詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10728
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
1. 吐蕃【トバン】王国と吐谷渾【トヨクコン】
チベット高原に統一国家がはじめて出現したのは、七世紀初頭のことである。 それまでのチベット高原には、多くのチベット語系部族が分散割拠しておリ、これら諸部族の興亡については確たる史料に乏しく、したがって、これらのものは、わが日本の耶馬台国時代にみるような類ではなかったかと思われる。
それらの分散割拠したチベット系諸部族を打倒して、はじめて統一国家としての吐蕃王国を創建したのは、ソンツェン=ガムポ (漢字訳で棄宗弄讃)である。この王については、中国の史書である新・旧両唐書にも、確かな記録が記載されている。
建国王のソンツェン=ガムポは、伝統ある東南チベットの貴族の出であったようで、父王のナムリ日ソンツェンが部下に毒殺されたので、年若く十三歳ごろ父の後を承け、やがて四方の部族をつぎつぎに統合した。かれは史書の 『通典』巻一九〇によれば、七世紀初めごろの唐の初頭には、精兵十万を擁するほどの強国を創り上げていたようである。
その吐蕃王国が、唐帝国とトラブルをおこしはじめたのは、ソンツェン=ガムポが、ココノール(青海)西方の広大なツァイダム盆地(黄河源地帯)に触手をのばすようになったときからで、ここには中国史書に、吐谷渾―チベット語でアシャ(漢字訳で阿柴虜)という― とよばれた有力部族が拠っていた。
吐谷渾は、その支配部族が東方モンゴリアに拠っていた鮮卑族系の慕答氏の分かれであって、その下にはティペット族や同じ語系の蒐族などの諸部族を従えてツァイダム盆地を根拠に、六世紀なかごろから隆盛になり、北は河西回廊地帯(甘粛省西部)の諸都市国家とも交渉をもち、さらにシルク・ロードのタリーム盆地南辺にも勢力をのばすとともに、南方では四川盆地から長江に沿うて中国の南朝に対しても朝貢貿易を盛んに行っていた。
この吐谷渾國は、隋代の六世紀末ごろから盛期をむかえたが、やがて唐の太宗が西域経略にのり出すと、唐の勢力下において王権の維持に努めたものの、西南方からの吐蕃王ソンツェン=ガムポの侵圧に抗しかねて、国の政情が不安定になると、吐谷渾国をめぐって唐・吐蕃両者の国際関係は、しだいに緊迫化していった。
吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。
鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、次男嫡子の若洛廆(慕容廆)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容廆の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行く着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。
六朝との関係
吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延(中国語版)は于闐国(現:新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。
隋唐との関係
581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善国(現:新疆ウイグル自治区ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。
滅亡
663年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670年に将軍の薛仁貴に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦い(中国語版)で吐蕃軍に包囲され大敗した。これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾部衆は霊州で保護されたが、8世紀中葉、吐蕃軍はさらに唐の領内にも攻め込み、霊州もまた吐蕃軍の陥れるところとなった。一部の吐谷渾部衆はさらに各地に逃れ、その勢力は見る影もなく衰退する。吐谷渾の名は遼代ころまで中国史料に見えるが、その後は漢民族に吸収された。
社会経済
吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。
宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに(唐とチベット王国との関係を背景) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10721
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とチペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
はじめに(唐とチペット王国との関係を背景)
これまでみてきたように、中国の王朝が異民族に公主を降嫁して婚姻関係をとり結んだのは、史書にみるかぎりでは、漢帝国が高祖のとき、北アジアの匈奴国王冒頓単子に公主を降嫁したのにはじまる。 以後隋・唐時代に至るまで、断続的ではあるが、周辺において強勢を誇った国々、たとえば突厥王国や回鶻王国などとは、公主の降嫁による通婚が行われるのが常例であった。唐代になると、北アジア世界の諸部族だけにとどまらず、東西交通路を確保するため、西域の有力都市国家とか、あるいは周辺の異民族国家とも婚姻関係を結んでいる。なかにあって、周辺の少数民族に大きな影響をおよぼしたのは、唐帝国第二代太宗のときの吐蕃 (チベット)国王に対する文成公主の降嫁であった。
文成公主とは640年に唐がチベットに送った皇女だ。強大な吐蕃(かつてのチベット)の要請に従い、唐は16歳の皇女・文成公主を、ソンツェンガンポ王の息子にして吐蕃の王グンソン・グンツェンの妻としてチベットに送った。
ただ、現在に中国で、この説話の文成公主は、“万能の文成公主”という事で、かなりひどい誇張されているので、まとめてみる。
・ポタラ宮はチベット王ソンツェン・ガンポが文成公主をめとるために建てた
・文成公主はチベット仏教の基礎を築いた主要人物である
・ラサ東部の聖山プンパ・リは文成公主が命名した
・タンカは文成公主が発明した
・チベット語の「タシデレ」(こんにちは)は文成公主とお供の者が伝えた
・チンコー麦は文成公主が中国から持ち込んだ
つまり、チベットの伝統文化がいかに形成されたかを改めて語る中で、権力者の強引な発言で全ての物語が変わり、昔の漢人女性一人に統一の大業という重責を負わせてしまった。実際のところ彼女はチベットに来た時、16歳の少女にすぎなかったが、疑いを差し挟めない“作り直し”と“語り直し”がなされ、孫悟空よりも神通力の大きい成果をもたらした人物とされている。彼女にできないことはない。まるで彼女のおかげでチベットは文明を持てたかのようだとされている。中国の歴史の見直しは、往々にしてこの手の手法が用いられている。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10714
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
〝青塚″伝説
最後に、民間に語り伝えられてきた数多くの王昭君悲話の一つを紹介しておこう。それは、内蒙古自治区の呼和浩特市郊外の南約十三、四キロの黄河の支流の一つで、呼和浩特市の西南方の托克托のあたりで黄河に流入する大黒河畔に位置する青塚とよばれる摺鉢形をした、巨大な墳丘に因縁づけられた説話である。
それによると、呼韓邪単子の死後王昭君は、その後をついで即位した義子の復株累若撃早千に再縁することを強いられると、その不倫を悲しみ憤るあまり、天子(成華に訴えて帰国が許されるように願ったが納れられず、ついに黄河に身を投じた。かの女の、この節烈の気に天地も感動し、黄河の水もために逆流して、その屍を大黒河に送りか、∈たので、土民たちが、描これを拾い上げたところ、その顔ばせは恰かも生けるもののようであった。
そこで人びとは、これを神と敬まい、大黒河の河畔に塚を築いて葬ることとした。由来この地方には、白草が多く繁茂したが、ひとりこの塚だけには青草が生じたので、これを青塚と名づけたという。この青塚が王昭君を葬った墳丘として伝説化されたのは、相当古くからのことらしく、唐代の語りものとして、かつて敦煌から出土した「明妃伝」にも
墳高数尺号青塚、還道軍人為立名。
(墳の高さ数尺 青塚を号し、道に軍人を還す為めに名を立つ。)
只今葬在黄河北、西南望見受降城。
(只今 葬黄河の北に在り、西南 降城を受けらるるを望む。)
とみえる点からも、うかがわれるであろう。
ただし、これによると、唐代ごろの青塚は、いまのような巨大なものでなく数尺の高さにすぎなかったようである。ちなみに、この青塚が王昭君の墳丘であるという確証はない。
呼韓邪単干一世は兄の郡支単子との抗争に敗れて、一たびは南方に走って、長城地帯の五原に仮りの拠点を設けたものの、やがて漢軍の後援をえて郡支単千を西走させて、漠北のもとの本営(ノインーウラ付近)に帰っている。王昭君が降嫁したのは、漠北の本営であるから、青塚をかの女の墳丘に比定することは、地理からもつじつまが合わない。やはり一箇の説話とみるべきであろう。
Ⅳ 政略婚《§-2匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像2.王昭君悲話の大衆化と背景
(Ⅳ 政略婚) 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三) 王昭君の虚像2. 王昭君悲話の大衆化と背景 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10707
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
2. 王昭君悲話の大衆化と背景
以上『西京雑記』や『王明君辞』などを通じてみると、三国・晋代ごろの人びとは、王昭君を毛延寿ら宮廷画工の黄金に目のない欲心のために、漢家の犠牲となって匈奴へ嫁ぎ、また勅命のままに義子への再婚を強いられて、数奇な運命のもとに、異境でかりそめの生を終えた悲劇の女性として、いたく同情の涙をそそいだように思われる。
そして両晋から南朝の宋・斉をへて梁朝の天監年中 (五〇二〜五二〇) には、王昭君悲話を主題とする作曲が、つぎつぎに出て楽府に採り入れられている。
たとえば、前掲の 『楽府詩集』 (『四部叢刊』所収) 第五九「琴曲歌辞」には、王昭君の心情を唱った「昭君怨」と題した四言二十四句より成る歌辞をのせるが、これには王昭君が遠く匈奴の王庭にあって、かつての漢延での後宮生活を追懐しつつ、わが身の悲運を嘆いた心情
が描かれている。
盛んに茂った秋の樹も、葉はしぼみ黄ばみはじめる、
一羽の鳥が (王昭君みずからにたとえる) 山に居て、桑の根に巣をつくる、
羽と毛をはぐくみ、輝くばかりの答に育つ、
やがて雲にのぼる力をえて、天上の殿舎にあそぶ、
その離宮はあまりに広く、このからだは疲れはて、
心は暗くふさぎこみ、鳴けもせねば飛べもせず、
すえ膳はあたえられても、心はいつもうつろである、
私ひとりだけがどうして、異なる運命をうけ、
つばめのように飛んで、はるかえびすの地へ行くのか。
高い山はそびえ立ち、河の水はひろびろと流れゆく。
父上よ 母上よ、道のりはあまりにもはるかに。
ああ! かなしいかな、ふさぐ心は痛み傷つく。
《昭君怨》 訳注解説
昭君怨 王昭君
秋木萋萋,其葉萎黄。有鳥處山,集于苞桑。
養育毛羽,形容生光。既得升雲,上遊曲房。
離宮絶曠,身體摧藏。志念抑沈,不得頡頏。
雖得委食,心有徊徨。我獨伊何,來往變常。
翩翩之燕,遠集西羌。高山峨峨,河水泱泱。
父兮母兮,道里悠長。嗚呼哀哉,憂心惻傷。
(昭君怨)
秋木 萋萋(せいせい)として,其の葉 萎黄(ゐくゎう)す。
鳥 有り 山に處(を)り,苞桑(はうさう)に 集(むらが)る。
毛羽を 養育し,形容 光を生ず。
既に 雲に升(のぼ)るを 得て,上つかた 曲房に 遊ぶ。
離宮 絶(はなは)だ 曠(ひろ)くして,身體 摧藏(さいざう)す。
志念 抑沈して,頡頏(けつかう)するを 得ず。
委食を 得(う)と 雖(いへど)も,心に 徊徨(くゎいくゎう)する 有り。
我 獨(ひと)り 伊(こ)れ 何ぞ,來往 常を 變ず。
翩翩(へんぺん)たる 燕,遠く 西羌(せいきゃう)に 集(いた)る。
高山 峨峨(がが)たり,河水 泱泱(あうあう)たり。
父や 母や,道里 悠長なり。
嗚呼(ああ) 哀(かな)しい哉,憂心 惻傷(そくしゃう)す。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10700
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
1. 王昭君悲話の誕生
王昭君に関する悲話があらわれはじめるのは、晋の石崇三四九⊥二〇〇) の 『王明君辞』や同じく葛洪 (二八三l二六三) の 『西京雑記』などからではないかと思う。だから王昭君に関する両漢書の記載を実像とすれば、これらは王昭君の虚像といってもよいであろう。
もともと説話や戯曲は、明人の謝肇制も『五艦哲の中で「小説や戯曲は、虚実相半ばするようにすべきだ」などといい、またわが近松門左衛門も「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの」とかいうように、虚・実おりまぜて、作品化されるものだと考えねばなるまい。
さて、石崇と葛洪とは晋人とはいっても、石崇は西晋時代の人であり、葛洪は石崇より三〇年あまり後輩で、西晋に生まれはしたものの、壮年期は晋室が五胡族をはじめ多種の異民族の華北への乱入をさけて江南へ落ちてゆき、社会の上でも政治の上でも、もっとも変転・変容の激しい時代にあたっている。
いま石崇の『王明君辞』をみると、これはつぎに引用するように、琵琶曲として作曲された五言詩で、多分に戯曲的である。この楽詞は『文選』巻二七「楽府」の条とか、あるいは采の 用郭茂情の編した『楽府詩集』第二九などに収められており、題名の王明君とは、晋の文帝司馬
昭の諒の昭をさけて、王昭君の昭を明と改めたものである。この
後段の二段から成っている。前段にあたる部分は、
千に嫁いだところまでを唱う。
我本漢家子,將適單于庭。 辭決未及終,前驅已抗旌。 僕御涕流離,轅馬悲且鳴。 哀鬱傷五內,泣淚沾朱纓。 行行日已遠,遂造匈奴城。 延我於穹廬,加我閼氏名。 殊類非所安,雖貴非所榮。 |
われはもと漢朝の生まれ、いまや匈奴の王庭に嫁ごうとしている。 いとまごいも終わらないのに、はや前駆の供のものは施旗をかかげる。 下僕や御者たちは別離の湖を流し、わが乗る馬車の馬も悲しみ鳴く。 あふれる涙は、冠の朱ひもを霹らす。 出発して日をかさね遠ざかり行くほどに、ついに匈奴の王庭へついた。 単于延の帳幕に招じ入れられ、(寧胡) 関氏の名を賜った。 しかし異族の中では心安んじるはずもなく、高貴の身分を与えられても栄誉とも思えない。 |
ここまでは、かの女が呼韓邪単千に嫁したのち、寧胡開氏の名を賜って厚遇されたことを唱っ
たものである。そしてまた後段には、呼韓邪単于の死後における、かの女の心情をつぎのように、に唱う。
父子見陵辱,對之慚且驚。 殺身良不易,默默以苟生。 苟生亦何聊,積思常憤盈。 願假飛鴻翼,棄之以遐徵。 飛鴻不我顧,佇立以屏營。 昔爲匣中玉,今爲糞上英。 朝華不足歡,甘與秋草並。 傳語後世人,遠嫁難爲情。 |
父と義子とにわが身を辱しめられ(義子と再婚したことをいう)、これを慙じ且つあきれる。 しかし身を殺すことは良に容易でないので、黙黙として苛の生をつづけるが かりそめの生に、どうして心は安んじようぞ。積る思いに常に憤りはあふれる。 願わくば空飛ぶ鴻の巽をかりて、はるかのかなたへ飛んでかえりたいものよ。 だのに飛ぶ鴻は、わが身のことなど顧みてはくれない。ひとり佇んで不安にとぎされる。 かつては匣の中の玉のように過されたのに、いまは土の上の花びらのよう。 朝咲く華の身は歓ばれもせず、秋草とともに枯れゆくままに甘んじよう。 後の世の人びとに語り伝えてほしい、遠く異境に嫁いだものの心情は堪えがたいことを。 |
この詩をよむと、心ならずも義子の新単子に再嫁したかの女のやるせなさと、それゆえに、いや増す故土への思慕の情と、異境に空しく枯れゆくわが身の嘆きとが、こもごも唱いこまれていて、人びとの涙をそそらずにはおかないものがある。
つぎに、石崇にややおくれた葛浜の 『西京雑記』第二には、王昭君について、つぎのような説話が収められている。
元帝の後宮には宮女が多くて、帝はその一人びとりを召見することができないので、画工にかの女らの容貌や形姿を描かせ、その画像をみて召幸していた。そこで官女たちは、じぶんを少しでも美しく描いてもらうよう、みな画工に五万-十万と賄賂をおくった。ひとり牆(字は昭君)だけは、賄賂をおくることをしなかったので、〔醜婦に描かれて〕帝に見えることができなかった。
そのうちに匈奴 〔王〕が入朝し、美女を求めて閼氏(早手の妃) にしたいと請うたので、帝は宮女たちの画像をみて 〔醜い〕 王昭君に白羽の矢を立てた。ところが帝がいざ昭君を召見してみると、その美貌は後宮第一等であり、対応や挙止も雅やかであったため、帝は〔かの女を旬奴に送ることを〕 ひどく後悔したが、すでに後宮の名簿から、かの女の名は抜かれており、かつ外国〔句奴〕 への信義を重んじて、変更することをしなかった。
そこで事の次第を究明させたところ、画工たちが〔賄賂を受けて〕真実の肖像を描かなかったことが判明したので、毛延寿らの画工をみな死刑〔棄死〕に処し、またその巨万の家財も没収した。
さきにいった前・後両漢書にみえる王昭君の匈奴降嫁のいきさつでは、王昭君がはたして『後漢書』にいうような、元帝の後宮を傾けるほどの美貌の持ち主であったとすれば、かの女はなぜ数年間も、元帝の目にとまらなかったのか、という疑いも、この『西京雑記』によれば、どうやら、つじっまが合うようである。しかし『後漢書』では、王昭君みずからが勾奴降嫁を志願したとあるのに対し、『西京雑記』では、王昭君は黄金に目のない宮廷画工たちの欲心の犠牲になって、その容貌を醜く描かれたため和蕃公主に選ばれ、心ならずも匈奴に降嫁させられたようにいう。それはひどくかの女に同情的であるが、おそらく葛洪が、当時の人びとの語り
伝えを、筆にしたためであろう。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10700
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
1. 王昭君悲話の誕生
王昭君に関する悲話があらわれはじめるのは、晋の石崇三四九⊥二〇〇) の 『王明君辞』や同じく葛洪 (二八三l二六三) の 『西京雑記』などからではないかと思う。だから王昭君に関する両漢書の記載を実像とすれば、これらは王昭君の虚像といってもよいであろう。
もともと説話や戯曲は、明人の謝肇制も『五艦哲の中で「小説や戯曲は、虚実相半ばするようにすべきだ」などといい、またわが近松門左衛門も「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの」とかいうように、虚・実おりまぜて、作品化されるものだと考えねばなるまい。
さて、石崇と葛洪とは晋人とはいっても、石崇は西晋時代の人であり、葛洪は石崇より三〇年あまり後輩で、西晋に生まれはしたものの、壮年期は晋室が五胡族をはじめ多種の異民族の華北への乱入をさけて江南へ落ちてゆき、社会の上でも政治の上でも、もっとも変転・変容の激しい時代にあたっている。
いま石崇の『王明君辞』をみると、これはつぎに引用するように、琵琶曲として作曲された五言詩で、多分に戯曲的である。この楽詞は『文選』巻二七「楽府」の条とか、あるいは采の 用郭茂情の編した『楽府詩集』第二九などに収められており、題名の王明君とは、晋の文帝司馬
昭の諒の昭をさけて、王昭君の昭を明と改めたものである。この
後段の二段から成っている。前段にあたる部分は、
千に嫁いだところまでを唱う。
我本漢家子,將適單于庭。 辭決未及終,前驅已抗旌。 僕御涕流離,轅馬悲且鳴。 哀鬱傷五內,泣淚沾朱纓。 行行日已遠,遂造匈奴城。 延我於穹廬,加我閼氏名。 殊類非所安,雖貴非所榮。 |
われはもと漢朝の生まれ、いまや匈奴の王庭に嫁ごうとしている。 いとまごいも終わらないのに、はや前駆の供のものは施旗をかかげる。 下僕や御者たちは別離の湖を流し、わが乗る馬車の馬も悲しみ鳴く。 あふれる涙は、冠の朱ひもを霹らす。 出発して日をかさね遠ざかり行くほどに、ついに匈奴の王庭へついた。 単于延の帳幕に招じ入れられ、(寧胡) 関氏の名を賜った。 しかし異族の中では心安んじるはずもなく、高貴の身分を与えられても栄誉とも思えない。 |
ここまでは、かの女が呼韓邪単千に嫁したのち、寧胡開氏の名を賜って厚遇されたことを唱っ
たものである。そしてまた後段には、呼韓邪単于の死後における、かの女の心情をつぎのように、に唱う。
父子見陵辱,對之慚且驚。 殺身良不易,默默以苟生。 苟生亦何聊,積思常憤盈。 願假飛鴻翼,棄之以遐徵。 飛鴻不我顧,佇立以屏營。 昔爲匣中玉,今爲糞上英。 朝華不足歡,甘與秋草並。 傳語後世人,遠嫁難爲情。 |
父と義子とにわが身を辱しめられ(義子と再婚したことをいう)、これを慙じ且つあきれる。 しかし身を殺すことは良に容易でないので、黙黙として苛の生をつづけるが かりそめの生に、どうして心は安んじようぞ。積る思いに常に憤りはあふれる。 願わくば空飛ぶ鴻の巽をかりて、はるかのかなたへ飛んでかえりたいものよ。 だのに飛ぶ鴻は、わが身のことなど顧みてはくれない。ひとり佇んで不安にとぎされる。 かつては匣の中の玉のように過されたのに、いまは土の上の花びらのよう。 朝咲く華の身は歓ばれもせず、秋草とともに枯れゆくままに甘んじよう。 後の世の人びとに語り伝えてほしい、遠く異境に嫁いだものの心情は堪えがたいことを。 |
この詩をよむと、心ならずも義子の新単子に再嫁したかの女のやるせなさと、それゆえに、いや増す故土への思慕の情と、異境に空しく枯れゆくわが身の嘆きとが、こもごも唱いこまれていて、人びとの涙をそそらずにはおかないものがある。
つぎに、石崇にややおくれた葛浜の 『西京雑記』第二には、王昭君について、つぎのような説話が収められている。
元帝の後宮には宮女が多くて、帝はその一人びとりを召見することができないので、画工にかの女らの容貌や形姿を描かせ、その画像をみて召幸していた。そこで官女たちは、じぶんを少しでも美しく描いてもらうよう、みな画工に五万-十万と賄賂をおくった。ひとり牆(字は昭君)だけは、賄賂をおくることをしなかったので、〔醜婦に描かれて〕帝に見えることができなかった。
そのうちに匈奴 〔王〕が入朝し、美女を求めて閼氏(早手の妃) にしたいと請うたので、帝は宮女たちの画像をみて 〔醜い〕 王昭君に白羽の矢を立てた。ところが帝がいざ昭君を召見してみると、その美貌は後宮第一等であり、対応や挙止も雅やかであったため、帝は〔かの女を旬奴に送ることを〕 ひどく後悔したが、すでに後宮の名簿から、かの女の名は抜かれており、かつ外国〔句奴〕 への信義を重んじて、変更することをしなかった。
そこで事の次第を究明させたところ、画工たちが〔賄賂を受けて〕真実の肖像を描かなかったことが判明したので、毛延寿らの画工をみな死刑〔棄死〕に処し、またその巨万の家財も没収した。
さきにいった前・後両漢書にみえる王昭君の匈奴降嫁のいきさつでは、王昭君がはたして『後漢書』にいうような、元帝の後宮を傾けるほどの美貌の持ち主であったとすれば、かの女はなぜ数年間も、元帝の目にとまらなかったのか、という疑いも、この『西京雑記』によれば、どうやら、つじっまが合うようである。しかし『後漢書』では、王昭君みずからが勾奴降嫁を志願したとあるのに対し、『西京雑記』では、王昭君は黄金に目のない宮廷画工たちの欲心の犠牲になって、その容貌を醜く描かれたため和蕃公主に選ばれ、心ならずも匈奴に降嫁させられたようにいう。それはひどくかの女に同情的であるが、おそらく葛洪が、当時の人びとの語り
伝えを、筆にしたためであろう。
Ⅳ 政略婚《§-2。匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像3.匈奴の分裂と漢朝への帰順
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10693
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順
ところが落ち目になると、匈奴国内における派閥抗争はしだいに激しくなり、 やがて十三代単子の握衍朐鞮単于(前六〇〜前五八)のとき、単于派と対立する東方諸部長が、前代単于の子稽候珊を擁立して反旗をひるがえし、前五八年、単千を襲撃して自殺させ、稽候珊を呼韓邪単于と称し、第十四代単于に推戴した。
このため国内の分裂は決定的になり、混乱に乗じ五人の有力者が、それぞれに自立して単于を称し、互いに抗争することになった。呼韓邪単于の兄の左賢王もまた自立して郅支単于と称した。その内五單于は干はつぎつぎに倒され、最後に呼韓邪と郡支の兄弟が、東西にわかれて対立したが、前五四年、呼韓邪単千は兄の郭支単千に敗れて北モンゴリアのオルコン河畔の本拠地(ノインーウラ付近)をうばわれ、南方長城地帯の五原(内蒙古自治区、呼和浩特市付近) に奔って漢朝に帰順した。ときに宣帝の甘露三(前五一)年正月のことである。
このように呼韓邪単于が漢朝に帰順したこと自体が、匈奴王国にとっては末曽有の大事件であったため、単于が帰順すべきか否かについて、匈奴諸部大人のあいだでは、激しい論議がたたかわされたという。
こうして帰順した呼韓邪単于は、漢軍の後援をえて兄の郅支単于を西方に迷いおとし、漠北の本拠地ノイン・ウラの王庭に復帰することができはしたものの、そのむかし漢の高祖が冒頓単于に屈服してから約一五〇年にして、両国の関係はここにまったく逆転し、ついに匈奴は漢の軍門に投降することになったのである。
さて降服者として漢延に入朝した呼韓邪単于は、元帝に請うて王昭君を迎えることができたので、匈奴旬奴の王庭における王昭君の待遇は鄭重をきわめた。かの女は寧胡関氏(匈奴を安寧にする妃の意) と称せられ、一男を生んだが、その子は伊屠智牙師といい、右目逐王という宗族諸王にもあたる高位高官を授けられた。
ちなみに、呼韓邪単千には寧胡閑氏の王昭君のほか数人の闘氏があり、これについて『前漢書』 巻九四下、「匈奴伝」 によって表示すると、上のようである。
その後の王昭君については、『後漢書』 の「南匈奴伝」には、さきに引用した一文につづいて成帝の建始二(前三一)年に呼韓邪単于が死ぬと、代わって、その大開氏の長子が立って、〔復株累若碇〕単于となり、王昭君を開氏(単于の妃)にしようと欲した。〔これをきらった〕 かの女は、成帝に上書して故国に帰らんことを願ったが、成帝は詔して、漢家のために胡俗にしたがい、新単于と再婚するよう諭したので、ついにその閼氏となった。こうして、王昭君は再嫁したのち、新単于との間に二人の女子を成したが、長女は、のちに名族の須卜氏に嫁いで須卜居次(公主の意) といい、次女は高官の当于(官名)某に嫁いで当于居次といった。
といえば、王昭君は嫁して三年目の建始二年に、そのころ在位すでに二十八年間におよんだ呼韓邪単于が死んで、若い未亡人となったので、いまいったように、かの女は上害して帰国の許可を願いでたが、成帝-そのとき元帝はすでに没していた― に諭され、ついに匈奴の風習にしたがい、新単于と再婚することになった。良家の子女として儒教的教養を身につけた王昭 君にとって、義理ある仲とはいえ、わが子にあたるものに嫁ぐことは堪えがたい陵辱を感じたであろうし、これが、かの女を悲劇の女性として、後世の人びとの同情と共感とをよびおこさせた点でもあったろうか。
おもうに、王昭君の人となりをみると、かの女は元帝の後宮にあって、長い間召見されないままに過した欲求不満から、みずから匈奴行きを申し出るなど、その容貌に強い自負心をもつ勝気な女性ではなかったか。そのような人となりの女性であったとすれば、匈奴に降嫁した当座は、寧胡得ん閼氏を賜って匈奴王国最高の女性の一人として遇せられ、またその一子は、最高官の一人として右目逐王に任じられていることを思えば、むしろ得意な一刻であったであろう。
さらに再婚後も、ときには心中ひそかに堪えがたい思いに涙することはあったかも知れないが、表面上は漢室の威光を背に、二人の子女もそれぞれ高位の宮人にめあわすなどして、波瀾少ない平和な生涯を送ったもののように思われる。すくなくとも前・後両漢書によるかぎりでは、かく考えるのが常識であろう。
ではどうして、このような王昭君の実像に対して、三世紀ごろから王昭君を悲劇的な運命の主人公とする説話とか詩話や戯曲が生まれるようになったのであろうか。
握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう、Wòyǎnqúdīchányú、? - 紀元前58年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。烏維単于の耳孫(玄孫の子、遠い子孫)。握衍朐鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は屠耆堂(ときとう)という。
Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微
Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10686
中国史・女性論
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
2. 匈奴の衰微
§-1.「烏孫王に嫁いだ細君」の条に説明したように、漢朝に対する匈奴の優位が傾きはじめたのは、漢朝第七代武帝の徹底的な匈奴経略からであった。大将軍衛青および驃騎将軍霍去病らによる、いくたびかの匈奴遠征によって、第五代目匈奴王の伊稚斜単于(前126一114)は、ついにオルドス東北(内蒙古自治区呼和浩特市付近)から、その本拠を、遠く沙漠のかなた北モンゴリアのノイン・ウラ付近(今のモンゴル人民共和国の首都ウラン・バートル市の西北)に移すことになった。
北モンゴリアに移ったのちの約六〇年間、匈奴の国内は、不幸にもたびかさなる大風雪にみまわれ、また、それにともなう飢饉にもおそわれて、人畜の被害ははかり知れず、家畜の保有数は、最盛時に比べ数十分の一に減じたといわれる。その上に、単于の多くは短命であって、六〇年間に八人もの単于が交迭した。当然のこととして単于の生母や外戚が権勢を握って、支配者層の権力争いがたえなかった。こうして、漠北に移ったのちの匈奴王国は、しだいに国力を消耗し、北アジア遊牧部族に対してはもちろん、西域の都市国家群に対しても・支配力を弱めてしまった。そのため漢軍の攻撃にも力いっぱいの反撃を試みはするものの、そのたびに敗北をかさねた。
一方漢軍も、匈奴が北モンゴリアに移ってからは、戦線が遠くなり、以前のような戦果をあげることができなくなった。たとえば、前九九年には、常勝将軍の名をほしいままにしてきた李陵が敗北して匈奴に降ったり、あるいは前九〇年には、名将李広利が西北遠くクリヤスタイ(新彊ウイグル自治区)付近まで軍を進めながら大敗して全滅し、これまた匈奴軍に投降するなど、あるいはまた蘇武が匈奴に使して、バイカル湖畔に幽囚されたと伝えられるのも、この前後のことである。
ただ匈奴は、こうして国力が衰頼して守勢に立ったとはいっても、河西地方(甘粛省西部地区)の奪回と、西域諸国とをその勢力下におくためには総力をあげている。匈奴にとって、西域諸国からの収奪と、それらの諸国を連ねるシルクロードを通じる東西貿易上の利得や、あるいは隊商たちから徴収する通関税などは、遊牧国家の経済を維持する主要な財源であったから、匈奴王国が漠北に封じこめられ、またその国内が天災におそわれれば、おそわれるほど、かれらは、いよいよ西域諸国の支配と東西交通路の保持とには、死力をつくさざるをえなかった。武帝以後西域の都市国家群の支配をめぐって、匈奴と漢朝とが激しい抗争をつづけたのは、このような事情による。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像 1.王昭君の降嫁
(Ⅳ 政略婚) 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像1. 王昭君の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10679
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Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
1. 王昭君の降嫁
王昭君が和蕃公主として、匈奴王に降嫁したいきさつは、「前漢書」巻94下、「匈奴傳」によれば、元帝の竟寧元(前33)年に、匈奴王の呼韓邪単于一世が漢廷に再度目の入朝をしたとき、公主を賜って漢家の婿たらんと懇請したので、元帝は「以後宮良家子、王牆字昭君、賜単于」と伝えるのみである。
ところが『前漢書』についで、その後、南朝の宋の苑曄(398〜445)が編纂した『後漢書』巻一一九、「南匈奴伝」によると、『前漢書』のそれよりもやや詳しく、つぎのように伝える。
元帝のとき、良家の子女を選んで後宮に入れたが、たまたま匈奴国王の呼韓邪単于が〔再度目の〕来朝をし〔公主を賜らんことを請う〕た。そこで元帝は、宮女五人を賜う〔ことを約束し〕た。
たまたま王昭君は後宮に入ったが、数年間一度も帝にお目見えできず、悲怨の念でいっぱいであった。そこで、後宮の執事に、〔匈奴に〕行かんことを願い出、〔五人の一人に選ばれ〕た。いよいよ呼韓邪単于が帰国するにあたり、お別れの大会を催し、帝は五人の宮女を召見したところ、王昭君の美しく飾った豊かな容貌は、後宮のなかを光り輝かせ、かの女がかえりみ排回すれば、左右の人びとはたじろぎ動いた。帝はみてその美しきに大いに驚き、かの女を後宮に留めおこうとしたが、もしそうすれば、匈奴王の信頼を失うことを心配し、ついに、かの女を匈奴王に与えることとした (以下後述)。
ちなみに、通説では王昭君は斉国(山東省)の王穣の女、名は牆といわれるが、一説によれば、生地は李白や杜甫の詩で知られる揚子江畔の白帝城(四川省夔州奉節県)付近の西瀼水の一つ香渓に沿うところであると。杜甫も香渓を、「明妃(王昭君)を生長せし尚お村有り」と詩う。
苑曄の『後漢書』は、班固の『前漢書』よりも、その成立は三〇〇年以上―― 『前漢書』は後漢の章帝、建初七(八二)年に脱稿しているが、苑曄の『後漢書』は全巻120のうち、本紀一〇巻と列伝八〇巻とは、苑曄自身が編纂したものといわれるから、五世紀前半から半ばにかけて、でき上がったと考えてよかろう ― もおくれている。しかし、この『後漢書』以前にも「七家後漢書」などといわれるように、七種ないし八種の後漢書が存在しており、苑曄は当然これらを参照し集成したものと考えられる。
王昭君降嫁の事情は、『後漢書』によるかぎり、かの女が、その美貌に自信をもって元帝の後宮に入ったものの、数年間も召見されないままに留められていたため、空間にたえかねて、みずから進んで匈奴ゆきを志願し、ついにその望みがかなえられたものという。
このように王昭君に関する所伝は、前漢をへて後漢時代にも語りつがれていたのを、苑曄はその著『後漢書』にとりいれたのであろう。したがって、それは『前漢書』より加上されて、いく分かは詳しくなってはいるものの、『前漢書』の原型までも変容したとは考えられない。
そこで、王昭君の匈奴降嫁の歴史的背景であるが、これまで匈奴は、冒頓単于以来漢朝に対し常に優位を保ち、強圧的態度をとってきたのに、どうして呼韓邪単于が、元帝のときになって、二度までも漢延にみずから伺候した上に、公主の降嫁を懇請するまでに落ちぶれてきたのか、について一通り説明しておく必要がある。
Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君
(Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10672
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一) はじめに 「悲劇のヒロイン」王昭君
王昭君は、前漢の元帝(前四九〜前三三)のとき匈奴王に降嫁した公主であるが、公主とは云っても、烏孫王に嫁した江都公主細君のような宗主の女ではなく、後宮の女官が公主と仮称して嫁いだ女性である。
王昭君の匈奴王への降嫁は、さきの江都公主細君よりも、六十年ないし七十年ほど後のことであるが、中国では、この王昭君の降嫁について、その後二、三百年もすぎた三国時代や晋代ごろから、説話や琵琶楽などに悲話的に作曲されるようになり、そののち唐代・宋代と時代が下るにつれて、詩に唱われ、あるいは絵画にも描かれ、さらに雑劇によって戯曲化され、いよいよ悲劇のヒロインとして、人びとの同情をよびおこすようになった。
わが国でも、王昭君の説話や楽曲は、早く平安時代から貴族の間によく知られ、物語りや絵語や雅楽曲として賞玩されたようである。たとえば 『源氏物語』の「寄木」の巻をはじめ、「絵合」の巻にも
長恨歌や王昭君などような絵は、おもしろくあはれなれど、事の忌あるは、こたみは奉らじといい留め給ふ。
などとみえるように、大宮人の間では「長恨歌」なみに知れわたって、いたことがわかる。
こうして虚像としての王昭君は、その実像とは大きくかけはなれて、ひとり歩きするようになった。
それでは王昭君の実像なり、またかの女はどのような歴史的事情で、匈奴王に降嫁することになったのか、などについて少し考えてみたい。