詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10770
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 10. 胡笳十八拍 漢魏 蔡文姫 訳注解説 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
このような政界のありさまに対して、一般社会でも、前漢の中期以後あらわになった豪族の大土地所有は、いよいよ深刻化し、自作農民はしだいに土地を失って小作民や奴婢の身分に転落したり、一部のものは、流民となって都市に流出し、無頼の徒やルンペンに成り下がって、社会の腐敗と秩序の乱れに拍車をかけていった。
こうした社会的不安を背景に、184年黄巾の乱が勃発した。この反乱の舞台は、山東・河北・河南から揚子江流域にまでおよぶ広範なもので、三十六万の農民が、たちあがったといわれる。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
黄巾の賊乱は、やがて鎮定され、また騎横にふるまった二千人にあまる百官も、司隷校尉(首都防衛司令官)の袁紹によって尽く殺されてしまった。
百官が蓑紹によって課滅されたものの、しかしそのあと出て来たのは、軍閥による混戦であった。いわゆる「後門の虎」というところである。黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
これよりさき、宦官討減のため外戚の大将軍何進によって招集された地方軍団の一人である幷州の牧(山西省中・北部の長官)董卓は都の洛陽に入京してくると、189年クーデターによって天子の擁立を行い、かれが擁立した献帝を奉じて政権をにぎり、また麾下の羌族(ティベット族)を主体とする傭兵部隊も暴虐のかぎりをつくした。
そこで190年正月を期して、袁紹らは各州・郡の長官や太守をかたらって義兵を挙げ、洛陽へと進撃した。のちの三国時代の魂を興した曹操も、これら義軍の一部将であった。
この形勢をみて董卓は、同年二月、献帝を擁して都を洛陽から西の長安(いまの西安市)に遷したが、かれは義軍が洛陽をめざすときくや、直ちに東にとって返し、各地で烏合の同盟義軍を破り、翌年四月、再び長安に引き揚げた。このとき祭文姫は、人びととともに董卓麾下の羌族傭兵部隊に劫去されて長安に連れ去られたのであった。
その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る(詳しくは「三国時代」を参照)。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡であった。220年、曹操の子曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。