詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10714
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
〝青塚″伝説
最後に、民間に語り伝えられてきた数多くの王昭君悲話の一つを紹介しておこう。それは、内蒙古自治区の呼和浩特市郊外の南約十三、四キロの黄河の支流の一つで、呼和浩特市の西南方の托克托のあたりで黄河に流入する大黒河畔に位置する青塚とよばれる摺鉢形をした、巨大な墳丘に因縁づけられた説話である。
それによると、呼韓邪単子の死後王昭君は、その後をついで即位した義子の復株累若撃早千に再縁することを強いられると、その不倫を悲しみ憤るあまり、天子(成華に訴えて帰国が許されるように願ったが納れられず、ついに黄河に身を投じた。かの女の、この節烈の気に天地も感動し、黄河の水もために逆流して、その屍を大黒河に送りか、∈たので、土民たちが、描これを拾い上げたところ、その顔ばせは恰かも生けるもののようであった。
そこで人びとは、これを神と敬まい、大黒河の河畔に塚を築いて葬ることとした。由来この地方には、白草が多く繁茂したが、ひとりこの塚だけには青草が生じたので、これを青塚と名づけたという。この青塚が王昭君を葬った墳丘として伝説化されたのは、相当古くからのことらしく、唐代の語りものとして、かつて敦煌から出土した「明妃伝」にも
墳高数尺号青塚、還道軍人為立名。
(墳の高さ数尺 青塚を号し、道に軍人を還す為めに名を立つ。)
只今葬在黄河北、西南望見受降城。
(只今 葬黄河の北に在り、西南 降城を受けらるるを望む。)
とみえる点からも、うかがわれるであろう。
ただし、これによると、唐代ごろの青塚は、いまのような巨大なものでなく数尺の高さにすぎなかったようである。ちなみに、この青塚が王昭君の墳丘であるという確証はない。
呼韓邪単干一世は兄の郡支単子との抗争に敗れて、一たびは南方に走って、長城地帯の五原に仮りの拠点を設けたものの、やがて漢軍の後援をえて郡支単千を西走させて、漠北のもとの本営(ノインーウラ付近)に帰っている。王昭君が降嫁したのは、漠北の本営であるから、青塚をかの女の墳丘に比定することは、地理からもつじつまが合わない。やはり一箇の説話とみるべきであろう。