詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに(唐とチベット王国との関係を背景) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10721
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とチペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
はじめに(唐とチペット王国との関係を背景)
これまでみてきたように、中国の王朝が異民族に公主を降嫁して婚姻関係をとり結んだのは、史書にみるかぎりでは、漢帝国が高祖のとき、北アジアの匈奴国王冒頓単子に公主を降嫁したのにはじまる。 以後隋・唐時代に至るまで、断続的ではあるが、周辺において強勢を誇った国々、たとえば突厥王国や回鶻王国などとは、公主の降嫁による通婚が行われるのが常例であった。唐代になると、北アジア世界の諸部族だけにとどまらず、東西交通路を確保するため、西域の有力都市国家とか、あるいは周辺の異民族国家とも婚姻関係を結んでいる。なかにあって、周辺の少数民族に大きな影響をおよぼしたのは、唐帝国第二代太宗のときの吐蕃 (チベット)国王に対する文成公主の降嫁であった。
文成公主とは640年に唐がチベットに送った皇女だ。強大な吐蕃(かつてのチベット)の要請に従い、唐は16歳の皇女・文成公主を、ソンツェンガンポ王の息子にして吐蕃の王グンソン・グンツェンの妻としてチベットに送った。
ただ、現在に中国で、この説話の文成公主は、“万能の文成公主”という事で、かなりひどい誇張されているので、まとめてみる。
・ポタラ宮はチベット王ソンツェン・ガンポが文成公主をめとるために建てた
・文成公主はチベット仏教の基礎を築いた主要人物である
・ラサ東部の聖山プンパ・リは文成公主が命名した
・タンカは文成公主が発明した
・チベット語の「タシデレ」(こんにちは)は文成公主とお供の者が伝えた
・チンコー麦は文成公主が中国から持ち込んだ
つまり、チベットの伝統文化がいかに形成されたかを改めて語る中で、権力者の強引な発言で全ての物語が変わり、昔の漢人女性一人に統一の大業という重責を負わせてしまった。実際のところ彼女はチベットに来た時、16歳の少女にすぎなかったが、疑いを差し挟めない“作り直し”と“語り直し”がなされ、孫悟空よりも神通力の大きい成果をもたらした人物とされている。彼女にできないことはない。まるで彼女のおかげでチベットは文明を持てたかのようだとされている。中国の歴史の見直しは、往々にしてこの手の手法が用いられている。