詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10749
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
られた蔡文姫
これまでみた細君、王昭君、文成公主の三題は、いわゆる和蕃公主に関する史話であるが、この第四題目の「蔡文姫、都に帰る」史話は、和蕃公主のそれとは少しちがって、中原に侵入した辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語である。
和蕃公主のような事例は、中国史上数多いが、そのような政略結婚による外交折衝では、平和は長つづきせず、周辺とくに北アジア世界や西北辺境からの異民族の侵入、侵略戦争は、歴代の王朝にわたって絶えずつづく。そして、そのたびにおびただしい人・畜・財・物が劫去される。そのうち、人といっても多くは婦女子であったろうが、みな歴史のかなたに消え去ってしまって実態はわからない。
しかし、それらのなかで、ひとり表題の蔡文姫は、みずからの悲運な境涯を、かの女のすぐれた才筆に託して、五言の長詩「胡、笳十八拍」 に書きのこしており、それが正史の 『後漢書』中に収載されたため、後世の人びとに語りつがれ、また「文姫帰漢図」(ボストン美術館蔵であり、台湾故宮博物館蔵)とか「胡笳十八拍」画巻(南京博物館蔵)などとして画巻にも描かれ、あるいは、近くは郭沫若によって五幕の歴史劇「察文姫」としても上演されている。
蔡文姫/蔡 琰 (177年(熹平6年)- 249年(嘉平元年))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡邕。甥は羊祜。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。
南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。 蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となるが、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。
没年 蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『晋書』景献羊皇后伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は249年だと述べている。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である蔡文姫の妹・貞姫の名が見られる。
また、1992年に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177-254年」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功、蕭綽・王昭君・花木蘭がある。
字の異同 蔡琰は『後漢書』本伝に字を文姫と説明されるが、『後漢書』の注釈にある『列女後傳』は字を昭姫と記録する。このような漢字の違いは王昭君にも見られ、彼女を題材にした西晋の石崇作『王明君辞』が現存する。これらの現象は晋書の司馬昭の諱の使用を避けるために改めた結果である。晋代に成立した蔡琰の伝記が『後漢書』の列伝や『芸文類聚』、『太平御覧』等に収録されたため、避諱後に出来た名称の文姫が後世に広く伝わった。
琴を弁じる 蔡琰が幼い頃、夜に蔡邕が琴を演奏していた。演奏の最中に琴の二番目の弦が切れ、別室で父の演奏を聞いていた蔡琰が「第二弦」と言った。蔡邕が不思議に思いわざと四番目の絃を切ると、またも「第四弦」と蔡琰は言った。蔡邕が「たまたま言い当てたのだろう」と言うと、蔡琰は「昔、呉季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠は律管を吹いて楚軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと言うのですか」と答えた。それを聞いた蔡邕は驚いた。 この逸話は初学者向けの教科書の『蒙求』と『三字経』に取り入れられ、女性にも聡明な者がいることと、男子はこのような才女に見劣りしないよう勉学に励むべきだという教えに用いられた。
書の伝道師 唐の張彦遠の『法書要録』中にある「伝授筆法人名」に次の記述がある。蔡邕の筆法は崔瑗と蔡琰に伝わり、蔡琰が鍾繇に伝えた。鍾繇の筆法は衛夫人に伝わり、衛夫人が弟子の王羲之に伝えていき、その後の多くの能書家に伝わった。
その他 陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。
蔡琰の著作 自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わる。一説に『胡笳十八拍』は後世の詩人が蔡琰に仮託してできた産物だという。なお『胡笳十八拍』の楽曲は現代に伝わり、中国十大古典名曲の一つに数えられる。
蔡琰の人生を題材にした作品には、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした戯曲が多数作られており、元の金志甫の『蔡琰還漢』や明の陳与郊の『文姫入塞』、曹雪芹の祖父曹寅の『続琵琶』、郭沫若の『蔡文姫』などがある。
金星には彼女の名がついたクレーター (Cai Wenji、蔡文姫) がある。