詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
2. 虞美人について
劉邦の愛妾戚夫人が楚の舞を舞ったことに関連して、項羽の寵姫虞美人についてもみてみよう。
『史記』には虞は名といい、『漢書』は姓というが、おそらく『漢書』の万が正しく、虞はこの女性の姓であろう。伝えられるところでは、虞姫の一族は、山東の領主斉国の官僚であったが、斉国が家臣の田氏に奪われると、虞氏一族は田氏討伐に向かった項羽軍に内応しょうとして、その企てがばれ、かの女が十四 五歳のとき両親も田氏の軍に斬られたため、天涯の孤児として路傍に投げ出されていたところを、折りよく行軍中の項羽の目にとまって救い出され、やがてまだ正妻をもっていなかった項羽の愛妾として陣中に留められ、楚・漢の戦いの数年間を通じて、常に項羽と形影相伴いつつ、ついに垓下にたどりついたのであった。このような項羽と虞姫との出会いは運命的というほかあるまい。
ちなみに、虞美人の「美人」は、普通名詞ではなく、劉邦の愛妾戚夫人や唐の玄宗皇帝の寵姫楊貴妃などの「夫人」とか「貴妃」などと同じく、後宮の女官の位階を示す名称で、楚王項羽の寵姫虞氏の意である。
さて唐の張守節の『史記正義』には、陸賈の『楚漢春秋』によったとして、垓下の帳中での項羽の垓下の詩に唱和して虞姫も
漢兵己略地、四万楚歌声、大王意気尽、賎妾何柳生
(漢の兵はすでにわが地を略し、四方に楚歌の声がする。わが大王(項羽)の意気は、つきてしまったうえは、妾もなんぞ生を安んじられようぞ)
とうたったという。この虞姫の詩について、前記の『楚漢春秋』には、後世の付加、ざん入が多いという点から、学者のあいだに、後人の偽托とする説もある。しかしこの五言詩が、たとい後人の偽托であるにしても、最後まで項羽に殉じようとする虞姫の一途の心情をよく詠みあらわしているといえよう。虞姫こそは、楚・漢抗争のかげに散った一輪の名花といえよう。
『史記正義』は、唐初の魏王泰らの撰である『括地志』を引いて
虞姫の墓は、濠州定遠県(安徽省定遠県)の東六十里に在る。長老たち伝えいう、項羽の
〔虞〕 美人の塚である。
といえば、かの女の墓所は、安徽省東城の近くに在ったことが知られる。かれこれ思いあわせると、かの女は、項羽に従って垓下の囲みを脱出したのち、項羽が陰陵で道にふみ迷って、漢の追討軍に追いつかれ、従騎二十八人とともに、東に道をとって東城におもむく途上で、項羽にみまもられながら、そのみじかい生を終えたもののようである。
さすれば、たとい薄命ではあったにしても、かの女は幸せな最後をとげたものといえよう。事実ははたしてそのようであったか、どうかはわからないが、すくなくとも、その墓の所在を信じるかぎり、このように推測しておきたい。
ともあれ、虞姫は楚漢戦争のかげに咲いた一輪の美人草であった。美人草といえば、わが国の謡曲『項羽』は、観世二代目の世阿弥―室町初期、足利義満に仕える―の作といわれ、項羽と虞美人とを立役にするが、この書は当初、『美人草』という題名であったという。楚漢の戦いのかげに咲いた項羽と虞姫との悲恋物語は、かなり古くからわが国にも伝、えられていたことがわかる。