詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
項羽と虞姫との別れの場面は、古来涙を誘うものであり、詩歌となり、絵画となり、近代では京劇『覇王別姫』となり、映画『覇王別姫』となっている。また、項羽の兵家としての行為(後出の東渡の拒絶)に対しては、幾多の見方がある。杜牧の詩『烏江亭』「勝敗兵家事不期,包羞忍恥是男兒。江東子弟多才俊,捲土重來未可知。」がそうであり、秋瑾の詩がそうであろう。しかし、李清照の詩『絶句 烏江』「生當作人傑,死亦爲鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。」では、その潔さをみとめていよう。江東の故地に落ちのびることを勧めたのに対し、「江東の父兄にどのような顔でもって、会うことが出来ようか。」と拒んだことである。『史記・項羽本紀』では「於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長船待,謂項王曰:『江東雖小,地方千里,衆數十萬人,亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船,漢軍至,無以渡。』項王笑曰:『天之亡我,我何渡爲!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縦江東父兄憐而王(この王は動詞)我,我何面目見之?縦彼不言,籍(項羽のこと)獨不愧於心乎?』」とあり、その昂ぶりが二千年の時を越えて伝わってくる。もっとも、前出『史記』を詳しく読むと、虞姫と別れた項羽は、漢軍の重囲を八百の騎兵とともに夜陰に乗じて脱出したものの、三百騎にまで減り、道に迷ったあげく、農夫に道を欺かれ、沼沢地に迷い込んで、行き詰まってしまった。天運の尽きたことを悟って「吾起兵至今八歳矣,身七十餘戰,所當者破,所撃者服,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必三勝之,爲諸君潰圍,斬將,刈旗,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」と言った。情況からくる「天之亡我」という諦めがあったのだろう。だからこそ、烏江の畔では、笑って『天之亡我,我何渡爲!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縦江東父兄憐而王我,我何面目見之?縦彼不言,籍獨不愧於心乎?』」と言えたのだろう。
なお、この詩の虞美人は、「虞兮虞兮奈若何」といわれた後、虞姫はどうなったかは、『史記』では、書かれていない。前出上記『項羽本紀』の古註で、虞美人がこの詩に答えて「漢兵已略地,四方楚歌聲。大王意氣盡,賤妾何聊生。」のみである。その分、京劇『覇王別姫』では、「漢兵が已に地を侵略したからには、足手纏いとなるわたしに死を賜れ」となり、映画『覇王別姫』では「大王快將寶劍賜予妾身」となる。そして、剣を奪い、自殺する。京劇では、虞美人がこのせりふを言う直前、覇王のために剣舞を舞う。舞い続け、たけなわになる頃、一振りの剣が踊りの中で、二本に変わり、双剣の舞になり、終わる頃には一本に戻っている。何を暗示象徴しているんか、興味深い。この京劇でも、剣を奪い、首筋を切って、自殺する。
ただ、この詩と『項羽本紀』の記述からみれば、項羽は虞美人を殺したのではないのか。数年前、関中に攻め入った劉邦は、一旦、秦の王宮の財宝や女性を得ている、そのような時代であったろうし……。
『史記』の「項羽本紀」にみえるこの七言四句の楚辞調の詩は、秦帝国をほろぼして西楚の覇王と称した楚王項羽が、漢王劉邦との最後の決戦に敗れて、咳下(安徽省霊壁県)で漢軍の重囲に陥ったとき、その夜、陣中に部将たちと訣別の酒をくみかわし、包囲軍が合唱する楚歌の声を聞きながら、愛馬の騅(あお)と愛妾の虞姫とを前にして吟じた詩で、いわゆる「垓下の詩」とか「虞美人の詩」などと伝えられる詩である。
ちなみに、わが国でも一般に知られる「抜山蓋世」の語句は、項羽のこの詩に由来すると伝えられるが、この詩が『史記』にみえるにしても、はたして、これが項羽自作のものかどうか、真偽のほどは確かではない。
垓下の戦いは、漢五年の冬十二月のことであると、後漢末の荀悦の著『漢紀』はいう。項羽はこのとき忼慨のあまり、はらはらと涙して、この詩をくりかえし吟じたという。また司馬遷はこのときのありさまを『史記』 の「項羽本紀」に、つぎのように伝える。
項王(項羽)の軍は垓下にとりでを築いたが、兵は少なく食も尽きた。漢の軍および諸侯の兵は、このとりでを数重にもとり囲んだ。夜中に漢軍が四面で楚の歌をうたうのが聞こえた。そこで項王は大いに驚いて日く、「漢軍はもはや楚〔の大半〕を手に入れたのであろうか、なんと楚人が多いことよ」と。
そこで項王は、夜起きて帳中で酒を飲んだ。かたわらに美人がいて名は虞といい、いつも寵愛されて項王に従っていた。また騅とよぶ葦毛の駿馬もおり、項王はいつもこの馬に乗った。このとき項王は哀調をおびてうたい、心たかぶって『垓下の詩』を自作した。こうしてかれはこの垓下の詩をくりかえしうたい、かたわらの虞姫もこれに唱和した。ときに項王ははらはらと、いくすじかの涙を流した。左右に侍した武将たちもみな泣き、顔をあげるものもなかった。
司馬遷の『史記』は、このときから約八十余年も後に書かれたものだから、はたしてこのとおりの光景であったかどうか、わからないが、『史記』はこの楚・漢戦争前後のことは、主として当時の楚出身の儒生で、漢の高祖に重用された陸賈の『楚漢春秋』や、あるいは司馬遷がまだ若い二十歳前後ごろ、この地方を旅して採集した伝承や故老たちからの伝聞などを参考にして、かれ一流の麗筆に托したものである。
このとき項羽の詩にあわせて攻囲中の漢軍がうたったという楚歌については、唐の張守節の『史記正義』には、顔師古のかんがえを引いて、楚人の歌で「呉の謳」「越の吟」だろうといい、おそらく劉邦は垓下の勝ち戦さを祝って、その本営中でみずから楚歌をうたい、それにあわせて愛妾の戚夫人が楚の舞を舞ったのであろうと註している。
おもうに劉邦は、このとき項羽軍の士気をくじくための謀略として、攻囲中の兵士にこの楚人歌「呉謳」「越吟」をうたわせたのであろうが、その計はみごと図にあたったわけである。