詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#4
Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10798
捕縛、掠奪した人数は、優に萬に上る、拉致された人々が、群がり集まることをさせなかった。
それだから、肉親が一緒にいて、家族の心配をして話し合おうと思っても、話すことはできない。
すこしでも胡兵のご機嫌を損ねるたりすると、徹底的に追及され、発見されてそのたびに、言われる言葉は「捕虜めをいくら殺してもよいことになっている…」と。罵詈雑言をはかれたのである。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
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蔡文姫 《悲憤詩三首 其一》訳注解説 |
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Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#3
Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10791
馬首のあたりには、斬り取った漢人の男の首をぶら下げている。馬の背の後ろ側には、奪い取った漢人の女性を積み載せている。
西の異民族の国から遠い道のりを馬で走って、西の方の函谷関に入ってきらが、遠い道筋は、けわしくて、行く手をはばむかのようであった。
その道の方を振り返れば、遙かに遠くかすんでいるし、来た道が見えないので、心は、そのためにただれて腐りそうだ。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#2
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一#2 訳注解説#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10784
中國国内全土で義軍をおこすことになったし、連合、同盟を酌み、ともになって、好ましくないものを討とうとした。
董卓の軍勢が函谷関の東側に攻め込んできた。 この時には、董卓軍の金のよろいに、日の光に輝き、希望に満ちていた。
この時の中原の漢人はもろくて弱かった。董卓の軍勢に従軍してきた者は、皆、西方の異民族であった。
まるで狩猟でもするかのように、街や村を囲んで。 軍勢の向かう所の者は、ことごとく打ち破り、滅亡させていった。
敵対するものは、一つ遺さずに斬り捨てられた。屍骸は積み上げられ、お互いに支え合うかのようである。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10777
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
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蔡文姫 《悲憤詩三首 其一》訳注解説 |
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悲憤詩三首 其一 #1
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
漢季失權柄,董卓亂天常。
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
志欲圖簒弑,先害諸賢良。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
逼迫遷舊邦,擁主以自彊。』
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
#2
海内興義師,欲共討不祥。
卓衆來東下,金甲耀日光。
平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。
斬截無孑遺,尸骸相牚拒。』
#3
馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。
還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。
#4
所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。
失意機微閒,輒言斃降虜。
#5
要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。
或便加棰杖,毒痛參并下。
#6
旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。
彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
(悲憤の詩三首)其の一
漢季 權柄を 失し,董卓 天常を 亂す。
志は 簒弑【さんしい】を 圖【はか】らんと欲し,先づ 諸賢良を 害す。
逼迫して 舊邦をに 遷【うつ】らしめ,主を 擁して 以て自ら彊【つと】む。』
#2
海内に 義師を 興こし,共に 祥【よ】からざるを 討たんと欲す。
卓衆 來りて 東下し,金甲 日光に 耀く。
平土の 人 脆弱にして,來兵 皆 胡羌なり。
野に 獵するがごとく 城邑を 圍み,向ふ所 悉【ことごと】く 破り亡す。
斬截【ざんせつ】して 孑遺【げつゐ】 無く,尸骸 相ひ 牚拒【たうきょ】す。』
#3
馬邊に 男の頭を 縣【か】け,馬後に 婦女を 載す。
長驅して 西のかた 關に入るに,迥路【けいろ】は 險にして且つ 阻なり。
還顧すれば 邈【ばく】冥冥として,肝脾【かんぴ】爲に 爛腐【らんぷ】す。
#4
略せる所 萬 計【ばかり】 有りて,屯聚せしめ 得ず。
或は 骨肉の倶【ともな】ふ 有りて,言はんと欲すれど 敢へては 語れず。
意を 機微の閒に 失へば,輒【すなは】ち 言ふに:「降虜を 斃【たふ】すに。
#5
要當【まさに】刃【やいば】を亭【とど】めるを以ってしても,我曹【われら】汝を活かさざるべし。」
豈に 復た 性命を惜みて,其の詈罵【りば】に 堪へざらんや。
或は便ち 棰杖【すゐぢゃう】を加へ,毒痛 參【こも】ごも 并【あは】せ下る。
#6
旦【あした】になれば 則ち號泣して 行き,夜になれば則ち 悲吟して 坐る。
死なんと欲すれども得る 能はずして,生きんと欲すれども 一の 可なるもの無し。
彼の蒼たる者 何の辜【つみ】ありて,乃ち 此(の戹禍【やくか】に遭はさんや!
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10770
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 10. 胡笳十八拍 漢魏 蔡文姫 訳注解説 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
このような政界のありさまに対して、一般社会でも、前漢の中期以後あらわになった豪族の大土地所有は、いよいよ深刻化し、自作農民はしだいに土地を失って小作民や奴婢の身分に転落したり、一部のものは、流民となって都市に流出し、無頼の徒やルンペンに成り下がって、社会の腐敗と秩序の乱れに拍車をかけていった。
こうした社会的不安を背景に、184年黄巾の乱が勃発した。この反乱の舞台は、山東・河北・河南から揚子江流域にまでおよぶ広範なもので、三十六万の農民が、たちあがったといわれる。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
黄巾の賊乱は、やがて鎮定され、また騎横にふるまった二千人にあまる百官も、司隷校尉(首都防衛司令官)の袁紹によって尽く殺されてしまった。
百官が蓑紹によって課滅されたものの、しかしそのあと出て来たのは、軍閥による混戦であった。いわゆる「後門の虎」というところである。黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
これよりさき、宦官討減のため外戚の大将軍何進によって招集された地方軍団の一人である幷州の牧(山西省中・北部の長官)董卓は都の洛陽に入京してくると、189年クーデターによって天子の擁立を行い、かれが擁立した献帝を奉じて政権をにぎり、また麾下の羌族(ティベット族)を主体とする傭兵部隊も暴虐のかぎりをつくした。
そこで190年正月を期して、袁紹らは各州・郡の長官や太守をかたらって義兵を挙げ、洛陽へと進撃した。のちの三国時代の魂を興した曹操も、これら義軍の一部将であった。
この形勢をみて董卓は、同年二月、献帝を擁して都を洛陽から西の長安(いまの西安市)に遷したが、かれは義軍が洛陽をめざすときくや、直ちに東にとって返し、各地で烏合の同盟義軍を破り、翌年四月、再び長安に引き揚げた。このとき祭文姫は、人びととともに董卓麾下の羌族傭兵部隊に劫去されて長安に連れ去られたのであった。
その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る(詳しくは「三国時代」を参照)。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡であった。220年、曹操の子曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10763
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
3. 後漢末の政治の乱れ
後漢帝国の紀綱の乱れは、すでに第四代の和帝時代(88〜105)からはじまるといえる。というのは、和帝以後第十二代の霊帝までは、八歳から十五歳の幼帝が多く、中には生後わずかに百余日とか、二歳という天子もあった。そのため政権は外戚の手にうつり、やがて外戚に代わって、百官が放屁するようになった。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
こうして、内外にわたる宦官の専横・不法に対して、気節ある一部の官僚グループは、峻烈な弾劾・攻撃を行ったため、宙官は対抗上、気節の士を政界から廃除すべく、執えて郷里に終身禁錮することとした。いわゆる「党錮の禁」または「党錮の獄」である。
党錮の獄は、霊帝(168〜188) のとき再びおこされたが、二度目の獄は徹底的であって、党人の名のもとに、あるいは殺されたり流されたり、あるいはまた、廃禁されたものは六、七百人の多数をかぞ、え、気節の士は、ほとんど官界から根絶されてしまい、いよいよ宦官の専横はきわまった。
幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。
この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。
前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中ではこれより少なかった。
この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》2. 蔡文姫について
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
2. 蔡文姫について
蔡文姫は名を班、字を文姫といい、河南省陳留(開封東南の把県)の人で、蔡文姫について後漢後半期の知名の学者で、班昭を援けて『漢書』の続修にも従った一人であり、また詩人としても知られた禦鮎(223~292)の女として生まれた。
陳留は穎川、南陽とともに後漢時代には学問の一中心であったので、かの女の処女時代は、好きな学問にはげみ、また音楽をたしなむなど、幸せな生活を送っていた。そのため女の身ながらも、父の学問をうけついで博識高牙のはまれ高く、父はかの女の才能を賞でて、こよなく愛したという。
蔡文姫が音楽にも堪能であったことについては、つぎのような逸話からも知られよう。
ある夜、父の亀が琴を弾じていたところ、とつぜん舷がきれた。隣室で聴いていた文姫は、たちまち、それが第二の舷であることを言いあてたので、父は、まぐれあたりであろうと思い、娘の耳をためす意味で、わざと一絃を切って、第何舷かをたずねたところ、かの女は言下に第四の絃であると答えたため、亀はその音感の正確さに舌をまいた。
という。
かの女はやがて、河東郡(山西省)の衛仲道に嫁したが、ほどなく夫に死別した。不幸はこの時からはじまった。
かの女は、たまたま子に恵まれなかったので、衛家を去って実家に帰ってきたところ、世は後漢の末つ方、当時の中央政界は、外戚の専権と宦官の跋扈とで紊乱をきわめたため、世情は騒然たるものがあった。
『後漢書』巻二四、烈女伝、「董紀の妻」(蔡文姫)の条には、
実家に帰っているうち、献帝の興平中(一九四〜一九五) に胡騎に劫め去られて南勾奴の左賢王の夫人となり、胡中に留まること十二年、二子を生んだ。
と簡単に伝えるにすぎないが、かの女が、どうして南匈奴に連れ去られて十二年間も留まらねばならなかったかについて、以下、後漢末の複雑な政情をまじえつつ、その歴史的背景を述べてみよう。
後漢末の文学
蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。
歴史の分野ではまず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として高い評価を受けている。
他には班固の父の班彪が『史記』の武帝以後の部分を埋めた『後伝』、後漢王朝についてを同時代人が書いた文章をまとめた『東観漢記』などが挙がる。
漢詩の分野では班固『両都賦』,張衡『二京賦』などがあり、この時代に五言詩が成熟し、末期の蔡邕(邕は邑の上に巛)になって完成したと言われる。
その流れが建安年間(196年 - 220年)になって三曹(曹操,曹丕,曹植の親子)や建安七子へと受け継がれ、建安文学が形作られる。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10749
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
られた蔡文姫
これまでみた細君、王昭君、文成公主の三題は、いわゆる和蕃公主に関する史話であるが、この第四題目の「蔡文姫、都に帰る」史話は、和蕃公主のそれとは少しちがって、中原に侵入した辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語である。
和蕃公主のような事例は、中国史上数多いが、そのような政略結婚による外交折衝では、平和は長つづきせず、周辺とくに北アジア世界や西北辺境からの異民族の侵入、侵略戦争は、歴代の王朝にわたって絶えずつづく。そして、そのたびにおびただしい人・畜・財・物が劫去される。そのうち、人といっても多くは婦女子であったろうが、みな歴史のかなたに消え去ってしまって実態はわからない。
しかし、それらのなかで、ひとり表題の蔡文姫は、みずからの悲運な境涯を、かの女のすぐれた才筆に託して、五言の長詩「胡、笳十八拍」 に書きのこしており、それが正史の 『後漢書』中に収載されたため、後世の人びとに語りつがれ、また「文姫帰漢図」(ボストン美術館蔵であり、台湾故宮博物館蔵)とか「胡笳十八拍」画巻(南京博物館蔵)などとして画巻にも描かれ、あるいは、近くは郭沫若によって五幕の歴史劇「察文姫」としても上演されている。
蔡文姫/蔡 琰 (177年(熹平6年)- 249年(嘉平元年))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡邕。甥は羊祜。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。
南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。 蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となるが、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。
没年 蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『晋書』景献羊皇后伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は249年だと述べている。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である蔡文姫の妹・貞姫の名が見られる。
また、1992年に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177-254年」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功、蕭綽・王昭君・花木蘭がある。
字の異同 蔡琰は『後漢書』本伝に字を文姫と説明されるが、『後漢書』の注釈にある『列女後傳』は字を昭姫と記録する。このような漢字の違いは王昭君にも見られ、彼女を題材にした西晋の石崇作『王明君辞』が現存する。これらの現象は晋書の司馬昭の諱の使用を避けるために改めた結果である。晋代に成立した蔡琰の伝記が『後漢書』の列伝や『芸文類聚』、『太平御覧』等に収録されたため、避諱後に出来た名称の文姫が後世に広く伝わった。
琴を弁じる 蔡琰が幼い頃、夜に蔡邕が琴を演奏していた。演奏の最中に琴の二番目の弦が切れ、別室で父の演奏を聞いていた蔡琰が「第二弦」と言った。蔡邕が不思議に思いわざと四番目の絃を切ると、またも「第四弦」と蔡琰は言った。蔡邕が「たまたま言い当てたのだろう」と言うと、蔡琰は「昔、呉季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠は律管を吹いて楚軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと言うのですか」と答えた。それを聞いた蔡邕は驚いた。 この逸話は初学者向けの教科書の『蒙求』と『三字経』に取り入れられ、女性にも聡明な者がいることと、男子はこのような才女に見劣りしないよう勉学に励むべきだという教えに用いられた。
書の伝道師 唐の張彦遠の『法書要録』中にある「伝授筆法人名」に次の記述がある。蔡邕の筆法は崔瑗と蔡琰に伝わり、蔡琰が鍾繇に伝えた。鍾繇の筆法は衛夫人に伝わり、衛夫人が弟子の王羲之に伝えていき、その後の多くの能書家に伝わった。
その他 陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。
蔡琰の著作 自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わる。一説に『胡笳十八拍』は後世の詩人が蔡琰に仮託してできた産物だという。なお『胡笳十八拍』の楽曲は現代に伝わり、中国十大古典名曲の一つに数えられる。
蔡琰の人生を題材にした作品には、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした戯曲が多数作られており、元の金志甫の『蔡琰還漢』や明の陳与郊の『文姫入塞』、曹雪芹の祖父曹寅の『続琵琶』、郭沫若の『蔡文姫』などがある。
金星には彼女の名がついたクレーター (Cai Wenji、蔡文姫) がある。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10742
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
3. 文成公主の降嫁
文成公主が、数ある宗主の公主のうちから、どうして吐番への和蕃公主としてえらばれたのかは明らかでないが、かの女がソンツェン=ガムポに降嫁して入蔵したことについて、比較的詳しく伝えているのは、『旧唐書』巻一四六、「吐蕃伝」(上)である。要訳すると、つぎのようである。
貞観十五(六四一)年、太宗は文成公主を弄讃(ソンツ工ン)に降嫁させることとし、礼部尚書(外務大臣)江夏王の道宗に婚儀を司らせ、公主を吐書に送らせた。
ソンツェンは部下をひきいて栢海に屯し、黄河の河源の地(吐谷渾国)まで親しく出迎 え、大臣の江夏王道宗に会見し恭しく婿としての礼を執った。かれは大国(唐朝)の服飾、儀礼の美々しさに感嘆し、帰し仰いで、おのがみすぼらしさ(粗野さ)を愧じ、おそれる様子であった。
ちなみに、河源の地に親迎した云云について、『新唐書』「吐蕃伝」には、つぎのように、もっと具体的に「館を河源王の国(吐谷渾)に建てさせた」と伝えているが、河源王とは吐谷渾王のことで、ソンツェンは、このとき、さきに服属した吐谷樺の地 (ツァイダム盆地)に、新たに館を建てさせて、公主一行を親迎したというのである。
おもうに、これは佐藤長教授もいうように、吐谷渾が完全に吐蕃の勢力下にあったことを唐側に誇示しようとしたのであろう。
こうして、文成公主の降嫁を機に、儀礼・服飾・調度品をはじめ唐朝の文物がしだいに吐蕃の王廷内へ移入されるようになった。また中国仏教のチベットへの流入も、文成公主にはじまるといわれ、チベットに仏教を将来した文化指導者として、文成公主は、ターラの一化身緑ターラと称して、後世永く敬仰されている。ラサ市のラモチェ廟(小召寺)はかの女の建立にかかるという。
ちなみに、文成公主の吐蕃への降嫁については、チベット側の史料である『テブゴン』にもタン(唐)タイズン(太宗)の即位九年(貞観八年)に、チベットの王と贈物を相互におくって親交した。チベットはシナ王の女を迎えようとしたが与えられず、チベット持すは怒って八年ほどの間(唐と)戦を交えた。そして軍がかえったのち ―軍をかえしたのちに?― 王は〔大論の〕ガルトンツェンに黄金や宝石の類を数多く持参させて、太宗の女ウンシンコンジョ(文成公主)を辛丑の年(貞観十五年)に与えられた。とみえるが、この一文は公主の降嫁の成果を過大に見せる唐側の史書によったものと思われる。ついでに、文成公主の入蔵にまつわる逸話の一節を、つぎに書き添えてみる。
文成公主が都の長安を出立するとき、かの女は日月の鏡をたずさえてきたが、青海湖に近い山(祁連山脈の一峯)の尾根まできたとき、遥か遠い行く手に、ふるさとの空を懐かしむあまり、懐中の日月鏡を見ようとした。ところが付き添いの吐蕃の家臣どもが、鏡を石にすりかえていたため、かの女はその鏡をすて、望郷の念を断ち切って吐蕃へ向かった。
という。今日この日月山麓には、文成公主廟が建っている。この伝えはフィクションであるとしても、異境に旅立つ文成公主の悲しい心根を、よく物語っているといえるであろう。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10735
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
2. 唐と吐蕃の関係
国際関係とはいっても、これまで唐と吐蕃両者の間には、直接の交渉関係はなかったが、『旧唐書』の「吐蕃伝」(上)には、
貞観八(634)年、吐蕃王の棄宗弄讃は使節を送って朝貢してきたので、唐の太宗は折り返し馮徳遐を使者として遣わし、撫慰させたところ、ソンツェン=ガムポは大いに悦こんで、徳遐に随って答礼使節を入朝させ、多くの金、宝を奉献して、公主を降嫁されんことをも請うてきた。
という。しかし、このとき太宗はまだ公主の降嫁を許さず、かえって吐谷揮王には、貞観十、十一年ごろ公主の降嫁を約束したのであった。これを知ったソンツェン=ガムポは、面子をこわされたことを怒って吐谷渾を攻撃したので、吐谷渾王は敗れて青海の北に逃亡し、その部民や畜牧は、全部吐蕃に掠奪されてしまった。
吐蕃軍はさらに兵を進めて、吐谷渾の勢力下の党項や自蘭な乃どの羌族系諸部族をしたがえ、さらに二十余万の兵をもって、唐の都督の駐屯する松州の西境に迫った。こうしておいて、ソンツェンは再び使節を送り、金・帛を献じて公主の降嫁を迫り、貞観十二年秋には、ついに松州城を攻撃し、都督韓威の先鋒軍を敗ったため、その統制下にあった党項、自蘭などの諸羌族は、挙げて吐蕃に服属してしまった。
ちなみに、これら羌族の多くは、そのころ唐の国都長安(いまの西安)から吐蕃の都ラサへの公道 ―鄯州(青海省楽都縣)西寧から青海湖の東南辺に沿うて、さらに西南に進み、河源地帯の格尓木を経由してラサに至るいまの青蔵公路が、唐代の史書には「入吐蕃道」としてあげられている― に沿うて遊牧していたが、これらの部族の民族系統、その他西寧・格尓木経由の青蔵公路については、佐藤長「唐代の青海・ティペットの民族状況」 (『鷹陵史学』一〇号所収) および同氏の『古代 チベット史研究』付図第一図を参照されたい。
さて、吐蕃軍のはげしい攻撃によって、一時敗色の濃かった松州城の唐軍も、救援の征討将軍牛進達や侯君集らの尽力によって、ようやく危機を脱し、やがて吐蕃軍も内部の不和から、侵攻軍を引き揚げざるをえなくなり、ソンツェンは更めて唐朝に謝罪俊を送り、三たび熱心に婚姻を求めたので、太宗もようやく公主降嫁の内諾を与えることになった。喜んだソンツェンは、大論(大臣) のガルトンツェンを使節として、黄金五千両をはじめ、宝物・玩物数百件を結納として献じた。
吐蕃国概略
吐蕃は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。
・名の由来は「偉大なチベット」という意味である。
・唐が吐蕃と呼んで以来、17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。
・日本では一般的に中国名の「吐蕃」を王朝名とした他、吐蕃王国、吐蕃帝国などの呼称が用いられており、呼称は定まっていない。
概要
7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後、唐とは東部では吐谷渾の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った[1]。9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。
仏教書には釈迦一族の末裔を王室の起源とする神話が描かれている。中国の旧唐書では中国の遼東地方より移住した鮮卑拓跋部出身の王家を吐蕃王室の起源とする、より遅い年代の史書ではチベットの波窩地方出身とされる事が多いが信憑性は薄い。吐蕃時代の金石文では、ほぼ例外無く初代王を天の子としている。
ナムリ・ソンツェン王はラサ南東のヤルルン渓谷(ロカ地方、波窩地方)を起点として、近隣部族のセンポやタボ、東部の小部族を征服し勢力をラサ地方へ伸ばした。630年、ナムリ・ソンツェン王が反逆者によって毒殺されると、子のソンツェン・ガンポ王(在位:630年 - 650年)が即位する。633年、ソンツェン・ガンポ王は前王の死後反乱を起こした蘇毗族(中国語版、英語版)(スムパ[6])、センポ族、タボ族、大羊の反乱を平定して都をラサに定めた。史書ではインドへ人を遣って文字を学ばせ、トンミ・サンボータ(チベット語版、英語版)が数名のインドの仏教僧とともにチベット文字を創成したと書かれている。
634年、ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。さらに王国の南に位置するネパールのリッチャヴィ朝に使者を遣わし、前王アンシュ・ヴァルマー(在位: 605年 - 629年)の娘、ティツン王女(ブリクティ、ペルサ)を妃に迎える、仏教国であったネパールの影響により仏教が広まった。さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶される。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭などの羌族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫るが(松州の戦い)、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらにガル・トンツェンユルスンを遣わし、金五千両を結納として贈る。
638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主(ギャサ)をグンソン・グンツェンの妃として迎える。グンソン・グンツェン王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し[7]、ソンツェン・ガンポが王に復位した。なお、同年、シャンシュン王国を併合し、ナレーンドラ・デーヴァ(在位:643年頃 - 679年頃)をリッチャヴィ朝の君主に据えている。
646年、ソンツェン・ガンポ王は太宗の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。 647年、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアラナシュ(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者王玄策を保護している。更に大軍を率いて当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き帰還している。
649年、唐の太宗が死去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、スムパ族(蘇毗)平定に大功のあったニャン・マンポジェシャンナンや、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣のキュンポプンサを粛清している。649年末、病のため死去した。
ガル一族の執権と唐との戦争
ソンツェン・ガンポ王が死ぬと、王の子グンソン・グンツェンと文成公主の子であるマンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が8歳で即位し、大論(宰相)ガル・トンツェン(在任:652年 - 667年)が国政を執った。 663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政,軍事,租税登録,徴発制度を改めて整備した。
667年にガル・トンツェンが死去すると、長子のガル・ツェンニャドムプが大論の位を継いだ。弟のガル・ティンリンは積極的に唐の西域で軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于闐、疏勒)を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンリンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。
676年、マンソン・マンツェン王が死去し、ティドゥ・ソンツェン王が即位すると、大羊と熱桑部が背くも短期間のうちに鎮圧された。唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退した。このとき唐の前軍の将が捕虜となっている。
680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。 683年、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌684年にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒される程となった。
692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻、安西四鎮は陥落した。696年、唐に対して勝利を収めた。
699年、ティドゥ・ソンツェン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し大論のガル・ティンリンを自殺に追い込んだ。この粛清劇により、ガル氏は表舞台から消えた。
この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。
唐との講和と南詔の冊封(8世紀後半の吐蕃と周辺国)
704年、ティドゥ・ソンツェン王が南詔親征中に戦死すると、生まれたばかりのティデ・ツグツェン[11](在位:704年 - 755年、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母(チマル(英語版))方のブロ[12]氏が政権を掌握したが政権は安定せず、デレンパノナンジャやケガドナンが反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主を迎える。大論(宰相)であったシャンツァントエルトサイビンが公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。
チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネンが任命され摂政したが、国威は振るわなかった。713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。
722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領したが、710年代-730年代は連年唐(蕭嵩)と戦うも反間の計に掛かり歴戦の大論(宰相)バー・タジャコンルーを処刑した事もあって、東部の諸城を落とされるなど軍事的劣勢が続き、度々唐と講和した。739年、金城公主は吐蕃にて死去する。
吐蕃・唐の内乱と唐の弱体化
751年、トゥーラーンの支配権を巡って唐は、前年のザーブ河畔の戦い(英語版)に勝利して誕生したばかりのアッバース朝とタラス河畔の戦いを行なったが、カルルクがアッバース軍に寝返り、敗れた唐は中央アジアの覇権を失った。同年、唐の剣南節度使、鮮于仲通が南詔に大敗。752年、唐に攻められた南詔国王閣羅鳳が吐蕃に助けを求め、王は閣羅鳳を王弟として冊封する。754年に唐の楊国忠が派遣した四川長官の李宓が南詔を攻撃した際には、兵を送り南詔と共に唐軍を破った。
ティデ・ツグツェン王の時代は唐や西域から仏僧を拉致或は招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていたが、754年に大論(宰相)であった功臣のランメシクとバルドンツァブが謀反し、755年にティデ・ツグツェン王が近衛兵によって殺害されスムパ族(蘇毗)も反乱を起こした。ティデ・ツグツェンと金城公主の子ティソン・デツェン[13](在位:755年 - 797年)は乱を鎮圧して蘇毗族も滅ぼし王位を継ぐが、実権は大論(宰相)マシャン・ジョンバジェを筆頭とする外戚が握っており、仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し仏教を法律で禁じた。