詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君
(Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10672
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一) はじめに 「悲劇のヒロイン」王昭君
王昭君は、前漢の元帝(前四九〜前三三)のとき匈奴王に降嫁した公主であるが、公主とは云っても、烏孫王に嫁した江都公主細君のような宗主の女ではなく、後宮の女官が公主と仮称して嫁いだ女性である。
王昭君の匈奴王への降嫁は、さきの江都公主細君よりも、六十年ないし七十年ほど後のことであるが、中国では、この王昭君の降嫁について、その後二、三百年もすぎた三国時代や晋代ごろから、説話や琵琶楽などに悲話的に作曲されるようになり、そののち唐代・宋代と時代が下るにつれて、詩に唱われ、あるいは絵画にも描かれ、さらに雑劇によって戯曲化され、いよいよ悲劇のヒロインとして、人びとの同情をよびおこすようになった。
わが国でも、王昭君の説話や楽曲は、早く平安時代から貴族の間によく知られ、物語りや絵語や雅楽曲として賞玩されたようである。たとえば 『源氏物語』の「寄木」の巻をはじめ、「絵合」の巻にも
長恨歌や王昭君などような絵は、おもしろくあはれなれど、事の忌あるは、こたみは奉らじといい留め給ふ。
などとみえるように、大宮人の間では「長恨歌」なみに知れわたって、いたことがわかる。
こうして虚像としての王昭君は、その実像とは大きくかけはなれて、ひとり歩きするようになった。
それでは王昭君の実像なり、またかの女はどのような歴史的事情で、匈奴王に降嫁することになったのか、などについて少し考えてみたい。