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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

(3)中国史・女性論 《項羽と虞美人》3.劉邦の人となり 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10266

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中国史・女性論

 

 

 

項羽と虞美人

 

§-1 楚・漢の抗争

1.秦末の群雄蜂起

2.項梁と項羽の挙兵

3.劉邦の人となり

4.鴻門の会

5.楚・漢の抗争

6.劉邦の挑戦

 

 


3. 劉邦の人となり

項羽のライバル劉邦についてみると、かれは、沛(江蘇省沛縣)の自作農の三男である。その人となりにつて、『史記』の「高祖本紀」によれば、少しほめすぎの点はあるが、

 情深くして人を愛し、人びとを恵み、その心は寛容で太っ腹であった。しかし、かれは生業である農作業には身をいれず、酒と色とを好んだ。

とあるから、いわゆる遊侠の士といえば聞こえはよいが、橋脚肌の遊び人風の男であったよう

である。それでも、かれは長じて下級試験をうけ、酒水駅(安徽省潤県)の亭長(宿駅の長)となっているところから見ると低い身分ながらも官吏の端くれまて出世していた。

秦の地方制度では、県以下の自治体として十里(部落)ごとに十亭を設け、十亭を一郷とした。亭には亭長をおいて亭の事務を主らせ、里民に訴訟やもめごとがあれば、亭長や部下の卒吏らが調停・裁判にあたった。そのほか亭長は国の力役があれば、里民を引率して夫役に応じた。劉邦の遊侠的性格は、かれが泗水亭長になると、多くの人びとをひきつけた。後年漢朝開国の功臣となった䔥何・周昌・樊噲らは、この前後ごろ劉邦の人となりにひかれて、その輩下にはせ参じたひとびとである。

やがて陳勝・呉広が兵をあげると、劉邦も沛の縣令(知事)を殺してこれに応じ、衆人から

推されて沛公と称し、赤旗をシンボルマークとした。かれは陳勝が斃てのちは、項梁の部将

となって懐王を奉じた。

 ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。

 

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。

 

この時、劉邦が集めた兵力は23千というところで、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、幼馴染の盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。

 

この軍団で周辺の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎の武将の周巿に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した旧楚の公族系の景駒が甯君と秦嘉(中国語版)という者に代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った。

 

紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(トウ、現在の安徽省碭山。碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた56千の兵を合わせ、さらに下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落させた。雍歯は趙の武臣を頼って逃れた

 

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。

 

その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。

 

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。

 

趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。

 

・関中入り

劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで来た。ここで劉邦は儒者の酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其は「近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているので、降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける。

 

さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂齮を撃破して、呂齮が宛(河南省南陽市)に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した。呂齮の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、秦の領域へ近づいていった。この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも早かった。そしていよいよ、関中の南の関門である武関に迫った。

 

この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権をふるっていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺された。

 

続く嶢関は、秦の最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり計算高いことを利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、あくまで油断させるためのものだった。劉邦の軍は砦に入るや否や、守備隊の不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。こうして劉邦軍は関中に入る。もはや阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。

 

秦王子嬰は、覇上にまで迫っていた劉邦のところへ白装束で首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦はこれを許した。

 

咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。

 

・漢王劉邦

覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の3条のみに改めたものである。この施策によって関中における劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。

 

その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。

 

項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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