詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》2. 蔡文姫について
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
2. 蔡文姫について
蔡文姫は名を班、字を文姫といい、河南省陳留(開封東南の把県)の人で、蔡文姫について後漢後半期の知名の学者で、班昭を援けて『漢書』の続修にも従った一人であり、また詩人としても知られた禦鮎(223~292)の女として生まれた。
陳留は穎川、南陽とともに後漢時代には学問の一中心であったので、かの女の処女時代は、好きな学問にはげみ、また音楽をたしなむなど、幸せな生活を送っていた。そのため女の身ながらも、父の学問をうけついで博識高牙のはまれ高く、父はかの女の才能を賞でて、こよなく愛したという。
蔡文姫が音楽にも堪能であったことについては、つぎのような逸話からも知られよう。
ある夜、父の亀が琴を弾じていたところ、とつぜん舷がきれた。隣室で聴いていた文姫は、たちまち、それが第二の舷であることを言いあてたので、父は、まぐれあたりであろうと思い、娘の耳をためす意味で、わざと一絃を切って、第何舷かをたずねたところ、かの女は言下に第四の絃であると答えたため、亀はその音感の正確さに舌をまいた。
という。
かの女はやがて、河東郡(山西省)の衛仲道に嫁したが、ほどなく夫に死別した。不幸はこの時からはじまった。
かの女は、たまたま子に恵まれなかったので、衛家を去って実家に帰ってきたところ、世は後漢の末つ方、当時の中央政界は、外戚の専権と宦官の跋扈とで紊乱をきわめたため、世情は騒然たるものがあった。
『後漢書』巻二四、烈女伝、「董紀の妻」(蔡文姫)の条には、
実家に帰っているうち、献帝の興平中(一九四〜一九五) に胡騎に劫め去られて南勾奴の左賢王の夫人となり、胡中に留まること十二年、二子を生んだ。
と簡単に伝えるにすぎないが、かの女が、どうして南匈奴に連れ去られて十二年間も留まらねばならなかったかについて、以下、後漢末の複雑な政情をまじえつつ、その歴史的背景を述べてみよう。
後漢末の文学
蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。
歴史の分野ではまず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として高い評価を受けている。
他には班固の父の班彪が『史記』の武帝以後の部分を埋めた『後伝』、後漢王朝についてを同時代人が書いた文章をまとめた『東観漢記』などが挙がる。
漢詩の分野では班固『両都賦』,張衡『二京賦』などがあり、この時代に五言詩が成熟し、末期の蔡邕(邕は邑の上に巛)になって完成したと言われる。
その流れが建安年間(196年 - 220年)になって三曹(曹操,曹丕,曹植の親子)や建安七子へと受け継がれ、建安文学が形作られる。