詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-1 呂后と戚夫人との葛藤
3.)呂后のまきかえし
このような高祖の心境の変化を見て、後継者問題は生死の問題であるので、呂后は巻き返しを考え始めた。司馬遷は「留侯世家」で彼女の心痛を「呂后、心おののいてなすところを知らず」と簡潔に伝えるが、簡潔な表現だけに、女ながらも豪気の持主であったといわれる呂后の痛心のさまが深深と感じられる。
もともと呂后が高祖に嫁したのは、かの女の父呂氏が、かつて沛の県令の邸に食客となっていたとき、たまたま泗水亭長劉邦の貴相(人相)をみて惚れこみ、呂氏夫人の反対を押しきって、強引に息女を劉邦にめあわしたのであった。
その後かの女は、夫の劉邦を内助して二人の児―のちの孝恵帝と魯元公主―を育てつつ農耕にいそしんだ、文字どおり糟糠の妻であり、また楚漢抗争中には、項羽の軍中に捕らわれて一命を失いかけたこともあった。『史記』や『漢書』 に、
「呂后は人となり剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む。」
とあるのは過褒の言ではないようだ。しかし女性の身で剛毅といわれるからには、相当なしっかり者であったらしく、高祖もかの女には一目も二目もおいていた。つまりかの女の勝ち気が高祖にはけむたかったようである。とくに戚夫人をえてからは、高祖は呂后を敬して遠ざけていた。『史記』 の 「呂后本紀」 にこのことを
「呂后は、年長いて常に家を留守する上(高祖)に見えることも希れで、ますます疏んじられた。というが、これは呂后が年老いて容色がおとろえたというばかりではなかろう。」
ところが、さすがの呂后も、わが子の浮沈にかかわる皇太子問題には、ほとほと窮したらしく、大臣たちの諌言にも耳をかそうとしない高祖を、なんとか翻意させんものと百方心をくだいたすえ、ついに留侯の張良にすがることになった。
生来蒲柳で多病の張良は、この以前から一年あまり門をとざし穀食せずに、もっぱら道引軽身の術(道家的長生術)をほどこしていた。そこで呂后は、尋常一様の手段ではかれを動かすことはできないと考え、后の兄の呂沢をつかわして、その積極的な援助を強要した。そこで張 良も太子のお守役 (太子少傳)でもあった役目がら、やむなくつぎのように助言したのであった。
このことばかりは、ただ口さきでお諌めしただけでは、陛下を翻意さすのは難しいことです。考えますのに、陛下が思いのままにできない人物がこの世に四人おります。その四人ともみな年老いています。かれらは陛下がよく人を軽侮されますのを嫌って高山にのがれかくれ、おもてむきには漢朝の臣ではありませんが、しかも陛下はこの四人を尊敬されています。そこで四人のもとに太子の書をたずさえて弁士をやり、辞を卑うし礼を厚うして迎え、かれらが来たならば、太子はときどき四人を従えて入朝されると、必ず陛下の目にとまりましょう。そして陛下がこの四人の賢人に気づかれると、それが陛下を翻意さす手だてになるでしょう。(『史記』 巻五五、「留侯世家」)
と。呂后と呂沢とは、いわれた通りの手段で四人の賢人を迎えることができた。やがて漢十二(前一九五)年、高祖は黥布の乱を平定して凱旋すると、病気がひどくなり―ときに高祖六十三歳―〔行く末を案じて〕どうしても太子を趙王如意に易えようとした。太子のお守役(太子大悟)の叔孫通は、春秋時代の晋の献公の例を引くなど面をおかして諌めたので、さすがの高祖も、うわべでは翻意したように見せかけて酒宴にうつり、太子もそこに同席させたところ、かの四人が太子に侍従してきた。いずれも年は八十歳をこえ、髯も眉もあくまで白く―そのため高山の四皓と称せられていた-衣冠をつけた相は威厳にみちみちていた。高祖はいぶかって尋ねたところ、かれらはそれぞれ姓名を名のったので、聞いた高祖は大いにおどろき、
「朕は数年間公たちを求めたのに、公たちはみな逃げかくれてしまった。だのに今どうしてわが子に侍従しているのか。」と。
そこで四皓は口をそろえて
「陛下はよく士を軽蔑されますが、臣らは主義として、そのような辱しめを受けたくありませんので亡げ匿れていました。ところが太子は仁孝なお人柄で、恭敬で士を愛されます。天下の士人はみな太子のためなら喜んで死のうと欲しております。それゆえ臣等もやってきたのです。」と。
やがて太子と四皓が立ち去るのをみて、高祖は戚夫人を召し、
「朕は太子を如意に易えようとしたが、かの四略が輔佐しているところからすると、太子はすでに一人前に成人して、とても動かすことは難しくなった。呂后はいよいよお前の主人であるよ。」と。
戚夫人はそれを聞いて、くやし泣きに泣いた。そこで高祖は「どうか一つ楚舞を舞ってくれ、自分も楚歌をうたうから」といって歌ったのが 「鴻鵠の歌」 であったといわれる。