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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

(4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》4.鴻門の会  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10273

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(4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》4.鴻門の会  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10273

 

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4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》
4.鴻門の会  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10273

 

 

 

 

中国史・女性論

 

 

 

項羽と虞美人

 

§-1 楚・漢の抗争

1.秦末の群雄蜂起

2.項梁と項羽の挙兵

3.劉邦の人となり

4.鴻門の会

5.楚・漢の抗争 (劉邦の挑戦)

 

 

4. 鴻門の会

楚・漢抗争の序幕ともいえるのは、有名な「鴻門の会」である。項羽のひきいた楚の本軍が、鉅鹿に章邯の精鋭を撃滅し、また要衝新安城を攻略して、秦の東正面の函谷関をめざしたのに対し、劉邦の軍団は、河南に転戦し高陽(陳留)、開封などの諸城を経略したのち、函谷関の難関をさけて南下し、東南境の一関門である武関を破って藍田に入り、覇水のほとり覇上に達したとき、秦の二世皇帝胡亥の降服をうけた。こうして関中への一番乗りを遂げたのは劉邦であった。ちなみに、これよりさき二世皇帝胡亥は宦官趙高に弑せられて、胡亥の兄の子の子嬰が趙高を殺して三世皇帝をついでいた。

さて関中に入った劉邦は軍を覇上に駐め、まず関中各地の父老たちを集めて秦の苛酷な法律

を撤廃することを宣言したのち、以後(一)人を殺す者は死刑、(二)人を傷つける者は処刑、()他人の物を盗む者は処罪するという簡単明快な法令を申し渡した。これが有名な「劉邦の法三章」であるが、これによって関中における劉邦の人気は一挙に高まっていった。

項羽軍が関中東正面の函谷関に達したのは、劉邦におくれること二カ月後であった。かれは関門をかためていた劉邦軍を武力排除して入関し、咸陽東方新豊台の鴻門に陣した。こうして覇上の劉邦軍と鴻門の項羽軍の間に一触即発のにらみあいがつづいた。しかし形勢の不利をさとった劉邦は、自ら項羽の本営に赴いてその労をねぎらうことにした。史上に名高い「鴻門の会」である。

 

この会見で、項羽は軍師范増の進言でライバル劉邦の暗殺を企図したが、劉邦はつきそった張良の智謀と樊噲の勇猛のはたらさとで危うく虎口を逃れることができた。司馬遷は『史記』第七巻、「項羽本紀」のなかで、もちまえの麗筆をもって「鴻門の会」について、項羽・劉邦両雄の応対や謀師である范増と張良とのかけひき、さては樊噲の猛猛しい活躍などを描くが、その筆致は二千百数十年前のできごとを、あたかも眼前に彷彿たらしめるものがある。そこで少し長文ではあるが、「項羽本紀」のこの部分をつぎに要訳してみよう。

この時楚王項羽の兵四十万、咸陽の東方、新豊の鴻門にあり、他方沛公(劉邦)の兵は十万、覇上にあり、范増は項羽に説いて日く、

柿公は (中略)いま関に入るも人々から賦物をとることなく、婦女子も納れて幸(寵愛)することなし、これ、その志は小にあらざるなり。(中略)急ぎ撃って失う勿れ。

と。沛公はあくる日、、百余騎を従えて来り鴻門に至り項王に見え、謝して日く、

臣はさきに将軍と力をあわせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。しかれども自ら意わざりき、さきに関内に入って秦軍を破り、また将軍とここに見えんとは。

いま小人の言あり。-沛公の臣の左司馬曹無傷の中傷をさす―、将軍をして臣とすきあらしめんとす。

と、項羽いわく。

これ沛公の〔臣〕左司馬曹無傷これを言えり。然らざれば、籍(項羽)何をもって此に至らんや。

と。項王は柿公を留めて輿に飲む。項王と叔父の項伯とは東響して坐し、亜父范増は南嚮して坐す。沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。范増しばしば項王に目せし、佩ぶる玉の玦を挙げて示すこと三たび。項王黙然と打て応ぜず。

ここにおいて、張良は軍門に至り范増に見う。范増日く「今日の事、いかん」と。良日く「はなはだ急なり」、(中略)樊噲日く「これ迫れり、臣は入りてこれと命を同じうせん」と。樊噲は剣を帯び、盾を擁して軍門に入る。衛士止めて入れざらんと欲す。樊噲その盾を側だてて衝

く。衛士地に仆れる。樊噲ついに入りて、帷を披き、西嚮して立ち目をいからせて項羽を視る。頭髪は上を指し、目眦はことごとく裂く。項王剣を按じひざまずきて日く「客は何為る者ぞ」。そこで張良は「沛公の参乗(陪乗者)で樊噲なる者なり」という。項羽日く「壮士なり、これに卮酒を賜、」とて、斗卮酒(一升入りの杯)を与う。樊噲は拝謝して起ち、立ちながら飲む。

項王日く「壮士、能くまた飲まんか」と。焚檜日〈「臣、死すら避けず、后酒安くんぞ辞

するに足らん。」

柿公起ちて廓に如く。因って契晴を招きて出でしめ、遂に去らんとし、張良をして留まっ

て謝せしむ。(中略)浦公己に去り、間に〔自〕軍中に至る。張良入り、謝して曰く

 

柿公、柄杓に勝えずして(酒に弱いので)辞する能わず。謹みて臣良をして白璧一雙を奉じ、拝して大王(項羽)の足下に献じ、玉斗一雙は、再拝して大将軍(范増)の足下に奉ぜしむ。

と。項王日く「沛公は安くに在りや」と。良日く、

大王、これを督過せんとする意ありと聞き、身を脱れて独り去る。すでに〔自〕軍中に至

らん。

と。亜父は玉斗を受けて地上に置き、剣を抜き撞いてこれを破り、

唉、豎子(項羽をさす)、輿に謀るに足らず、項王の天下を奪うものは、必ず沛公なり。わが属はいまや、これが虜とならん。

亜父花増の予言は、不幸にして的中し、やがて五年後には項羽みずからの破滅を招くことになった。

ちなみに、徳川時代以来今日まで、わが国でもよく口にされるようになった「竪子(こども・小僧)ともに謀るに足らず、云云」の語のルーツは、このときの范増の一語である。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

P R