詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10742
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
3. 文成公主の降嫁
文成公主が、数ある宗主の公主のうちから、どうして吐番への和蕃公主としてえらばれたのかは明らかでないが、かの女がソンツェン=ガムポに降嫁して入蔵したことについて、比較的詳しく伝えているのは、『旧唐書』巻一四六、「吐蕃伝」(上)である。要訳すると、つぎのようである。
貞観十五(六四一)年、太宗は文成公主を弄讃(ソンツ工ン)に降嫁させることとし、礼部尚書(外務大臣)江夏王の道宗に婚儀を司らせ、公主を吐書に送らせた。
ソンツェンは部下をひきいて栢海に屯し、黄河の河源の地(吐谷渾国)まで親しく出迎 え、大臣の江夏王道宗に会見し恭しく婿としての礼を執った。かれは大国(唐朝)の服飾、儀礼の美々しさに感嘆し、帰し仰いで、おのがみすぼらしさ(粗野さ)を愧じ、おそれる様子であった。
ちなみに、河源の地に親迎した云云について、『新唐書』「吐蕃伝」には、つぎのように、もっと具体的に「館を河源王の国(吐谷渾)に建てさせた」と伝えているが、河源王とは吐谷渾王のことで、ソンツェンは、このとき、さきに服属した吐谷樺の地 (ツァイダム盆地)に、新たに館を建てさせて、公主一行を親迎したというのである。
おもうに、これは佐藤長教授もいうように、吐谷渾が完全に吐蕃の勢力下にあったことを唐側に誇示しようとしたのであろう。
こうして、文成公主の降嫁を機に、儀礼・服飾・調度品をはじめ唐朝の文物がしだいに吐蕃の王廷内へ移入されるようになった。また中国仏教のチベットへの流入も、文成公主にはじまるといわれ、チベットに仏教を将来した文化指導者として、文成公主は、ターラの一化身緑ターラと称して、後世永く敬仰されている。ラサ市のラモチェ廟(小召寺)はかの女の建立にかかるという。
ちなみに、文成公主の吐蕃への降嫁については、チベット側の史料である『テブゴン』にもタン(唐)タイズン(太宗)の即位九年(貞観八年)に、チベットの王と贈物を相互におくって親交した。チベットはシナ王の女を迎えようとしたが与えられず、チベット持すは怒って八年ほどの間(唐と)戦を交えた。そして軍がかえったのち ―軍をかえしたのちに?― 王は〔大論の〕ガルトンツェンに黄金や宝石の類を数多く持参させて、太宗の女ウンシンコンジョ(文成公主)を辛丑の年(貞観十五年)に与えられた。とみえるが、この一文は公主の降嫁の成果を過大に見せる唐側の史書によったものと思われる。ついでに、文成公主の入蔵にまつわる逸話の一節を、つぎに書き添えてみる。
文成公主が都の長安を出立するとき、かの女は日月の鏡をたずさえてきたが、青海湖に近い山(祁連山脈の一峯)の尾根まできたとき、遥か遠い行く手に、ふるさとの空を懐かしむあまり、懐中の日月鏡を見ようとした。ところが付き添いの吐蕃の家臣どもが、鏡を石にすりかえていたため、かの女はその鏡をすて、望郷の念を断ち切って吐蕃へ向かった。
という。今日この日月山麓には、文成公主廟が建っている。この伝えはフィクションであるとしても、異境に旅立つ文成公主の悲しい心根を、よく物語っているといえるであろう。