詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
Ⅳ 政略婚《§-2。匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像3.匈奴の分裂と漢朝への帰順
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10693
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順
ところが落ち目になると、匈奴国内における派閥抗争はしだいに激しくなり、 やがて十三代単子の握衍朐鞮単于(前六〇〜前五八)のとき、単于派と対立する東方諸部長が、前代単于の子稽候珊を擁立して反旗をひるがえし、前五八年、単千を襲撃して自殺させ、稽候珊を呼韓邪単于と称し、第十四代単于に推戴した。
このため国内の分裂は決定的になり、混乱に乗じ五人の有力者が、それぞれに自立して単于を称し、互いに抗争することになった。呼韓邪単于の兄の左賢王もまた自立して郅支単于と称した。その内五單于は干はつぎつぎに倒され、最後に呼韓邪と郡支の兄弟が、東西にわかれて対立したが、前五四年、呼韓邪単千は兄の郭支単千に敗れて北モンゴリアのオルコン河畔の本拠地(ノインーウラ付近)をうばわれ、南方長城地帯の五原(内蒙古自治区、呼和浩特市付近) に奔って漢朝に帰順した。ときに宣帝の甘露三(前五一)年正月のことである。
このように呼韓邪単于が漢朝に帰順したこと自体が、匈奴王国にとっては末曽有の大事件であったため、単于が帰順すべきか否かについて、匈奴諸部大人のあいだでは、激しい論議がたたかわされたという。
こうして帰順した呼韓邪単于は、漢軍の後援をえて兄の郅支単于を西方に迷いおとし、漠北の本拠地ノイン・ウラの王庭に復帰することができはしたものの、そのむかし漢の高祖が冒頓単于に屈服してから約一五〇年にして、両国の関係はここにまったく逆転し、ついに匈奴は漢の軍門に投降することになったのである。
さて降服者として漢延に入朝した呼韓邪単于は、元帝に請うて王昭君を迎えることができたので、匈奴旬奴の王庭における王昭君の待遇は鄭重をきわめた。かの女は寧胡関氏(匈奴を安寧にする妃の意) と称せられ、一男を生んだが、その子は伊屠智牙師といい、右目逐王という宗族諸王にもあたる高位高官を授けられた。
ちなみに、呼韓邪単千には寧胡閑氏の王昭君のほか数人の闘氏があり、これについて『前漢書』 巻九四下、「匈奴伝」 によって表示すると、上のようである。
その後の王昭君については、『後漢書』 の「南匈奴伝」には、さきに引用した一文につづいて成帝の建始二(前三一)年に呼韓邪単于が死ぬと、代わって、その大開氏の長子が立って、〔復株累若碇〕単于となり、王昭君を開氏(単于の妃)にしようと欲した。〔これをきらった〕 かの女は、成帝に上書して故国に帰らんことを願ったが、成帝は詔して、漢家のために胡俗にしたがい、新単于と再婚するよう諭したので、ついにその閼氏となった。こうして、王昭君は再嫁したのち、新単于との間に二人の女子を成したが、長女は、のちに名族の須卜氏に嫁いで須卜居次(公主の意) といい、次女は高官の当于(官名)某に嫁いで当于居次といった。
といえば、王昭君は嫁して三年目の建始二年に、そのころ在位すでに二十八年間におよんだ呼韓邪単于が死んで、若い未亡人となったので、いまいったように、かの女は上害して帰国の許可を願いでたが、成帝-そのとき元帝はすでに没していた― に諭され、ついに匈奴の風習にしたがい、新単于と再婚することになった。良家の子女として儒教的教養を身につけた王昭 君にとって、義理ある仲とはいえ、わが子にあたるものに嫁ぐことは堪えがたい陵辱を感じたであろうし、これが、かの女を悲劇の女性として、後世の人びとの同情と共感とをよびおこさせた点でもあったろうか。
おもうに、王昭君の人となりをみると、かの女は元帝の後宮にあって、長い間召見されないままに過した欲求不満から、みずから匈奴行きを申し出るなど、その容貌に強い自負心をもつ勝気な女性ではなかったか。そのような人となりの女性であったとすれば、匈奴に降嫁した当座は、寧胡得ん閼氏を賜って匈奴王国最高の女性の一人として遇せられ、またその一子は、最高官の一人として右目逐王に任じられていることを思えば、むしろ得意な一刻であったであろう。
さらに再婚後も、ときには心中ひそかに堪えがたい思いに涙することはあったかも知れないが、表面上は漢室の威光を背に、二人の子女もそれぞれ高位の宮人にめあわすなどして、波瀾少ない平和な生涯を送ったもののように思われる。すくなくとも前・後両漢書によるかぎりでは、かく考えるのが常識であろう。
ではどうして、このような王昭君の実像に対して、三世紀ごろから王昭君を悲劇的な運命の主人公とする説話とか詩話や戯曲が生まれるようになったのであろうか。
握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう、Wòyǎnqúdīchányú、? - 紀元前58年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。烏維単于の耳孫(玄孫の子、遠い子孫)。握衍朐鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は屠耆堂(ときとう)という。