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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10728

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Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10728

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾

 

 

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10728

 

 

中国史・女性論

 

 

Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)

 

-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主

はじめに(唐とティペット王国との関係を背景)

1. 吐蕃王国と吐谷渾

2. 唐と吐蕃の関係

3. 文成公主の降嫁

  

§-4 蔡文姫史話

1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫

2. 蔡文姫について

3. 後漢末の政治の乱れ

4. 黄巾の乱と軍閥の混戦

5. 悲憤の詩

6. 南匈奴部と後漢帝国との関係

7. 南匈奴部の反乱と分裂

8. 帰都の実現

9. 母子別離の情

 

 

 

-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主

 

1. 吐蕃【トバン】王国と吐谷渾【トヨクコン】

 

チベット高原に統一国家がはじめて出現したのは、七世紀初頭のことである。 それまでのチベット高原には、多くのチベット語系部族が分散割拠しておリ、これら諸部族の興亡については確たる史料に乏しく、したがって、これらのものは、わが日本の耶馬台国時代にみるような類ではなかったかと思われる。

それらの分散割拠したチベット系諸部族を打倒して、はじめて統一国家としての吐蕃王国を創建したのは、ソンツェンガムポ (漢字訳で棄宗弄讃)である。この王については、中国の史書である新・旧両唐書にも、確かな記録が記載されている。

建国王のソンツェン=ガムポは、伝統ある東南チベットの貴族の出であったようで、父王のナムリ日ソンツェンが部下に毒殺されたので、年若く十三歳ごろ父の後を承け、やがて四方の部族をつぎつぎに統合した。かれは史書の 『通典』巻一九〇によれば、七世紀初めごろの唐の初頭には、精兵十万を擁するほどの強国を創り上げていたようである。

 

その吐蕃王国が、唐帝国とトラブルをおこしはじめたのは、ソンツェンガムポが、ココノール(青海)西方の広大なツァイダム盆地(黄河源地帯)に触手をのばすようになったときからで、ここには中国史書に、吐谷渾―チベット語でアシャ(漢字訳で阿柴虜)という― とよばれた有力部族が拠っていた。

吐谷渾は、その支配部族が東方モンゴリアに拠っていた鮮卑族系の慕答氏の分かれであって、その下にはティペット族や同じ語系の蒐族などの諸部族を従えてツァイダム盆地を根拠に、六世紀なかごろから隆盛になり、北は河西回廊地帯(甘粛省西部)の諸都市国家とも交渉をもち、さらにシルク・ロードのタリーム盆地南辺にも勢力をのばすとともに、南方では四川盆地から長江に沿うて中国の南朝に対しても朝貢貿易を盛んに行っていた。

 

この吐谷渾國は、隋代の六世紀末ごろから盛期をむかえたが、やがて唐の太宗が西域経略にのり出すと、唐の勢力下において王権の維持に努めたものの、西南方からの吐蕃王ソンツェンガムポの侵圧に抗しかねて、国の政情が不安定になると、吐谷渾国をめぐって唐・吐蕃両者の国際関係は、しだいに緊迫化していった。

 

吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。

鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、次男嫡子の若洛廆(慕容廆)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容廆の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行く着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。

 

六朝との関係

吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延(中国語版)は于闐国(現:新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。

 

隋唐との関係

581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善国(現:新疆ウイグル自治区ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。

 

滅亡

663年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670年に将軍の薛仁貴に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦い(中国語版)で吐蕃軍に包囲され大敗した。これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾部衆は霊州で保護されたが、8世紀中葉、吐蕃軍はさらに唐の領内にも攻め込み、霊州もまた吐蕃軍の陥れるところとなった。一部の吐谷渾部衆はさらに各地に逃れ、その勢力は見る影もなく衰退する。吐谷渾の名は遼代ころまで中国史料に見えるが、その後は漢民族に吸収された。

 

社会経済

吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。

 

宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

P R