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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

(5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10287

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5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》
5.楚・漢の抗争  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10287

 

 

 

中国史・女性論

 

 

 

項羽と虞美人

 

§-1 楚・漢の抗争

1.秦末の群雄蜂起

2.項梁と項羽の挙兵

3.劉邦の人となり

4.鴻門の会

5.楚・漢の抗争 (劉邦の挑戦)

 

 

 

5. 楚・漢抗争 -劉邦の挑戦

さて、秦都威陽に入城した項羽は、三世黄帝子嬰を殺して秦朝をほろぼすと、つぎには叔父項梁が擁立した懐王義帝をも彭城から追放し、みずから「西楚の覇王」と称して天下に号令し、群雄諸侯を各地に封じて論功行賞を行った。そのとき項羽は、さきの懐王と諸侯との約束―関中に一番乗りした者が関中の王に封じられる―を無視して、まっ先に入関した劉邦を漢王として、巴(四川省重慶地方)、蜀(四川省成都地方)、漢中(陝西省南部)を与え、西南の四川省境に近い辺地の南鄭(陝西省南鄭縣)に封じこめ、みずからは中原をふくむ九郡を領有して東のかた彭城に都した。

劉邦を巴蜀の地に封じた項羽のいい分は「巴・蜀もまた関中の地である」であったが、なんとも苦しい自己弁護をした(同時に人物の小ささを天下に示した)。

南鄭に移封された漢王劉邦は、項羽が咸陽をすてて彭城に東帰すると、またたく間に関中全域を併せて檪陽(西安市の東北)に本拠を移し、項羽の論功行賞に不満をいだく関東の諸侯と気脈を通じつつ、たまたま漢二(前二〇五)年項羽が義帝を弑殺すると、その無道を難じて宣戦を布告したので、りっぱな大義名分をかかげた挑戦であることになった。

紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、梁(旧魏の地)を攻撃させた。

かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。

そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。

項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。

項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠・彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は浮き足立って軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。

紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。

追い詰められた劉邦であったが、陳平や紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。

そこで両雄は、いよいよ中原をはさんで東西に対決することになったが、史書はこれを「楚・漢の抗争」という。関中から出撃した劉邦は、彭越たちに命じて項羽の後方を撹乱させ、これに乗った項羽は彭越の方へと軍を向けた。この隙に劉邦は秦の食料集積地であった敖倉の食料を手に入れ、滎陽の北の広武山に陣した。彭越たちを追い散らした項羽は、戻ってきてその向かい側の山に対陣した。

彭越たちは項羽軍の後方撹乱を続けたので、項羽は食糧不足に悩んだ。漢軍では途中で劉邦が負傷したこともあって、両軍共に和睦を望むようになり、劉邦軍の弁士・侯公が使者となって和睦し、天下を二分することを取り決めて両軍が引き上げることになった。

劉邦はそのまま引き上げる気でいたが、張良と陳平は、楚軍が本拠に帰って英気を養った後では漢軍は到底敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきだと進言した。

劉邦はこれに従って楚軍を後ろから襲ったが、敗北した。これに先立って韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、2人は来なかった。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからである。張良にこれを指摘された劉邦は、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする約束をした。果たして2人は軍を率いて加勢し、兵力で圧倒した漢軍は楚軍を垓下(今安徽省宿州市霊璧県南部)へと追い詰める(垓下の戦い)。

 

さて楚・漢抗争の主要な舞台は、太行山脈が黄河および洛水をよぎるあたり、今日の河南省中央部の滎陽から氾水のあいだであり、それは中原をめぐる関西方(関中)の漢軍と関東万の楚軍との争覇戦であった。両雄はここで死闘をくりかえすこと五カ年、戦いは終始楚王項羽の優勢裡にすすめられ、漢王劉邦は父母妻子を捕えられて人質にされるなど、いくたびか最後かと思われる苦境に立ったが、劉邦のねばり強さと、張良・陳平らの智謀と韓信・廬綰らのすぐれた戦略と、さらには蕭何の政略とに助けられて、ついに垓下の決戦で項羽をたおし、勝利の栄冠を握ることができた。

さて楚・漢抗争中における項羽と劉邦との戦いぶりをみると、まさに項羽の武力と劉邦の智力との戦いであった。項羽は自分の武力に絶大の自負をもつのに対し、劉邦は、かつて成皋の広武山に楚・漢両軍が対峙したとき、項羽が

願わくば漢王に戦いを挑み雌雄を決せん。

と詰め寄ると、劉邦は笑いながら、

われわれはむしろ智を闘わそうとも、力を闘わすことはできない(『史記』第七巻、「項羽本紀」)といって、武力ではかなわないが、智力で闘おうと、かるく項羽の挑戦をかわしている。項羽の挑んだのは一個人の武力であり、匹夫の勇であるが、劉邦の智力とは、そのブレーンたちの衆智を結集した総力であった。したがって、このときも項羽が短期決戦を挑んだのに対し、劉邦は長期持久をのぞんだ。劉邦はもちまえの包擁力と忍耐力とで衆智、総力を結集して最後の勝利をかちえたのであった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

P R