詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10777
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
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蔡文姫 《悲憤詩三首 其一》訳注解説 |
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悲憤詩三首 其一 #1
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
漢季失權柄,董卓亂天常。
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
志欲圖簒弑,先害諸賢良。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
逼迫遷舊邦,擁主以自彊。』
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
#2
海内興義師,欲共討不祥。
卓衆來東下,金甲耀日光。
平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。
斬截無孑遺,尸骸相牚拒。』
#3
馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。
還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。
#4
所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。
失意機微閒,輒言斃降虜。
#5
要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。
或便加棰杖,毒痛參并下。
#6
旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。
彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
(悲憤の詩三首)其の一
漢季 權柄を 失し,董卓 天常を 亂す。
志は 簒弑【さんしい】を 圖【はか】らんと欲し,先づ 諸賢良を 害す。
逼迫して 舊邦をに 遷【うつ】らしめ,主を 擁して 以て自ら彊【つと】む。』
#2
海内に 義師を 興こし,共に 祥【よ】からざるを 討たんと欲す。
卓衆 來りて 東下し,金甲 日光に 耀く。
平土の 人 脆弱にして,來兵 皆 胡羌なり。
野に 獵するがごとく 城邑を 圍み,向ふ所 悉【ことごと】く 破り亡す。
斬截【ざんせつ】して 孑遺【げつゐ】 無く,尸骸 相ひ 牚拒【たうきょ】す。』
#3
馬邊に 男の頭を 縣【か】け,馬後に 婦女を 載す。
長驅して 西のかた 關に入るに,迥路【けいろ】は 險にして且つ 阻なり。
還顧すれば 邈【ばく】冥冥として,肝脾【かんぴ】爲に 爛腐【らんぷ】す。
#4
略せる所 萬 計【ばかり】 有りて,屯聚せしめ 得ず。
或は 骨肉の倶【ともな】ふ 有りて,言はんと欲すれど 敢へては 語れず。
意を 機微の閒に 失へば,輒【すなは】ち 言ふに:「降虜を 斃【たふ】すに。
#5
要當【まさに】刃【やいば】を亭【とど】めるを以ってしても,我曹【われら】汝を活かさざるべし。」
豈に 復た 性命を惜みて,其の詈罵【りば】に 堪へざらんや。
或は便ち 棰杖【すゐぢゃう】を加へ,毒痛 參【こも】ごも 并【あは】せ下る。
#6
旦【あした】になれば 則ち號泣して 行き,夜になれば則ち 悲吟して 坐る。
死なんと欲すれども得る 能はずして,生きんと欲すれども 一の 可なるもの無し。
彼の蒼たる者 何の辜【つみ】ありて,乃ち 此(の戹禍【やくか】に遭はさんや!
《悲憤詩三首 其一》現代語訳と訳註解説
(本文)
悲憤詩三首 其一 #1
漢季失權柄,董卓亂天常。
志欲圖簒弑,先害諸賢良。
逼迫遷舊邦,擁主以自彊。』
(下し文)
(悲憤の詩三首)其の一
漢季 權柄を 失し,董卓 天常を 亂す。
志は 簒弑【さんしい】を 圖【はか】らんと欲し,先づ 諸賢良を 害す。
逼迫して 舊邦をに 遷【うつ】らしめ,主を 擁して 以て自ら彊【つと】む。』
(現代語訳)
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
(訳注)
悲憤詩三首 其一 #1
1. その一(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
2. 悲憤詩 この作品は『後漢書・列傳・列女傳董祀妻』に載っているものになる。同書によると「…後感傷亂離,追懷悲憤,作詩二章。其辭曰:」として、この五言詩の作品と七言騒体の作品が載せられている。これは、先に載せられた五言詩の方になる。この作品は、胡人が侵入して漢人を拉致していく場面、胡地の情景と別離の情、帰国の三場面に分けられる。作業の便宜上#をつけて分割表示した。
作品の場面は『後漢書・列傳・董卓列傳』に載ってあるとおりのもので、語彙も一部共通のものがある。或いは『董卓列傳』を編纂の際、『悲憤詩』を参考にしたのかも知れない。または、…。なお、彼女作と伝えられる『胡笳十八拍』については、前ページまでを参照。『古詩源』にも採られている。この作品は、『古詩十九首』『行行重行行』「行行重行行,與君生別離。相去萬餘里,各在天一涯。道路阻且長,會面安可知。胡馬依北風,越鳥巣南枝。相去日已遠,衣帶日已緩。浮雲蔽白日,遊子不顧返。思君令人老,歳月忽已晩。棄捐勿復道,努力加餐飯。」とも似た部分がある。
蔡文姫 文姫は字。後漢末期の才媛、詩人。音律に精通していた。蔡の娘。陳留圉(現・河南省杞県)の人。初めは河東の衛仲道に嫁いだが、夫が死亡して、子どももいなかったため、実家に帰っていた。後漢末の天下喪乱のため、胡族に攫われ(興平二年:195年)、南匈奴の左賢王の后となり、胡にいること十二年、二人の子供を産んだ。 上が女子で、次が男子という。 曹操は、嘗て昵懇だった蔡の家が絶えようとしたため、金璧でもって彼女を買い戻し(建安十二年:207年)、陳留の屯田都尉の董祀に嫁がせた。彼女の作品は三首残されている。そのうち二つが、五言の『悲憤詩』(漢季失權柄,董卓亂天常。)と七言『悲憤詩』(嗟薄兮遭世患,宗族殄兮門戸單。)で、ともに後出 『後漢書・列女列傳』に載っている。
また、蔡文姫の『胡笳十八拍』は、騒体による彼女の数奇な運命に翻弄された人生を詠っており、千古の絶唱といわれている。ただ、正史やこの時代の作品を収めた六朝の『文選』や『玉臺新詠』、また、『古文眞寶』『古詩源』には見られない。(手許にある本で確かめただけになるが…)。これは、北宋・神宗の代の郭茂倩『樂府詩集』にある。彼女については『後漢書・列女列傳』の董祀の妻(蔡)の条に「陳留(前出出身地方名) 董祀(蔡文姫の再婚後の夫の名)妻者(は),同郡蔡之女(むすめ)也,名,字文姫。博學有才辯,又妙於音律。適河東 衞仲道。夫亡無子,歸寧于家。興平中,天下喪亂,文姫爲胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子。曹操素與(蔡)善,痛其無嗣,乃遣使者以金璧贖之,而重嫁於(董)祀。」に記録が残っており、この続きに「後感傷亂離,追懷悲憤,作詩二章」として『悲憤詩』が録されている。
漢季失權柄、董卓亂天常。
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
・季 すえ。
・權柄 人を支配する権力。政治の実権。
・董卓 漢末の群雄の一人。強力な軍隊を背景に、少帝を廃して献帝を擁立し、相国として、一時政権を掌握した。涼州隴西郡の人。董卓の概略を⑴~⒂に示す。
⑴ 中平6年に霊帝が没すると、少帝の外戚である大将軍の何進は司隷校尉の袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官を一掃しようとしたが、妹の何太后らに反対されていた。そこで何進は董卓ら地方の軍事指揮官を召しだし何太后への圧力としようとした。董卓は何進の命令に応じて首都洛陽(当時は雒陽)に軍勢を進めた。
⑵ 宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍の段珪が少帝とその弟の陳留王を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王を救出して洛陽に帰還した。
⑶ 董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。
⑷董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので]、殺害された何進や何苗の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾の丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した。
⑸ 洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。そして少帝の生母である何太后を脅して少帝を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)。その直後、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した。董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、郿侯に封じられた。
⑹ ついで相国となり、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。
⑺ 位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。
⑻ 董卓は名士を取り立てて政権の求心力としようとし、侍中の伍瓊、吏部尚書の周毖、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事を委ね、荀爽を司空、韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史、張咨を南陽太守、張邈を陳留太守に任命した。また、かつて宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置もとった。さらに、董卓に反発し洛陽より出奔した袁紹を追討せず、勃海太守に任命して懐柔しようと図った(『三国志』魏志「袁紹伝」)。
⑼ 董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけで初平元年(190年)に反董卓連合軍を組織した。同年2月、董卓は袁隗ら在京の袁氏一門を誅殺するとともに、弘農王を毒殺した。さらに司徒の楊彪・太尉の黄琬・河南尹の朱儁らの反対を押し切って長安に強制的に遷都した。その際に洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。また、袁紹らとの融和策をとっていた督軍校尉の周毖と城門校尉の伍瓊を殺害した。
⑽ その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃つ姿勢をとった。まず、董卓は河陽津で陽動作戦を用いて泰山の精兵を率いる王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信らを大いに破り、梁県で孫堅を破った。
⑾ この間、兼ねてより折り合いの悪い皇甫嵩が軍勢を率いて関西方面にあったため、董卓は城門校尉に任命すると称して長安から皇甫嵩を召還して殺害しようとした。皇甫嵩が自立を勧める部下の反対を押し切り帰朝してきたため、董卓はさっそく皇甫嵩を逮捕投獄し、死刑にしようとしたが、皇甫嵩の息子の皇甫堅寿が急遽洛陽に駆けつけ、董卓に必死に嘆願したため、董卓は皇甫嵩の軍権を剥奪するに留めた(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。
・長安で死す 初平2年(191年)、胡軫・呂布らが率いる董卓軍が孫堅と戦い、華雄が討たれるなど大敗した(陽人の戦い)。このため、同年4月、董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退した。
⑿ 董卓は長安に着くと太師と称し、董旻、董璜ら一族を皆朝廷の高官に就け、外出するときは天子と同様の青い蓋のついた車を乗り回すようになった。長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳したために、貨幣価値が乱れ、急激なインフレが起こり、経済が乱れた。長安近くの郿に長安城と同じ高さの城壁をもった城塞を築き(郿城・郿塢と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、なお平然と酒を飲んでいたという。董卓に信任されていた蔡邕は董卓の暴政を諌めたが、一部を除きほぼ聞き入れられることはなかった。
⒀ 初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。
⒁ 事件後、長安・郿に居た董旻、董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された(『英雄記』)。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという(『英雄記』)。長安の士人や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ。
⒂ 王允は董卓の与党とみなした人物に対しては粛清する態度で臨み、名声が高かった蔡邕も含めて皆殺害された。
・天常:世の中のきまり。
志欲圖簒弑、先害諸賢良。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
・志欲圖簒弑 『後漢書・本紀・孝獻帝紀』「癸酉(193年:初平四年),董卓殺弘農王」 『後漢書・列傳・董卓列傳』「卓乃奮首而言曰:『大者天地,其次君臣,所以爲政。皇帝闇弱,不可以奉宗廟,爲天下主。今欲依伊尹、霍光故事,更立陳留王,何如?…昔霍光定策,延年案劍。有敢沮大議,皆以軍法從之。』坐者震動。…明日復集羣僚於崇德前殿,遂脅太后,策廢少帝。曰:「皇帝在喪,無人子之心,威儀不類人君,今廢爲弘農王。」乃立陳留王,是爲獻帝。又議太后戚迫永樂太后,至令憂死,逆婦姑之禮,無孝順之節,遷於永安宮,遂以弑崩。」のことや「卓諷朝廷使光祿勳宣持節拜卓爲太師,位在諸侯王上。乃引還長安。百官迎路拜揖,卓遂僭擬車服,乘金華青蓋,爪畫兩,時人號「竿摩車」,言其服飾近天子也」を指す。
・圖:くわだてる。はかる。
・簒弑:主君を殺して帝王の位を奪い取る。簒奪と弑逆。
・先害諸賢良 「卓素聞天下同疾閹官誅殺忠良」ゆえ、伍瓊、周等を登用した。しかし、黄巾の乱の残党の「白波賊」が太原や河東を侵したため、危機感を抱いた董卓は、皇帝を弑して遷都を考えた。そのことに反対した伍瓊や周等を殺害したことを指す。『後漢書・本紀・孝獻帝紀』では「庚辰(200年:建安五年),董卓殺城門校尉伍瓊、督軍校尉周。」とあり、『後漢書・董卓列傳』の表記では「靈帝末,黄巾餘黨郭太等復起西河白波谷,轉寇太原,遂破河東,百姓流轉三輔,號爲『白波賊』,衆十餘萬。…及聞東方兵起,懼,乃鴆殺弘農王,欲徙都長安。而伍瓊、周又固諫之。卓因大怒曰:『卓初入朝,二子勸用善士,故相從,而諸君到官,舉兵相圖。此二君賣卓,卓何用相負!』遂斬瓊、。…於是遷天子西都。」になる。
逼迫遷舊邦、擁主以自彊。
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
・逼迫:〔ひょく(ひつ)はく;bi1po4〕さしせまる。
・遷:移す。ここでは、「逼迫」をうけて、使役の意になる。
・舊邦 ここでは、前漢の首都、古都長安のことになる。後漢の光武帝は、洛陽を首都にした。前出『後漢書・董卓列傳』の「黄巾餘黨郭太等復起西河白波谷,轉寇太原,遂破河東,…於是遷天子西都。」のこと。『後漢書・孝獻帝紀』に詳しい。
・擁主 (少帝を廃して)献帝を擁立したこと。「擁王」(『古詩源』)ともする。
・以 …(すること)で。
・自彊 みずからつとめる。みずから強める。自ら向上をはかる。ここでは、一時政権を掌握したことをいう。