詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2018年3月19日 |
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(8)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》2. 虞美人について 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10308
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
2. 虞美人について
劉邦の愛妾戚夫人が楚の舞を舞ったことに関連して、項羽の寵姫虞美人についてもみてみよう。
『史記』には虞は名といい、『漢書』は姓というが、おそらく『漢書』の万が正しく、虞はこの女性の姓であろう。伝えられるところでは、虞姫の一族は、山東の領主斉国の官僚であったが、斉国が家臣の田氏に奪われると、虞氏一族は田氏討伐に向かった項羽軍に内応しょうとして、その企てがばれ、かの女が十四 五歳のとき両親も田氏の軍に斬られたため、天涯の孤児として路傍に投げ出されていたところを、折りよく行軍中の項羽の目にとまって救い出され、やがてまだ正妻をもっていなかった項羽の愛妾として陣中に留められ、楚・漢の戦いの数年間を通じて、常に項羽と形影相伴いつつ、ついに垓下にたどりついたのであった。このような項羽と虞姫との出会いは運命的というほかあるまい。
ちなみに、虞美人の「美人」は、普通名詞ではなく、劉邦の愛妾戚夫人や唐の玄宗皇帝の寵姫楊貴妃などの「夫人」とか「貴妃」などと同じく、後宮の女官の位階を示す名称で、楚王項羽の寵姫虞氏の意である。
さて唐の張守節の『史記正義』には、陸賈の『楚漢春秋』によったとして、垓下の帳中での項羽の垓下の詩に唱和して虞姫も
漢兵己略地、四万楚歌声、大王意気尽、賎妾何柳生
(漢の兵はすでにわが地を略し、四方に楚歌の声がする。わが大王(項羽)の意気は、つきてしまったうえは、妾もなんぞ生を安んじられようぞ)
とうたったという。この虞姫の詩について、前記の『楚漢春秋』には、後世の付加、ざん入が多いという点から、学者のあいだに、後人の偽托とする説もある。しかしこの五言詩が、たとい後人の偽托であるにしても、最後まで項羽に殉じようとする虞姫の一途の心情をよく詠みあらわしているといえよう。虞姫こそは、楚・漢抗争のかげに散った一輪の名花といえよう。
『史記正義』は、唐初の魏王泰らの撰である『括地志』を引いて
虞姫の墓は、濠州定遠県(安徽省定遠県)の東六十里に在る。長老たち伝えいう、項羽の
〔虞〕 美人の塚である。
といえば、かの女の墓所は、安徽省東城の近くに在ったことが知られる。かれこれ思いあわせると、かの女は、項羽に従って垓下の囲みを脱出したのち、項羽が陰陵で道にふみ迷って、漢の追討軍に追いつかれ、従騎二十八人とともに、東に道をとって東城におもむく途上で、項羽にみまもられながら、そのみじかい生を終えたもののようである。
さすれば、たとい薄命ではあったにしても、かの女は幸せな最後をとげたものといえよう。事実ははたしてそのようであったか、どうかはわからないが、すくなくとも、その墓の所在を信じるかぎり、このように推測しておきたい。
ともあれ、虞姫は楚漢戦争のかげに咲いた一輪の美人草であった。美人草といえば、わが国の謡曲『項羽』は、観世二代目の世阿弥―室町初期、足利義満に仕える―の作といわれ、項羽と虞美人とを立役にするが、この書は当初、『美人草』という題名であったという。楚漢の戦いのかげに咲いた項羽と虞姫との悲恋物語は、かなり古くからわが国にも伝、えられていたことがわかる。
2018年3月18日 |
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
2018年3月16日 |
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§-2 垓下の戦い
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(5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10287
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項羽と虞美人
§-1 楚・漢の抗争
1.秦末の群雄蜂起
2.項梁と項羽の挙兵
3.劉邦の人となり
4.鴻門の会
5.楚・漢の抗争 (劉邦の挑戦)
5. 楚・漢抗争 -劉邦の挑戦
さて、秦都威陽に入城した項羽は、三世黄帝子嬰を殺して秦朝をほろぼすと、つぎには叔父項梁が擁立した懐王義帝をも彭城から追放し、みずから「西楚の覇王」と称して天下に号令し、群雄諸侯を各地に封じて論功行賞を行った。そのとき項羽は、さきの懐王と諸侯との約束―関中に一番乗りした者が関中の王に封じられる―を無視して、まっ先に入関した劉邦を漢王として、巴(四川省重慶地方)、蜀(四川省成都地方)、漢中(陝西省南部)を与え、西南の四川省境に近い辺地の南鄭(陝西省南鄭縣)に封じこめ、みずからは中原をふくむ九郡を領有して東のかた彭城に都した。
劉邦を巴蜀の地に封じた項羽のいい分は「巴・蜀もまた関中の地である」であったが、なんとも苦しい自己弁護をした(同時に人物の小ささを天下に示した)。
南鄭に移封された漢王劉邦は、項羽が咸陽をすてて彭城に東帰すると、またたく間に関中全域を併せて檪陽(西安市の東北)に本拠を移し、項羽の論功行賞に不満をいだく関東の諸侯と気脈を通じつつ、たまたま漢二(前二〇五)年項羽が義帝を弑殺すると、その無道を難じて宣戦を布告したので、りっぱな大義名分をかかげた挑戦であることになった。
紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、梁(旧魏の地)を攻撃させた。
かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。
そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。
項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。
項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠・彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は浮き足立って軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。
紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。
追い詰められた劉邦であったが、陳平や紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。
そこで両雄は、いよいよ中原をはさんで東西に対決することになったが、史書はこれを「楚・漢の抗争」という。関中から出撃した劉邦は、彭越たちに命じて項羽の後方を撹乱させ、これに乗った項羽は彭越の方へと軍を向けた。この隙に劉邦は秦の食料集積地であった敖倉の食料を手に入れ、滎陽の北の広武山に陣した。彭越たちを追い散らした項羽は、戻ってきてその向かい側の山に対陣した。
彭越たちは項羽軍の後方撹乱を続けたので、項羽は食糧不足に悩んだ。漢軍では途中で劉邦が負傷したこともあって、両軍共に和睦を望むようになり、劉邦軍の弁士・侯公が使者となって和睦し、天下を二分することを取り決めて両軍が引き上げることになった。
劉邦はそのまま引き上げる気でいたが、張良と陳平は、楚軍が本拠に帰って英気を養った後では漢軍は到底敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきだと進言した。
劉邦はこれに従って楚軍を後ろから襲ったが、敗北した。これに先立って韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、2人は来なかった。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからである。張良にこれを指摘された劉邦は、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする約束をした。果たして2人は軍を率いて加勢し、兵力で圧倒した漢軍は楚軍を垓下(今安徽省宿州市霊璧県南部)へと追い詰める(垓下の戦い)。
さて楚・漢抗争の主要な舞台は、太行山脈が黄河および洛水をよぎるあたり、今日の河南省中央部の滎陽から氾水のあいだであり、それは中原をめぐる関西方(関中)の漢軍と関東万の楚軍との争覇戦であった。両雄はここで死闘をくりかえすこと五カ年、戦いは終始楚王項羽の優勢裡にすすめられ、漢王劉邦は父母妻子を捕えられて人質にされるなど、いくたびか最後かと思われる苦境に立ったが、劉邦のねばり強さと、張良・陳平らの智謀と韓信・廬綰らのすぐれた戦略と、さらには蕭何の政略とに助けられて、ついに垓下の決戦で項羽をたおし、勝利の栄冠を握ることができた。
さて楚・漢抗争中における項羽と劉邦との戦いぶりをみると、まさに項羽の武力と劉邦の智力との戦いであった。項羽は自分の武力に絶大の自負をもつのに対し、劉邦は、かつて成皋の広武山に楚・漢両軍が対峙したとき、項羽が
願わくば漢王に戦いを挑み雌雄を決せん。
と詰め寄ると、劉邦は笑いながら、
われわれはむしろ智を闘わそうとも、力を闘わすことはできない(『史記』第七巻、「項羽本紀」)といって、武力ではかなわないが、智力で闘おうと、かるく項羽の挑戦をかわしている。項羽の挑んだのは一個人の武力であり、匹夫の勇であるが、劉邦の智力とは、そのブレーンたちの衆智を結集した総力であった。したがって、このときも項羽が短期決戦を挑んだのに対し、劉邦は長期持久をのぞんだ。劉邦はもちまえの包擁力と忍耐力とで衆智、総力を結集して最後の勝利をかちえたのであった。
2018年3月14日 |
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項羽と虞美人
§-1 楚・漢の抗争
1.秦末の群雄蜂起
2.項梁と項羽の挙兵
3.劉邦の人となり
4.鴻門の会
5.楚・漢の抗争 (劉邦の挑戦)
4. 鴻門の会
楚・漢抗争の序幕ともいえるのは、有名な「鴻門の会」である。項羽のひきいた楚の本軍が、鉅鹿に章邯の精鋭を撃滅し、また要衝新安城を攻略して、秦の東正面の函谷関をめざしたのに対し、劉邦の軍団は、河南に転戦し高陽(陳留)、開封などの諸城を経略したのち、函谷関の難関をさけて南下し、東南境の一関門である武関を破って藍田に入り、覇水のほとり覇上に達したとき、秦の二世皇帝胡亥の降服をうけた。こうして関中への一番乗りを遂げたのは劉邦であった。ちなみに、これよりさき二世皇帝胡亥は宦官趙高に弑せられて、胡亥の兄の子の子嬰が趙高を殺して三世皇帝をついでいた。
さて関中に入った劉邦は軍を覇上に駐め、まず関中各地の父老たちを集めて秦の苛酷な法律
を撤廃することを宣言したのち、以後(一)人を殺す者は死刑、(二)人を傷つける者は処刑、(三)他人の物を盗む者は処罪するという簡単明快な法令を申し渡した。これが有名な「劉邦の法三章」であるが、これによって関中における劉邦の人気は一挙に高まっていった。
項羽軍が関中東正面の函谷関に達したのは、劉邦におくれること二カ月後であった。かれは関門をかためていた劉邦軍を武力排除して入関し、咸陽東方新豊台の鴻門に陣した。こうして覇上の劉邦軍と鴻門の項羽軍の間に一触即発のにらみあいがつづいた。しかし形勢の不利をさとった劉邦は、自ら項羽の本営に赴いてその労をねぎらうことにした。史上に名高い「鴻門の会」である。
この会見で、項羽は軍師范増の進言でライバル劉邦の暗殺を企図したが、劉邦はつきそった張良の智謀と樊噲の勇猛のはたらさとで危うく虎口を逃れることができた。司馬遷は『史記』第七巻、「項羽本紀」のなかで、もちまえの麗筆をもって「鴻門の会」について、項羽・劉邦両雄の応対や謀師である范増と張良とのかけひき、さては樊噲の猛猛しい活躍などを描くが、その筆致は二千百数十年前のできごとを、あたかも眼前に彷彿たらしめるものがある。そこで少し長文ではあるが、「項羽本紀」のこの部分をつぎに要訳してみよう。
この時楚王項羽の兵四十万、咸陽の東方、新豊の鴻門にあり、他方沛公(劉邦)の兵は十万、覇上にあり、范増は項羽に説いて日く、
柿公は (中略)いま関に入るも人々から賦物をとることなく、婦女子も納れて幸(寵愛)することなし、これ、その志は小にあらざるなり。(中略)急ぎ撃って失う勿れ。
と。沛公はあくる日、、百余騎を従えて来り鴻門に至り項王に見え、謝して日く、
臣はさきに将軍と力をあわせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。しかれども自ら意わざりき、さきに関内に入って秦軍を破り、また将軍とここに見えんとは。
いま小人の言あり。-沛公の臣の左司馬曹無傷の中傷をさす―、将軍をして臣とすきあらしめんとす。
と、項羽いわく。
これ沛公の〔臣〕左司馬曹無傷これを言えり。然らざれば、籍(項羽)何をもって此に至らんや。
と。項王は柿公を留めて輿に飲む。項王と叔父の項伯とは東響して坐し、亜父范増は南嚮して坐す。沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。范増しばしば項王に目せし、佩ぶる玉の玦を挙げて示すこと三たび。項王黙然と打て応ぜず。
ここにおいて、張良は軍門に至り范増に見う。范増日く「今日の事、いかん」と。良日く「はなはだ急なり」、(中略)樊噲日く「これ迫れり、臣は入りてこれと命を同じうせん」と。樊噲は剣を帯び、盾を擁して軍門に入る。衛士止めて入れざらんと欲す。樊噲その盾を側だてて衝
く。衛士地に仆れる。樊噲ついに入りて、帷を披き、西嚮して立ち目をいからせて項羽を視る。頭髪は上を指し、目眦はことごとく裂く。項王剣を按じひざまずきて日く「客は何為る者ぞ」。そこで張良は「沛公の参乗(陪乗者)で樊噲なる者なり」という。項羽日く「壮士なり、これに卮酒を賜、」とて、斗卮酒(一升入りの杯)を与う。樊噲は拝謝して起ち、立ちながら飲む。
項王日く「壮士、能くまた飲まんか」と。焚檜日〈「臣、死すら避けず、后酒安くんぞ辞
するに足らん。」
柿公起ちて廓に如く。因って契晴を招きて出でしめ、遂に去らんとし、張良をして留まっ
て謝せしむ。(中略)浦公己に去り、間に〔自〕軍中に至る。張良入り、謝して曰く
柿公、柄杓に勝えずして(酒に弱いので)辞する能わず。謹みて臣良をして白璧一雙を奉じ、拝して大王(項羽)の足下に献じ、玉斗一雙は、再拝して大将軍(范増)の足下に奉ぜしむ。
と。項王日く「沛公は安くに在りや」と。良日く、
大王、これを督過せんとする意ありと聞き、身を脱れて独り去る。すでに〔自〕軍中に至
らん。
と。亜父は玉斗を受けて地上に置き、剣を抜き撞いてこれを破り、
唉、豎子(項羽をさす)、輿に謀るに足らず、項王の天下を奪うものは、必ず沛公なり。わが属はいまや、これが虜とならん。
亜父花増の予言は、不幸にして的中し、やがて五年後には項羽みずからの破滅を招くことになった。
ちなみに、徳川時代以来今日まで、わが国でもよく口にされるようになった「竪子(こども・小僧)ともに謀るに足らず、云云」の語のルーツは、このときの范増の一語である。
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