詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2018年3月12日 |
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2018年3月12日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 |
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項羽と虞美人
§-1 楚・漢の抗争
1.秦末の群雄蜂起
2.項梁と項羽の挙兵
3.劉邦の人となり
4.鴻門の会
5.楚・漢の抗争
6.劉邦の挑戦
2. 項梁と項羽の挙兵
項羽、名は籍といい、戦国の七雄国の一、楚国の将軍の一人で、項(河南省項城県)の城主の家柄の出である。楚国といえば、前八世紀ごろの春秋時代には揚子江中流域の郡、いまの湖北省江陵県を本拠としていた大国であるが、やがて前五世紀ごろの戦国時代には、揚子江下流域にまで勢力をのばし、一時は江蘇省北部から山東省南部の筥県まで進出したこともあった。そして前三三四年には越をほろぼして揚子江下流域のデルタ地帯も完全に制圧している。したがって、楚の領域は漢江と揚子江の中・下流域の大半と、准河の流域までを、おおっていたと考えられる。されば、司馬遷の『史記』の「蘇秦伝」にも、楚国の領土の広大さをたたえて広某五千余里におよぶといっている。
ところが、この楚国も前四世紀後半に懐王(前三二八〜二九九)が立つと、この王は優柔不断で、主体性に欠けるところがあったため、このころから西北の強国秦と北の山東の斉国とから圧迫されて衰えはじめ、前二七八年には白起がひきいた秦軍に都の郡を陥れられて、前二五三年には東北の陳の旧都郢陳(安徽省阜陽県)に都を移し、さらに前二四一年には、三たび移って寿春(安徽省寿県)に遷都したものの、ますます国力は衰えるばかり、八年後の前二二三年、ついに秦にほろぼされた。
さて項羽は、楚国の末期に名将とよばれた項燕の孫といわれ、下相(江蘇省宿遷県)の生まれである。幼くして父を失ったので、叔父の項梁に育てられ、亡国の士となって各地を流浪した。秦の始皇帝が沙丘に頓死し、陳勝・呉広らが反乱をおこすと、項梁も項羽とともにこれに応じ、会稽郡守を斬ってみずから郡守となり、呉中(江蘇省蘇州)に倒秦の兵をあげて、時をうつきず江東(揚子江下流域)の子弟八千人をひきいて江を渡り北征の途にのぼった。
かれらは途途大小の流民集団を吸収しつつ北進をつづけ、准河を越えて彭城の西方に位置する下邳(江蘇省邳県)に陣したときには、六、七万人の軍団にふくれあがっていた。さらに項梁は陳勝(陳王)が部下の手にかかって殺されたことを聞知すると、その残党たちも併せた。
軍師の苑増を幕下に加えたのも、ちょうどそのころであった。
やがて項梁は、この苑増の計にしたがって、旧主にあたる楚最後の懐王の孫が落魄して民間で羊飼いになっていたのを探し出し、擁立して同じ名で懐王―のち義帝と称す―と称した。こうして項梁の軍団には、秦討伐の大義名分がととのったわけである。
ちなみに別将としての項羽は、項梁の本軍とは別の一軍団をひきいて西北方を進み、要衝襄城(河南省)を陥れ、頑強に抗戦した秦軍の捕虜数百千名を無残にも阬殺したという。この蛮行で項羽の悪名は入びとを震いおののかせた。
さて項梁は懐王を奉じてからも、いたるところで秦軍を破って破竹の進撃をつづけたのち、ついに定陶において、はじめて秦の正規軍と戦い、将軍の章邯に敗れて、あえなく戦死した。
かれの死は、まことにあっけないほど突然であったので、総指揮官を失った楚軍としては、陣容の立て直しをはからざるをえなかった。
そこで、これまで項梁の部将としてともに活躍してきた項羽と劉邦とは、懐王の命によって軍を分かち、それぞれ別行動をとって秦都の咸陽(西安市)をめざすことになった。このとき懐王は諸将を激励して
さきに入って関中(畿内)を定めた者を、関中の王としよう
と約束した。
項羽は項梁の本軍である楚軍をひきい、河北各地に秦軍を撃破しつつ、やがて黄河を渡り、ついにめざす宿敵章邯の大軍を鉅鹿の野に撃滅して章邯を捕虜とした。かくて赫赫たる戦果をあげたものの、その軍士は勝利に酔うて軍紀をみだし、あまつさえ洛陽の西方、新安城では、投降した秦軍二十余万人(?)を、このたびも阬うめにして惨殺したのをはじめ、各地で残忍・非道な所行が多かったので、人びとは項羽のひきいる楚軍団に対して、ひどく失望したばかりでなく、怨嗟の声は途上にあふれたという。