詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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§-1 呂后と戚夫人との葛藤 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着―
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(Ⅱ-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10371 |
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(Ⅱ-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10371
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中国史・女性論 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-1 呂后と戚夫人との葛藤
鴻鵠歌
鴻鵠高飛,一舉千里。 羽翮已就,橫絕四海。 橫絕四海,當可奈何? 雖有矰繳,尚安所施? |
鴻鵠の高く飛ぶこと、一挙にして千里。 羽前すでに就れば、横しいままに四海を絶る。 横しいままに四海を絶るを、まさに奈何すべき。 檜緻ありとも、なお安ずくにか施す所き。 |
この歌の鴻鵠(大白鳥)とは、皇太子の盈(のちの第二代孝恵帝)にたとえたもので、太子の勢威がいまや自分の手におえないほど強大になって、独り天下を支配することもできるよう になり、もはや高祖自身の力でもいかんともなしえないことを歎息して歌った詩である。
「鴻鵠の歌」趙王への愛着
このように「鴻鵠の歌」の背景をみてくると、その後半の四句「橫絕四海,當可奈何?雖有矰繳,尚安所施?」には、死を目前にして、天の意志のまえには、どうにもならないわが力を思い知らされた恨みと悔いと諦めにも似た高祖の懐いが、よく唱いあらわされているようである。『史記』の「留侯世家」は、これまでで筆を止めているが、同じ『史記』の巻九六、「周昌伝」や「呂后本紀」などによって、この後の高祖の所行をみると、つぎのようである。
盈の皇太子位が確立すると、いよいよ死期のせまったことを自覚した高祖は、その死後まだ十歳の愛児の超王如意と愛妾の戚夫人とのゆくす、妄案じて心楽しまず、さすがの高祖も、どうしてよいかさえわからなかった。この様子をみて、符璽御史(国璽尚書)の趙夷という年若くて目先のきく男が、高祖に入れ知恵して、当時呂后や群臣たちが敬憚(はばかる)していた御史大夫周昌を、趙相(趙王家の家老)として趙王に侍従させることによって、呂后の復讐の手から幼い趙王の一命を、なんとか守らせようとしたのであった。
周昌については、かれは高祖と同郷の沛の出身であり、かつて泗水駅の卒吏として、亭長劉邦の部下であったが、その人となりは直言・硬骨をもって知られていた。ともに兵を挙げて以来、つねに劉邦に従征して漢朝の建国に大功があったので、高祖の信任が厚く、このとき御史大夫の要職にあった。御史大夫といえば、秦・漢時代には丞相・大尉とならんで、三公の一人にかぞえられる最高の官職であった。
周昌については、その剛直・律義さのゆえに、多くの逸話が伝えられる。かれは、かつては高祖の皇太子廃位に対し、反対の急先鋒として呂后から泣いて感謝されたこともあったが、そのかれに、趙相として趙王如意のお守り役の白羽の矢が立てられたので、一たびは泣いて拒んだにもかかわらず、高祖の懇請はもだし難く、ついに口説きおとされたのであった。運命の皮肉さといえよう。
これほどまでに、趙王への愛情におぼれた高祖をみると、まったく一個の凡夫そのままおむき出した容相である。かれは断ちがたい愛着をのこし、後髪ひかれる思いで命終したことであろう。ここでも、かつては天下人として、思いのままにふるまった太閤秀吉が、その晩年には幼児秀頼に執着するあまり、前田利家・徳川家康らの五大老に、たのみがたいわが児のゆくすえを、せめてもの思いを托しつつ逝った、その哀れな心情と、同じような両雄の業の深さを感じずにはおられない。