詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10700
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
1. 王昭君悲話の誕生
王昭君に関する悲話があらわれはじめるのは、晋の石崇三四九⊥二〇〇) の 『王明君辞』や同じく葛洪 (二八三l二六三) の 『西京雑記』などからではないかと思う。だから王昭君に関する両漢書の記載を実像とすれば、これらは王昭君の虚像といってもよいであろう。
もともと説話や戯曲は、明人の謝肇制も『五艦哲の中で「小説や戯曲は、虚実相半ばするようにすべきだ」などといい、またわが近松門左衛門も「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの」とかいうように、虚・実おりまぜて、作品化されるものだと考えねばなるまい。
さて、石崇と葛洪とは晋人とはいっても、石崇は西晋時代の人であり、葛洪は石崇より三〇年あまり後輩で、西晋に生まれはしたものの、壮年期は晋室が五胡族をはじめ多種の異民族の華北への乱入をさけて江南へ落ちてゆき、社会の上でも政治の上でも、もっとも変転・変容の激しい時代にあたっている。
いま石崇の『王明君辞』をみると、これはつぎに引用するように、琵琶曲として作曲された五言詩で、多分に戯曲的である。この楽詞は『文選』巻二七「楽府」の条とか、あるいは采の 用郭茂情の編した『楽府詩集』第二九などに収められており、題名の王明君とは、晋の文帝司馬
昭の諒の昭をさけて、王昭君の昭を明と改めたものである。この
後段の二段から成っている。前段にあたる部分は、
千に嫁いだところまでを唱う。
我本漢家子,將適單于庭。 辭決未及終,前驅已抗旌。 僕御涕流離,轅馬悲且鳴。 哀鬱傷五內,泣淚沾朱纓。 行行日已遠,遂造匈奴城。 延我於穹廬,加我閼氏名。 殊類非所安,雖貴非所榮。 |
われはもと漢朝の生まれ、いまや匈奴の王庭に嫁ごうとしている。 いとまごいも終わらないのに、はや前駆の供のものは施旗をかかげる。 下僕や御者たちは別離の湖を流し、わが乗る馬車の馬も悲しみ鳴く。 あふれる涙は、冠の朱ひもを霹らす。 出発して日をかさね遠ざかり行くほどに、ついに匈奴の王庭へついた。 単于延の帳幕に招じ入れられ、(寧胡) 関氏の名を賜った。 しかし異族の中では心安んじるはずもなく、高貴の身分を与えられても栄誉とも思えない。 |
ここまでは、かの女が呼韓邪単千に嫁したのち、寧胡開氏の名を賜って厚遇されたことを唱っ
たものである。そしてまた後段には、呼韓邪単于の死後における、かの女の心情をつぎのように、に唱う。
父子見陵辱,對之慚且驚。 殺身良不易,默默以苟生。 苟生亦何聊,積思常憤盈。 願假飛鴻翼,棄之以遐徵。 飛鴻不我顧,佇立以屏營。 昔爲匣中玉,今爲糞上英。 朝華不足歡,甘與秋草並。 傳語後世人,遠嫁難爲情。 |
父と義子とにわが身を辱しめられ(義子と再婚したことをいう)、これを慙じ且つあきれる。 しかし身を殺すことは良に容易でないので、黙黙として苛の生をつづけるが かりそめの生に、どうして心は安んじようぞ。積る思いに常に憤りはあふれる。 願わくば空飛ぶ鴻の巽をかりて、はるかのかなたへ飛んでかえりたいものよ。 だのに飛ぶ鴻は、わが身のことなど顧みてはくれない。ひとり佇んで不安にとぎされる。 かつては匣の中の玉のように過されたのに、いまは土の上の花びらのよう。 朝咲く華の身は歓ばれもせず、秋草とともに枯れゆくままに甘んじよう。 後の世の人びとに語り伝えてほしい、遠く異境に嫁いだものの心情は堪えがたいことを。 |
この詩をよむと、心ならずも義子の新単子に再嫁したかの女のやるせなさと、それゆえに、いや増す故土への思慕の情と、異境に空しく枯れゆくわが身の嘆きとが、こもごも唱いこまれていて、人びとの涙をそそらずにはおかないものがある。
つぎに、石崇にややおくれた葛浜の 『西京雑記』第二には、王昭君について、つぎのような説話が収められている。
元帝の後宮には宮女が多くて、帝はその一人びとりを召見することができないので、画工にかの女らの容貌や形姿を描かせ、その画像をみて召幸していた。そこで官女たちは、じぶんを少しでも美しく描いてもらうよう、みな画工に五万-十万と賄賂をおくった。ひとり牆(字は昭君)だけは、賄賂をおくることをしなかったので、〔醜婦に描かれて〕帝に見えることができなかった。
そのうちに匈奴 〔王〕が入朝し、美女を求めて閼氏(早手の妃) にしたいと請うたので、帝は宮女たちの画像をみて 〔醜い〕 王昭君に白羽の矢を立てた。ところが帝がいざ昭君を召見してみると、その美貌は後宮第一等であり、対応や挙止も雅やかであったため、帝は〔かの女を旬奴に送ることを〕 ひどく後悔したが、すでに後宮の名簿から、かの女の名は抜かれており、かつ外国〔句奴〕 への信義を重んじて、変更することをしなかった。
そこで事の次第を究明させたところ、画工たちが〔賄賂を受けて〕真実の肖像を描かなかったことが判明したので、毛延寿らの画工をみな死刑〔棄死〕に処し、またその巨万の家財も没収した。
さきにいった前・後両漢書にみえる王昭君の匈奴降嫁のいきさつでは、王昭君がはたして『後漢書』にいうような、元帝の後宮を傾けるほどの美貌の持ち主であったとすれば、かの女はなぜ数年間も、元帝の目にとまらなかったのか、という疑いも、この『西京雑記』によれば、どうやら、つじっまが合うようである。しかし『後漢書』では、王昭君みずからが勾奴降嫁を志願したとあるのに対し、『西京雑記』では、王昭君は黄金に目のない宮廷画工たちの欲心の犠牲になって、その容貌を醜く描かれたため和蕃公主に選ばれ、心ならずも匈奴に降嫁させられたようにいう。それはひどくかの女に同情的であるが、おそらく葛洪が、当時の人びとの語り
伝えを、筆にしたためであろう。