詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路
2018年3月29日 |
の紀頌之"6"つの校注Blog |
||||
李白詩 |
韓愈詩 |
杜甫詩 |
花間集 |
玉臺新詠 |
古代史女性論 |
|
|||||
2018年3月29日 |
の紀頌之"6"つの校注Blog |
||||
10年のBLOGの集大成 |
|
||||
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
|||||
Ⅰ李白詩(李白集校注) LiveDoor |
748年-8《敘舊贈江陽宰陸調(卷十(一)六八四)-#5》漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之の李白詩訳注解説Blog 10345 |
||||
Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 LiveDoor |
|||||
Ⅲ 杜詩詳注 LiveDoor |
767年-240 大覺高僧蘭若(卷二○(四)一八○一)注(1252)夔州詠物八首の巫山不見廬山遠 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10375 |
||||
Ⅳブログ詩集漢・唐・宋詞 fc2Blog |
花間集 訳注解説 (406)回目《孫光憲巻八14生查子三首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10411 (03/29) |
||||
Ⅴ.唐五代詞詩・女性・玉臺新詠 Livedoor |
玉臺 巻四巻4•3-1-4-2雜詩九首其四 採桑詩 3.鮑照 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻四ブログ10412 |
||||
Ⅵ唐代女性論ブログ唐代女性論 |
(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10378 |
||||
(Ⅱ-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10378
|
|
|
中国史・女性論 |
||
|
中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-1 呂后と戚夫人との葛藤
5.)戚夫人の末路
漢十二(前一九五)年四月に、高祖が六十三歳で死んで、皇太子盈が帝位(孝恵帝)につくと、呂后は皇太后として、誰はばかるところもなく権勢をふるいはじめた。こうなると、かの女がもっとも怨んだ戚夫人と超王如意との命運は、風前の灯火にもひとしかった。呂太后はまず戚夫人を永巷宮に幽囚し、ついで趙王を長安に召して殺さんとしたが、趙相の周昌は、趙王の病気を理由に、三たびまで拒否して力いっぱいの抵抗を示した。しかし、それも太后の怨念の前には無力であった。
周昌は勅命によって召換されたため、残された趙王も、ついに長安に出向することになった。せっかく高祖が仕組んだ最後の手段も、なんらの役にも立たなかったわけである。ところが、救いの手は意外のところから差し出された。
呂太后の意図を知った孝恵帝は、趙王を㶚上に出迎えて宮中に請じ入れ、起居・飲食をともにするという用心深さであったので、さすがの太后も容易に趙王の暗殺を実行することができず、空しく年余を経過した。そのうちに孝恵元(前完四)年十二月、帝は未明に射猟に出かけることになり、年少の趙王を伴うことができなかった留守の間に、太后は人をやって趙王を毒殺してしまった。
一方、はじめ永巷宮に囚われた戚夫人は、やがてその手足を断たれ、眼煇をくりぬかれ、瘖薬を飲まされ、人彘とよばれて厠中こおかれてなぶりものにされたが、太后はわざわざ孝恵帝にこの様を観させたのであった。ところが情にあつく気弱な帝は、この人彘が戚夫人であることを知ると、ついに病床に臥して起つことができず、母を譲めて
このような仕打ちは、人として為すべきことではありません。自分は太后の子として、このままでは、とても天下を治めることはできません。
といって、以来飲酒・淫楽にふけり、政務を聴かなかったという。
こうして孝恵帝のデリケートな心情は、折りにふれては、戚夫人に対する太后の残忍きわまる所行に苦悩されつづけたのち、七年間のみじかい在位を終わった。戚夫人のみにくい相をみせて、わが子に毅さを求めようとして仕組んだ太后のおもわくは見事にはずれて、逆の結果を招来することになったのである。
班固は『漢書』巻二、「恵帝紀」 の賛に、
孝恵帝は寛仁の主であるが、母后の呂太后が、その徳を毀損したのは悲しむべきである。
とて、暗に太后が孝恵帝の寛仁な徳を帳消しにしたことを難じているが、それにつけても読者は、司馬遷の筆を通じて、かの女の妬心、わけても権勢をめぐる女性の執念のすさまじさを、しみじみと知らされることであろう。