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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10763

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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10763

Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ

 

Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10763

 

 

 

中国史・女性論

 

 

Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)

 

-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主

はじめに(唐とティペット王国との関係を背景)

1. 吐蕃王国と吐谷渾

2. 唐と吐蕃の関係

3. 文成公主の降嫁

 

§-4 蔡文姫史話

1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫

2. 蔡文姫について

3. 後漢末の政治の乱れ

4. 黄巾の乱と軍閥の混戦

5. 悲憤の詩

6. 南匈奴部と後漢帝国との関係

7. 南匈奴部の反乱と分裂

8. 帰都の実現

9. 母子別離の情

10.  胡笳十八拍 漢魏 蔡文姫  訳注解説  

 

 

 

 

-§-4 蔡文姫、史話

辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語

 

 

3. 後漢末の政治の乱れ

 

後漢帝国の紀綱の乱れは、すでに第四代の和帝時代(88105)からはじまるといえる。というのは、和帝以後第十二代の霊帝までは、八歳から十五歳の幼帝が多く、中には生後わずかに百余日とか、二歳という天子もあった。そのため政権は外戚の手にうつり、やがて外戚に代わって、百官が放屁するようになった。

光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。

 

外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。

こうして、内外にわたる宦官の専横・不法に対して、気節ある一部の官僚グループは、峻烈な弾劾・攻撃を行ったため、宙官は対抗上、気節の士を政界から廃除すべく、執えて郷里に終身禁錮することとした。いわゆる「党錮の禁」または「党錮の獄」である。

党錮の獄は、霊帝(168188) のとき再びおこされたが、二度目の獄は徹底的であって、党人の名のもとに、あるいは殺されたり流されたり、あるいはまた、廃禁されたものは六、七百人の多数をかぞ、え、気節の士は、ほとんど官界から根絶されてしまい、いよいよ宦官の専横はきわまった。

 

 

幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。

 

この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。

前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中ではこれより少なかった。

 

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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