詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
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項羽と虞美人
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
これまで楚・漢の抗争を、もっぱら楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争としてとらえてきたが、この抗争は楚の文化圏と漢の文化の楚漢抗争の史的意義ともいうべきものについても、考えなければこの戦いを真に理解することはできない。
この戦いの舞台はまず、漢王がわの文化圏である渭水・黄河文化圏、中原(漢)文化圏と准水(准河)・長江華k流域の文化圏ともいえる項羽がわの楚文化圏との対立抗争でもあるということである。
漢王の劉邦は淮河流域、沛の出身ではあるが、かれの集団は、渭水・黄河文化圏(漢文化圏)をふまえた勢力であるのに対し、楚王項羽の集団は、准河・揚子江文化圏、それは准河中・下流域の西楚と、江東とよばれた長江下流域の東楚との文化圏を代表する勢力であったといえるのである。東楚は春秋・戦国時代の呉および越の地であり、西楚は旧楚国が前三世紀なかごろ以後移ってきた安徽省および江蘇省北部地区なのである。
戦国時代以来、あるいは、それよりもはるか以前から、准河および長江流域の楚民族は、渭水・黄河流域の漢民族とは相互に交流はあっても、かなり異色の文化をもっていた。湖北省江陵(荊州)は春秋・戦国期の楚国の都城郢の地―〔江陵縣城の北五キロ〕―であり、その都城址は1960年代なかば以後1980年代にかけて発掘調査が行われ、『楚都紀南城』という報告書も出刊されている。都城址の発掘とともに楚墓群についても発掘がつづけられているが、たとえば、1965年発掘の望山楚墓一号墳からの出土品をみても、漆器をはじめ竹筒・銅器の類にいたるまで、その一つ一つに楚国文化の特異性がうかがわれる。この望山楚墓の時代は、戦国期の前五世紀中葉に比定される。
なお江陵の楚墓については、近年一九七八年にも十三座の木廓墳が発掘され、木桶・彩絵の木鹿をはじめ漆盆・銅兵器や、おびただしい陶祭器類(罍・盉・琀・鼎・奠・壷)が出土している。
このほか楚国の遺物については、1954年6月にも長江をこえた江陵の南方にあたる湖南省長沙市南郊の左家公山からも戦国時代の木廓墳が発見されて多数の楚国の漆器類が出土しているが、これらにみえる図紋は、いずれも中原のものとはいちじるしく異なっている。さらに時代はやや下って、武帝以前の漢代初期のものと推定される長州、馬王堆一号古墳からの出土品をみても、ただに文物や図紋ばかりでなく、思想・宗教・民俗・民話などあらゆる点で『楚辞』にみるような楚国文化の異質性が漢初ご櫓もなお根強く保たれていることがわかる。
このことは江陵や長沙などの湖北・湖南の楚國本地ばかりではない。前三世紀に楚の第三次国都となる安徽省寿県から、1935、6年ごろ楚墓が発見されているが、准河上流の信陽県長台関の楚墓からの出土品などによれば、准河流域の西楚地区にも江陵・長沙の楚国本地に匹敵する楚国伝統の豪華な文化が栄えていたことが知られる。
これらによると、長江の中・下流域から准河流域にかけては、渭水・黄河文化圏とは明らかに異なる楚の文化圏が形成されていたのである。
項羽集団はこの楚文化圏を代表する勢力であって、これが渭水・黄河流域の漢文化圏(中原文化圏)を基盤とする劉邦集団と激しく抗争し、この戦いの結果、項羽が敗死し、やがて劉邦が天下を統一して、漢帝国を創建し高祖を称すると、高祖は叔孫通や婁敬や陸賈らの儒生たちを登用して、しだいに武から文への転換を行いはじめ、やがて旧楚国領の各地には劉氏一族が封建された。このことを『漢書』巻二十八、「地理志」巻第八下、には
(前略)漢が興ると、高祖は兄の子の濞を呉王としたが、王は盛んに天下の游士を招いた。(中略)准南王の安(景帝、武帝時代の人)もまた寿春(寿県)に都して賓客を招き『准南子』などの書物を著した。こうして漢朝では文章辞賦が盛んになったため『楚辞』も世に伝わることになった。云云 (楚地の条)
といい、なかでも西楚の寿春に都した准南王の劉安は、賓客・方術の士数千人を招致したという。
こうして楚・漢抗争がおさまり、漢帝国が興ると、それまで職にあぶれていた儒生や方術の士は、争って封建諸王・侯のもとに仕官したり、あるいは食客となった。とくに旧楚国領に封じられた諸王・侯のもとには、中原から多くの知識人がおしかけ、かれらは楚国文化と中原の漢文化との交流・融合に大きな役わりをはたした。漢初の呉・楚七国の乱や准南王安の謀反事件の背景にも、これらの人びとが関係していたといわれる。
ちなみに、准南王安の謀反事件に、その食客たちが思想的に関係していたことについては、金谷治『秦漢思想史研究』第五章、第一節を参照されたい。
このように、旧楚国領の封建諸侯と中央の漢室との間には、漢初以来文化闘争といってもよいような軋轢がくりかえされており、とくに武帝以後は、中央集権の強化と儒学が漢朝政治の指導原理になったことなどとあいまって、中原の礼教文化は、時の経過とともに、いよいよ旧楚璧化を包摂し吸収していった。こう考えるとき、そのきっかけをなした楚・漢抗争の文化史的意義の大きさは見逃せない。