詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像 1.王昭君の降嫁
(Ⅳ 政略婚) 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像1. 王昭君の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10679
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
1. 王昭君の降嫁
王昭君が和蕃公主として、匈奴王に降嫁したいきさつは、「前漢書」巻94下、「匈奴傳」によれば、元帝の竟寧元(前33)年に、匈奴王の呼韓邪単于一世が漢廷に再度目の入朝をしたとき、公主を賜って漢家の婿たらんと懇請したので、元帝は「以後宮良家子、王牆字昭君、賜単于」と伝えるのみである。
ところが『前漢書』についで、その後、南朝の宋の苑曄(398〜445)が編纂した『後漢書』巻一一九、「南匈奴伝」によると、『前漢書』のそれよりもやや詳しく、つぎのように伝える。
元帝のとき、良家の子女を選んで後宮に入れたが、たまたま匈奴国王の呼韓邪単于が〔再度目の〕来朝をし〔公主を賜らんことを請う〕た。そこで元帝は、宮女五人を賜う〔ことを約束し〕た。
たまたま王昭君は後宮に入ったが、数年間一度も帝にお目見えできず、悲怨の念でいっぱいであった。そこで、後宮の執事に、〔匈奴に〕行かんことを願い出、〔五人の一人に選ばれ〕た。いよいよ呼韓邪単于が帰国するにあたり、お別れの大会を催し、帝は五人の宮女を召見したところ、王昭君の美しく飾った豊かな容貌は、後宮のなかを光り輝かせ、かの女がかえりみ排回すれば、左右の人びとはたじろぎ動いた。帝はみてその美しきに大いに驚き、かの女を後宮に留めおこうとしたが、もしそうすれば、匈奴王の信頼を失うことを心配し、ついに、かの女を匈奴王に与えることとした (以下後述)。
ちなみに、通説では王昭君は斉国(山東省)の王穣の女、名は牆といわれるが、一説によれば、生地は李白や杜甫の詩で知られる揚子江畔の白帝城(四川省夔州奉節県)付近の西瀼水の一つ香渓に沿うところであると。杜甫も香渓を、「明妃(王昭君)を生長せし尚お村有り」と詩う。
苑曄の『後漢書』は、班固の『前漢書』よりも、その成立は三〇〇年以上―― 『前漢書』は後漢の章帝、建初七(八二)年に脱稿しているが、苑曄の『後漢書』は全巻120のうち、本紀一〇巻と列伝八〇巻とは、苑曄自身が編纂したものといわれるから、五世紀前半から半ばにかけて、でき上がったと考えてよかろう ― もおくれている。しかし、この『後漢書』以前にも「七家後漢書」などといわれるように、七種ないし八種の後漢書が存在しており、苑曄は当然これらを参照し集成したものと考えられる。
王昭君降嫁の事情は、『後漢書』によるかぎり、かの女が、その美貌に自信をもって元帝の後宮に入ったものの、数年間も召見されないままに留められていたため、空間にたえかねて、みずから進んで匈奴ゆきを志願し、ついにその望みがかなえられたものという。
このように王昭君に関する所伝は、前漢をへて後漢時代にも語りつがれていたのを、苑曄はその著『後漢書』にとりいれたのであろう。したがって、それは『前漢書』より加上されて、いく分かは詳しくなってはいるものの、『前漢書』の原型までも変容したとは考えられない。
そこで、王昭君の匈奴降嫁の歴史的背景であるが、これまで匈奴は、冒頓単于以来漢朝に対し常に優位を保ち、強圧的態度をとってきたのに、どうして呼韓邪単于が、元帝のときになって、二度までも漢延にみずから伺候した上に、公主の降嫁を懇請するまでに落ちぶれてきたのか、について一通り説明しておく必要がある。