などあらゆる点で『楚辞』にみるような楚国文化の異質性が漢初ご櫓もなお根強く保たれていることがわかる。
このことは江陵や長沙などの湖北・湖南の楚國本地ばかりではない。前三世紀に楚の第三次国都となる安徽省寿県から、1935、6年ごろ楚墓が発見されているが、准河上流の信陽県長台関の楚墓からの出土品などによれば、准河流域の西楚地区にも江陵・長沙の楚国本地に匹敵する楚国伝統の豪華な文化が栄えていたことが知られる。
これらによると、長江の中・下流域から准河流域にかけては、渭水・黄河文化圏とは明らかに異なる楚の文化圏が形成されていたのである。
項羽集団はこの楚文化圏を代表する勢力であって、これが渭水・黄河流域の漢文化圏(中原文化圏)を基盤とする劉邦集団と激しく抗争し、この戦いの結果、項羽が敗死し、やがて劉邦が天下を統一して、漢帝国を創建し高祖を称すると、高祖は叔孫通や婁敬や陸賈らの儒生たちを登用して、しだいに武から文への転換を行いはじめ、やがて旧楚国領の各地には劉氏一族が封建された。このことを『漢書』巻二十八、「地理志」巻第八下、には
(前略)漢が興ると、高祖は兄の子の濞を呉王としたが、王は盛んに天下の游士を招いた。(中略)准南王の安(景帝、武帝時代の人)もまた寿春(寿県)に都して賓客を招き『准南子』などの書物を著した。こうして漢朝では文章辞賦が盛んになったため『楚辞』も世に伝わることになった。云云 (楚地の条)
といい、なかでも西楚の寿春に都した准南王の劉安は、賓客・方術の士数千人を招致したという。
こうして楚・漢抗争がおさまり、漢帝国が興ると、それまで職にあぶれていた儒生や方術の士は、争って封建諸王・侯のもとに仕官したり、あるいは食客となった。とくに旧楚国領に封じられた諸王・侯のもとには、中原から多くの知識人がおしかけ、かれらは楚国文化と中原の漢文化との交流・融合に大きな役わりをはたした。漢初の呉・楚七国の乱や准南王安の謀反事件の背景にも、これらの人びとが関係していたといわれる。
ちなみに、准南王安の謀反事件に、その食客たちが思想的に関係していたことについては、金谷治『秦漢思想史研究』第五章、第一節を参照されたい。
このように、旧楚国領の封建諸侯と中央の漢室との間には、漢初以来文化闘争といってもよいような軋轢がくりかえされており、とくに武帝以後は、中央集権の強化と儒学が漢朝政治の指導原理になったことなどとあいまって、中原の礼教文化は、時の経過とともに、いよいよ旧楚璧化を包摂し吸収していった。こう考えるとき、そのきっかけをなした楚・漢抗争の文化史的意義の大きさは見逃せない。
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
10. 項羽の死にざま
ところが、項羽は烏江にたどりついたとき、渡し船をととのえて待っていた烏江亭長の申し出を拒み、ついに、かれは渡河を断念して江畔でみずからくびはねて果てたという。項羽のこの突然の心境の変化は、いったいなんであろうか。それは、つぎのような烏江亭長のことばではなかったか。
烏江の亭長は船を用意して待っており、項王にいうよう「江東は小さいとは申せ地方千里、人口は数十万人いまして、王として不足はありません。どうか大王よ、いそいでお渡り下さい。いま船をもっているのは臣だけです。漢軍が来ましても渡ることはできません。」
おもうに、烏江亭長のこのことばほど、誇り高き項羽の心を打ったものはなかったであろう。ここまで項羽を支えてきたのは、「垓下の詩」にもあるように、山をも抜く武力と一世をも蓋う気力への自負であった。というよりか、項羽はかれのこの自負心を、これまではじぶんを見すてようとする天の悪意に対置させることによって、孤独な自己をからくも支えてきたのであった。それは人間失意のとき、たれしもよくみる強がりであり虚勢である。それでも核下までは、まだ愛する虞姫がかたわらにいたため、大きななぐさめとなったであろう。しかし虞姫を失った―かの女は前述したように、おそらく東城付近で落命したものと思われる―うえに、従う部下も戦死したり、あるいは脱落したりして、目にみえて減っていくのをみるにつけ、項羽はいよいよ内心の孤独感を深めたことであろう。
項羽が東城で従騎の二十八人を前にして「天がわれを亡ぼすのだ、それは天のせいなのだ、わが用兵のせいではない(天之亡我、非戦之罪也)といっているのは、従騎に対するよりも、むしろかれ自身の孤独感へのいいきかせであり、自身に対する抗弁であるといえるであろう。
いや『史記』の著者司馬遷は、このときの項羽に代わって、このように推測したのである。司馬遷は「項羽本紀」末尾の論賛に
項羽は自ら功伐に衿り、その私智を奮って古を師とせず、覇王の業は力をもって征しようと欲し、天下を経営すること五カ年、ついにその国を亡ぼし、その身は東城で死んだが、なお覚寤ずして自ら過ちを責めようとしなかった。むしろ天が我を亡ぼすので、わが用兵の罪ではないといい張るが、なんと謬まったことであろうか。
といって、項羽はただおのれの力を過信するあまり、ついに国をほろぼし、一命をも失ったが、かれは最後までこれを天のせいにして、わが謬りに気づかなかったと難じている。
しかし、この司馬遷の非難は、四面楚歌の悲境に立って、たのむ部下を失い、愛人すらも失って、必死に孤独感との戦いをつづける人間項羽の心情に対する思いやりに欠けるうらみがある。
これまでの数年間、優勢をとりつづけて負けることを知らなかった身が、垓下の決戦に敗れてからは、急転直下敗残の淵に落ちこんで、たれ一人として頼るもののなくなったいま、項羽の誇り高い性情と強い自負心とが、天意に対する虚勢ともみえる強がりのことばや、姿勢となったのであろう。
こうして孤独にうちひしがれそうな自分を、からくも支えつつ烏江にたどりついた項羽では あったが、ここで思いもかけず烏江亭長から、肉親にもまさる温かいはげましを聞いて、これまで張りつめてきたかれの誇りと自負心とは、音をたててくずれ去ってしまった。そしてかれをして
さきに籍(項羽の名)は、江東の子弟ら八千人と江を渡って〔秦をほろぼすため〕北上し、また西征したが、いまはそのうちの一人も還るものがない、縦い貴下のいうように、江東の父兄たちが憐れんでわれを王としようとも、われなんの面目あってか、かれらに見えられようか。縦いかれらが(子弟たちを戦死させたことを)言わずとも、籍独り心に像じないでおられようか。
といわしめているが、この瞬間に項羽ははじめて天命を自得し、ついに一武将としての人間性にめざめたのではなかったろうか。
たとい江東の父兄、憐れんで我を王とするも、我何の面目あってか、これに見えん
とは、まさに古今の名将たちが、いくたびか口にしたことばであり心境である。
司馬遷は「項羽は敗北を最後まで天のせいにして、自己の謬りに気づかなかった」と難じているが、項羽はその最後の瞬間において天命を自得し、人間性の真実に立ちかえったものだとわたくしは考える。でなければ、かれの口から決してこのような語は吐けなかったであろう。
こうして項羽は、烏江亭長の真情あふれる申し出を拒みつつも、その厚い情義に深い感謝をこめて
わたしは、そなたがりっぱなお人だということがわかった。この馬はわしが五年間騎ってきたが、向かうところ敵はなく、かつては一日に千里を駈けた名馬です。これを殺すにはしのびないので、そなたにさし上げよう。
といって愛馬の騅を与え、従騎たちにも下馬を命じて歩行させ、鎗をすて短兵をもって接戦したのち、みずから首刎ねて死んだのであった。
2018年3月20日 |
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§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
10. 項羽の最後
垓下の戦いの劉邦軍の主力は、准陰侯韓信のひきいる軍士たちであったが、戦いに敗れた項羽は、逃れて南のかた揚子江畔の烏江(安徽省南京市の西南対岸)めざし退去していった。かさねて『史記』の「項羽本紀」をみると、項羽の最後をドラマチックにもりあげている。
それによると、別れの酒宴を終わったのち、項羽は夜陰に乗じ麾下八百余騎をひきいて漢軍の重囲を突破して南走し、准水を渡渉してようやく陰陵(江蘇省定遠県の西北)にたどりついたものの、この間一〇〇余キロあまりの強行軍に従う騎馬は百余騎にすぎなかった。そのうえ道に迷って大沢中にふみ入り、ついに漢の追討軍に追いつかれる羽目になった。
そこでかれは東方に道をかえて東城(定遠縣の東南)にゆきついたときには、従騎はさらに減って二十八騎にすぎず、背後にせまる漢騎は数千、とうてい逃れがたいことを覚った項羽が、その部下たちをふりかえって言ったことばは、
われ兵を起こしていまにいたる八年、自ら戦うこと七十余戦、いまだかつて敗北したことなく、ついに天下の覇者となった。しかるに、いまここで、このような羽目になったのは、天がわれを見すてたからで、わが戦いの拙ないせいではない。いまじぶんは死を決意した。
そこで諸君のためにこれから決戟し、三たび戦ってかならず勝ち、諸君のために敵の囲みをやぶり、敵将を斬りその旗をうばって、諸君に天がわれを亡ぼすので、わが戦いの拙ないせいではないことを知らしてやろう云云。(『史記』「項羽本紀」)
この『史記』 の一文は、司馬遷がさきの「垓下の詩」に対応させて記述したものであろう。項羽は「わが力は山を抜き気は世を蓋う」ほどと過信する自己の武力と気力とを、いまや死を目前にしながらも、部下たちに誇示しようと決意した。そしてかれはその決意どおり、約束どおり、漢軍の先鋒と戦って、敵将と一都尉とを斬り、数十百の敵をたおし、また敵の手から旗をうばったのであった。
こうして項羽は、ここでも敵の重囲をやぶって脱出し、東南のかた烏江に走った。『史記』には「ここにおいて項王は東のかた烏江を渡らんと欲す」とあって、この瞬間まで項羽は烏江(南京の西南対岸、安徽省)から揚子江を渡って、かれが最初に兵をあげた江東に逃れ、再起をはかる考えであったことを伝えている。(「楚・漢戦争関係略図」参照)