詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年6月2日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩(李白集校注) LiveDoor |
745-026-#1 單父東樓秋夜送族弟沈之秦(卷十六(二)九九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8807 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 LiveDoor |
806年-101 先生-巻八-01#20城南聯句 §5 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8820 |
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Ⅲ 杜詩詳注 LiveDoor |
767年-117七絶 解悶十二首其五(卷一七(四)頁一五一四)七絶 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8833 |
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Ⅳブログ詩集漢・唐・宋詞 fc2Blog |
花間集 訳注解説 (209)回目張泌 《巻四36 浣渓沙十首 其十》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8822 (06/02) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性・玉臺新詠 Live oor |
玉-巻二20 樂府詩七首 其一靑靑河邊草篇 -#3〔傳玄〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8823 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ唐代女性論 |
八、2. 妓 優 薛濤の詩の案内(4) 薛濤と交際していた詩人の関連詩 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8824 |
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2017年6月1日 |
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745-025-#4巻180-35 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8813 |
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806年-100 先生-巻八-01#19城南聯句 §4 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8814 |
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花間集 訳注解説 (208)回目張泌 《巻四35 浣渓沙十首 其九》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8816 (06/01) |
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八、2. 妓 優 薛濤の詩の案内(3) 七十一首から九十五首まで 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8818 |
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2017年5月31日 |
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745-025-#3巻180-35 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8807 |
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花間集 訳注解説 (207)回目張泌 《巻四34 浣渓沙十首 其八》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8810 (05/31) |
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薛 濤 全 詩 |
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2017年5月30日 |
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Ⅰ李白詩 |
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薛濤の全詩 案内表
薛濤は西川節度使が管轄する官妓であった。「韋皐から李德裕までの歴代十一人の節度使に仕えて、詩によって知遇を受けている。その間に元稹・白居易・牛僧孺・令狐楚・裴度・嚴綬・張籍・杜牧・劉禹錫等、凡そ二十人の名士とも詩を唱和したとされる。また薛濤が詠じた詩は、『稿簡贅筆』には「有詩五百首」とあるが、現存しているのはここに掲載する約九十首全詩である。
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薛 濤 全 詩 |
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2017年5月29日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-025-#1 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8783 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-97 先生-巻八-01#16城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8796 |
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767年-114 解悶十二首其二(卷一七(四)頁一五一二) 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8827 |
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漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (205)回目張泌 《巻四32 浣渓沙十首 其六》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8798 (05/29) |
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玉-巻二19 詠懷詩二首 其二昔日繁華子 -#2〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8799 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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八、1. 妓 優
金燈花 薛濤
金燈花、金䙁花
山慈姑花.【さんじこのはな】 別名金燈花(《本草拾遺》)。 蘭科の植物で杜鵑蘭あるいは獨蒜蘭等の花である。花苗の長さは45寸、葉は厚く狭く、茎を抱いて生ず。茎は柔らかく脆いとされ、茎の頭に花を咲かせる。指の頭のような形になるが花を咲かせると茎や葉は花に隠れてしまう。長春花が一番近い花である。功能主治『綱目』によると:治小便血淋澀痛。
金燈花
闌邊不見蘘蘘葉,砌下惟翻艷艷叢。
欄干の端の方から見るとこの花がぱっと開くとその下の葉と茎はシュッシュッとして葉幅が狭く、茎が柔らかなので隠れて見えない。高楼の庭に降りる石段の際の所に、ただ、えんえんとしてあでやかに咲き集まるこの花を見る。
細視欲將何物比,曉霞初疊赤城宮。
一杯に咲いている花も一つ一つ細やかに見ていくとこれを何かに喩えられるのである、それは、こんなに咲き誇っていてもやがて凋んでいくこの街の女に喩えられ、今朝日に照らされた青城山の上に幾重にも重なってある年増女の往きつくさきの赤城の宮が思われてならない。
(金燈花【きんとうか】)
闌邊【らんべん】蘘蘘【じょうじょう】の葉を見ず,砌下【ぜいか】惟だ艷艷【えんえん】の叢【くさむら】を翻えす。
細かに視ては何物を將って比せんと欲す,曉霞【ぎょうか】初めて疊なる赤城の宮。
芸妓について
妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと。娼妓、娼女という呼称もある。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。また、道教の寺観にも娼婦に近い巫女がいた。この時代において、女性が男性と対等にできる唯一の場所であった。
もともとは国家による強制的な徴発と戦時獲得奴隷が主な供給源だったと考えられるが、罪人の一族を籍没(身分を落とし、官の所有とする制度)する方法が加わった。また、民間では人身売買による供給が一般的であった。区分すると以下の通り。
(1.宮妓 2.家妓 3.営妓、4.官妓、5.民妓、6.道妓)
1 宮妓
皇帝の後宮に所属。籍没された女性や外国や諸侯、民間から献上された女性。后妃とは別に、後宮に置かれ、後宮での業務をし、技芸を学び、皇帝を楽しませた。道教坊で技芸を習得した女性もこれに含まれる。班婕妤・趙飛燕や上官婉児などのように后妃に取り立てられるものもいた。
2 家妓
高官や貴族、商人の家に置かれ、家長の妾姫となった。主人だけではなく、客を歓待する席でも技芸により、これをもてなす役目があった。官妓から、臣下に下賜されて家妓になるものもいた。始皇帝の母にあたる呂不韋の愛人や、西晋の石崇の愛妾である緑珠が有名。
3営妓
軍隊の管轄に置かれ、軍営に所属する官人や将兵をその技芸で楽しませた。蘇小小。唐代女流詩人の薛濤が有名。
4官妓
中央政府の道教観や州府の管轄に置かれた。実際は、妓楼や酒楼は個別に運営されており、唐代・長安の北里、明代・南京の旧院は、その代表的な色町である。唐代の天宝年間以降に彼女らを題材にして、多くの士大夫が詩文にうたい、妓女となじんだという記録が盛んになる。唐代はその活動は最大なものであった。
唐代女流詩人の魚玄機、明代の陳円円、李香君、柳如是が有名。
5民妓
民営の妓楼に所属した。売春だけを目的とした女性も含まれる。明代以降、官妓が衰退した後、大きな役割を果たすようになった。清代は上海に多くの民妓がいた。宋代の李師師が有名。
6.道妓
道教の祠に学問等していない娼婦に近いものが多かった。
妓館には、花や植物が植えられ、狆や鸚鵡が飼われ、香炉が置かれ、また、雲母屏風、山水画や骨董が飾られているところが多く、庭園風になっているものもあった。妓館は、互いに奇をてらい合い、提供される様々な香りが数里先まで漂ったと伝えられる。さらに、厨女(女料理人)が働いており、彼女らが料理する山海の珍味がすぐに作れるように準備されていた。旧院には商店もあり、客が妓女に贈るための高級品が置かれていた。また、茶を専門とする茶坊もあった。夜には、妓女による音楽が奏でられ、芝居が上演された。妓館の額もまた、名人の手になるものがいくつもあった。妓館には、他に下働きの下女と男衆が別にいた。
薛濤の全詩 案内表
薛濤は西川節度使が管轄する官妓であった。「韋皐から李德裕までの歴代十一人の節度使に仕えて、詩によって知遇を受けている。その間に元稹・白居易・牛僧孺・令狐楚・裴度・嚴綬・張籍・杜牧・劉禹錫等、凡そ二十人の名士とも詩を唱和したとされる。また薛濤が詠じた詩は、『稿簡贅筆』には「有詩五百首」とあるが、現存しているのはここに掲載する約九十首全詩である。
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2017年5月28日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-024巻183-05 寓言三首其三(卷二四(二)一三九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8789 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-95 先生-巻八-01#15城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8784 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-集-16 【字解集】 ・i.-別崔潩因寄薛據孟雲卿 ・j-寄韓諫議 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8803 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (204)回目張泌 《巻四31 浣渓沙十首 其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8792 (05/28) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二19 詠懷詩二首 其二昔日繁華子 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8793 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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七、商家の女性
那ぞ商人の婦と作リて、
水を愁い復た風を愁うるや
李白
唐代には商業の繁栄、商人の活躍がめざましく、そのため商人階級の女性たちが世間の注目を浴びる一群を形成した。しかし、彼女たちの間の貧富の格差は大きく、公主や貴婦人に等しい富を持つ大商人の夫人もいれば、零細な経営で苦しむ小売商人の女性もいた。大塩商の妻がどのような生活をしていたか見ておこう。
(塩商の婦) 白居易
墟跨の婦 金帛多し、田農と蚕績を事とせず。
南北東西 家を失わず、風水を郷となし船を宅と作す。
本と是れ揚州の小家の女、嫁し得たり 西江の大商客。
緑の鬘は溜去て金の奴多く、皓き腕は肥え来たりて銀の釧窄し。
前に蒼頭(下男)を呼び後に婢を叱る、爾に問う 何に因って此くの如きを得たる。
婿 塩商となりて十五年、州県(地方政府)に属さず 天子に属す。
毎年 塩利の官に入る時、少しく官家に入れ多く私に入る。
・・・・
紅の檜 黄の直 香ばしき圀販。
飽い食べ 濃い汝をし柁楼(船尾の操舵室)に倚る、両栞の紅い額 花 綻びんと欲す。
塩商の婦、幸い有りて塩商に嫁す。
終朝 美き飯食。 終歳 好き衣裳。
彼女たちは終日飽食し、けばけばしい化粧をし、下男下女を意のままに使った。なんという快適、なんという贅沢さであったことか。これはごくまれな現象ではなく、唐代の豪商の家にいる婦人の生活はしばしば王侯貴族の女性のそれを越えていたようである。
しかしながら、商家の婦人にもそれ特有の悩みがあった。唐詩の中には商家の女たちの悩み、恨みを描いた大量の詩がある。それらは彼女たちに共通する心理をじつによく反映しており、また彼女たちの特殊な生活と憂愁の情が社会の注目を浴びていたことを示している。
第一に、商人は東奔西走し、水陸の間を往来したので、波や風、強盗の出没、健康状態、生命の安危などが商家の婦人の最大の心配ごとだった。「那ぞ商人の婦と作りて、水を愁い復た風を愁うるや」(李白「長千行」)、「揚州の橋の辺の少婦、長安の市裏の商人、二二年 消息を得ず。各おの自ら鬼を拝し神に求む」(王娃「江南三台詞」)という状態だった。
第二に、「商人は利を重んじ、別離を軽んじた」(白居易「琵琶行」)ことである。商人は常にあちこち漫游し、数年も帰らず、ある者は花柳の巷に遊び、妻子を忘れ去った。それで商家の婦人たちは往々にして半生を孤独に過ごし、夫婦の長い別離を悲しみ、夫の薄情を恨んだ。「商人の婦と作るを悔む、青春 別離長し」(李白「江夏行」)、「商人に嫁与ぎて頭白からんと欲するに、未だ曾つて一日も双行たるを得ず。君が利を逐うて江海を軽んずるに任すも、風や濤を妾の似く軽んずる英れ」(劉得仁「貫婦怨」)。心配、思墓、寂寞、怨恨、こうした感情は商家の婦人たちの裕福な生活の中における「楽しまざる」ところであった。 唐代の女性の中には自分で商業を経営するものも少なくなかった。しかしながら、彼女たちの大多数は小規模の商売で、大商人の出現などなかったようである。ただ段成式の著した『剣侠伝』の中に、唐代後期のこと、揚州に寡婦として暮らす女商人荊十三娘というものが資産を持っていた話が出てくるが、彼女はきっと富商であったろう。その他の書物に見える者はみな中小商人であり、その中では飯屋、酒屋、旅龍などを開くものが多かった。『太平広記』に次のような話がある。注州の西に板橋店という宿場があり、宿屋の女将の三娘子は一人者だが、広さ数間の家屋を持ち、料理屋を開いて大変豊かであったという話(巻二八六)、洛陽の敏財里に郭大娘という女性がおり、酒場を開いていたという話(巻三八二)、また謝という姓の一婦人が酒を売って生業としていたという話(巻一三四)などである。また『唐国史補』に、王積薪というものが夜旅龍に泊ったところ、主人は丁入の老婆で息子の嫁と一緒に経営しており、雑貨の小売りもしていた、という話がある。また、唐の太宗に仕えた名臣馬周の妻はもともと「蒸し餅売りの女」であった(『甫部新書』丁)。『太平広記』にはその他に「履物売りの老婆」、「着物売りの女」等々の例も記されている。こうした女性たちの大半は都市や田舎町に集中し、東奔西走する行商人ではなかった。
商業を営む女性のなかで、いささか目を引くのは「胡姫」(西域出身の美女)である。彼女たちは中原に移ってきた少数民族の女性で、大半が長安などの大都市で酒場を開いていた。彼女たちの店は特に詩人や名士にひいきにされ、李白などは常々「五陵の年少 金市の東、銀鞍白馬 春風を度る。落花踏み尽くして何処にか遊ぶ、笑って入る胡姫の酒肆の中」(「少年行」)という具合であった。
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2017年5月27日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-023巻183-05 寓言三首其二(卷二四(二)一三九二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8783 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-95 先生-巻八-01#14城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8784 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#4 寄韓諫議#4 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8797 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (203)回目張泌 《巻四30 浣渓沙十首 其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8786 (05/27) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
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玉-巻二18 詠懷詩二首 其一二妃遊江濱 -#2〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8787 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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2017年5月26日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-022 寓言三首(卷二四(二)一三九一) 其一(頁一三九一)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8765 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-94 先生-巻八-01#13城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8778 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#3 寄韓諫議#3 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8791 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (202)回目張泌 《巻四29 浣渓沙十首 其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8780 (05/26) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二18 詠懷詩二首 其一二妃遊江濱 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8781 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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六-1、平民労働階級の女性一農家の女性
労働する平民の女性は唐代の女性たちの最も主要な構成部分であり、直接生産労働に参加し富を生みだす主要な源泉でもあった。
一 農家の女性
「男耕女織」、これは中国古代の標準的な農家の生活風景である。唐代の農民は官府に租税を納める外に、なお調として絹、綾、布、綿などを納めねばならず、これらの任務はみな女性たちが担わされていた。少数の豪紳地主の家の女性を除いて、大多数の農家の女性は、その生涯のすべてを養蚕や紡織の仕事に投じた。社会全体の「衣と食」という二つの大仕事は、彼女たちがその半分を担ったのであるが、それと同時に彼女たちは精美な織物を大量に作って古代文明に貢献したのである。 「夫は田中の郎、妾は田中の女。当年君に嫁し得て、君の為に機抒を秉る。筋力は日に已に疲るるも、窓下の機を息めず。如何せん統素を織るに、自らは藍攘の衣を著くるを」(孟郊「織婦辞」)。
これが一般の農家の女性たちの労働と生活の状況であった。
春が来るとすぐに彼女たちは桑の葉を摘み、蚕を飼うことに明け暮れるようになる。「暁夕桑を採んで苫辛多く、好花の時節も不閑身」(来鵠「蚕婦」)。
「桑林棋黒く蚕は再び眠り、婦姑は桑を採んで田に向かわず」(張籍「江村行」)。彼女たちは天の神様に御加護を祈る、どうか繭がたくさん取れますようにと。「但だ青天を得て雨下らず、上に蒼蝿無く下に鼠無からんことを。新婦は族を拝して繭の桐なるを願い……。三日箔を開けば雪く団団、先ず新たな繭を将て県官に送る。已に聞く郷里にては織作を催すと、去きて誰人の身上に著けられん」(王建「族蚕辞」)。
女たちは養蚕の収穫が悪いと悲しんで涙を流す。「春風は蚕を吹き細きこと蟻の如く、桑の芽は後く青鴉の嘴を努す。侵晨に探り采るは誰が家の女、手に長き条を挽きつつ涙は雨の如し。……愁い聴く門外に里骨の催すを、官家は二月に新しき糸を収む」(唐彦謙「桑を採る女」)。
桑摘みと養蚕で多忙を極めているのに、官府は納税を迫るので、女たちは夜を日に継いで乎足を休めず機を織らねばならない。「妾が家は豪門に非ざるに、官賦は日に相い追う。枝を鳴らして夜より暁に達するも、猶お時に及ばざらんことを恐る」(司馬札「蚕女」)。「
貧家の女は富家の為に織り、……水は寒く手は渋み糸は脆くも断つ、続来続去 心腸は爛る。草虫は促促と機の下にて啼き、両日 催して一匹半を成す。宮に輸むれば上頭に零落有りと、姑は未だ衣を得ず 身も著けざるに」(王建「当窓の織」)。
蚕桑、紡織の他に、さらに彼女たちは山菜や野の果実を採ったり、薪を集めたり、米を拠いたりする重労働にも従事した。夜が更けても、村の女はまだ仕事を続けている。「田家 秋作に苦しみ、鄭女 夜 春くに寒し」(李白「五松山下の菊姐の家に宿す」)。
白髪の老婆は、朝早くから夜遅くまで橡の実を拾って家人の食糧にする。「裂仮った黄髪の姐 之(橡の実)を拾って晨霜を踏む。時を移して(しばらくして)始めて掬に盈ち、日を尽して方て筒に満てり。幾びか曝し復た幾びか蒸し、用て三冬糧(冬三ヵ月の食糧)と作す」(皮日休「橡姐の嘆」)。
租税を納めると生活できない貧家の女たちは、ただ麦の落穂を拾って飢えをしのぐしかなかった。「復た貧しき婦人有り、子を抱きて其の傍らに在り。
右の手にて遺ちた穂を秉り、左の背には斂れたる箆を懸く……。家も田も税を輸めて尽き、此を拾いて飢えたる腸を充たす」(白居易「麦を刈るを観る」)。
また、ある貧苦の農婦は日傭いに出ねばならなかった。「貧窮せる田舎の漢、……妻は即ち春稿に客わる」「黄昏 家裏に到れば、米無く復た柴無し」(楊公礦『唐代民歌考釈及変文考諭』第八篇、吉林人民出版社、一九六二年)。山村の女の多くは柴を欲り、それを売って生活した。彼女たちは、「乱蓬を誓となし布を巾と為し、暁に寒山を踏んで自ら薪を負う」(白居易「薪を売る女に代って諸妓に贈る」)。
大部分の女はすでに四、五十歳、頭髪は半ば白くなっているが、なお「十に猶お八九は薪を負うて帰り、薪を売り銭を得て供給に当つ」。彼女たちの生活はきわめて辛いものであり、心は悲しみと苦しみに満ちていた。「面を汝い首を飾るも啼の痰を雑じえ、地は福く衣は寒く石根に苦しむ」(杜甫「負薪行」)。
苛酷な労働、困難な生活は、彼女たちの青春の血と汗を消耗し尽くし、衣服はぼろぼろ、顔はやつれはてた。「粉色は全く無く飢色加わる、壹に人世に栄華有るを知らんや。年年 我に道う 蚕は辛苦なりと、底事ぞ 渾身に苧麻を着くるは」(杜萄鶴「蚕婦」)。
猛暑と風霜の苦しみをいやというほど味わったので、披女たちの顔は黒く髪は赤茶けた。一年中あくせく働いたので、化粧を顧みることもできなかった。詩人によって描写された、ある里帰りの農婦の姿は次のように粗末なものであった。「二升の酸酷をば瓦瓶に盛り、姑姉に請い得たり十日の程。赤黒く眉を両き水に臨んで(水に顔を映して)笑い、草鞄もて脚を苑み風を逐って行く。黄ばめる糸のごとき髪は乱れて槐僚は緊く、青き柁の裾は高く種掠は軽し」(種掠は意味不詳。張結「戯れに村婦に贈る」)。
彼女たちは決して生れつき粗野で醜かったわけではない。ほかならぬ辛く苦労多い生活が早々と彼女たちの青春の輝きを奪い去ったのである。
北方農村の女性に比べると、詩人たちによって描写された江南の女性の労働と生活は、それほど苦労に満ちて重苦しいものではなく、比較的軽やかで活発なものだったように見える。彼女たちの日常の仕事には蓮や菱の実取り、洗濯、機織り、船漕ぎ、牛飼いなどがあった。
「秋江の岸辺 蓮子多く、蓮を採る女見は船に凭りて歌う。青き房 円き実 斉敢栽と、前を争い競って折れば微波を崖らす。試みに緑茎を牽きて下に稿を尋ぬれば、断たれし処 糸多く刺して乎を傷む。白き練もて腰を束ね袖は半ば巻き、玉の鉄を挿さず 汝槐は浅し」(張籍「採蓮曲」)11これは蓮を採る女。
「白馬湖は平らかにして秋日光き、紫菱は錦の如く採鴛翔ける。舟を蕩らす遊女は中央に満ち、菱を採りて馬上の郎を顧みず。多きを争い勝を逐って紛として相い向い、時に蘭の桃を転じて軽浪を破る」(劉瓜錫「採菱行」)-これは菱を採る女。
「玉面の耶渓の女、青蛾 紅粉にて汝う。一双の金歯の殷、両足 白きこと霜の如し」(李白「涜紗石上女」)-これは裸足で紗を洗う女。
* 耶渓は会稽郡にある若耶渓のこと、昔美人の西施が紗を洗ったところという。
「江南の人家 橘樹多く、呉姫は舟の上にて白き苧を織る」(張籍「江南曲」)-これは苧を織る女。
「金釧(金の腕輪) 越渓の女、羅衣 胡粉の香。練を織りて春は幔を巻き、蕨を采りて 瞑に箇を提ぐ」(徐延寿「南州行」)-これは緯を織り蕨を採る女。
「擢女(女船頭)は銀の鈎を飾り、新たに敗して翠楼を下る。……舷を相きて曲浦を過ぎ、帆
を飛して回流を越ゆ」(徐堅「擢歌行」)-これは船を漕ぐ女。
「巴(四川省巴瀧)の女は牛に騎りて竹枝(竹枝詞。楽府)を唱う。扁糸・菱葉 江に傍う時」宇鵠「巴女謡」)-これは巴で牛を飼う女。
「山上 層層 桃李の花、雲間の煙火 是れ人家。銀釧(銀の腕輪)金奴(金の管)のひと 来りて水を負い、長刀短笠のひと 去きて舎を焼く(焼畑をする)」(劉偏錫「竹枝詞」)-これは、水汲みと焼畑をする蜀の女。
こうした労働と生活の風景は、南方の女性たちがあたかも牧歌的な田園生活を送っていたかのように思わせるが、実際は披女たちの生活も詩人が描くような詩情に富むものでは決してなかった。彼女たちにも、北方の姉妹たちと同じように様々な苦痛と困難があった。ただ江南はわりに豊かであり、またこれまで戦乱も一貫して比較的少なかったので、彼女たちが受ける災難はやや少なかっただけのことである。それよりも重要なことは、詩人たちが江南の明るく美しい景色に陶酔して、女性の労働をロマンチ″クに飾り立てて詠んだので、彼女たちの苦労があまり反映されずに終ったことである。
以上述べてきたのは、だいたいが太平の時期における農家の女性たちの生活であり、もし戦乱や災難に遭えば、彼女たちの生活はさらに困難を加え、塗炭の苦しみの中に転落したのであった。男たちは戦争に行き、田畑の仕事のような厳しい農業労働はすべて女の身にふりかかった。貧乏で農具さえ無いような女性たちも、次の詩のようにやむなく野良に出ざるを得なかったのである。
(女の田を耕す行) 戴叔倫
乳燕は巣に入り筒は竹と成り、誰が家の二女(二人の女) 新穀を種う。
人無く牛無く 型・くに及ばず、刀を持し地を析り 翻して泥と作す。
自ら言う 家貧しく母は年老い、長兄は従軍して 未だ嫂を娶らず。
去年の災疫にて 牛囮は空しく、絹を截ち刀を買う 都巾の中。
頭巾もて面を掩い 人に識らるるを畏れ、刀を以て牛に代え 誰と与に同にせん。
姉妹 相い携えて 心は正に苦しく、路ゆく人を見ず 惟だ土を見る。
しかしながら、女性たちの力には限りがある。「縦え健婦の鋤梨を把るも、禾は随畝に生じて東西無し(無秩序である)」(杜甫「兵車行」)というように。好い収穫を得るのはきわめて難しかった。さらに彼女たちは重い挨役を負担しなければならなかった。「婦人は重き役に困しみ、男子は軍に従って行く」、「婦人は州県に役かされ、丁男は征討を事とす」(『唐代民歌考釈及変文考論』第一篇、儲光磯「効古」)。杜甫はある夜、石壕(河南省院県の石壕鎮)という村の農家に泊ったところ、役人が人を捕えて労役に充てるのに出くわした。その家の男はすべて兵隊にとられており、やむなく老婆は自分で労役に服しに行くしかない。「老瘍力衰うと雖も、吏に従って夜帰かんことを請う。急ぎ河陽の役に応ぜば、猶お晨炊に備うるを得んと」(杜甫「石壕の吏」)。官吏は果してこの老婆を連れて行った。戦乱はじつに多くの孤独で寄る辺なき寡婦を生みだしたのであるが、官府はこうした女性たちからも税の徴収を緩めなかった。やむなく彼女たちはさまざまなエ面をして税を納めねばならなかった。
「石間で蕨を采る女、菜を聳ぎて官曹を輸む。丈夫は百役に死し、暮に返り空村に号く」(杜甫「遺遇」)。
* 河陽は河南省孟県に在る。七六〇年、ここで唐将李光弼が史思明の反乱軍を破った。
また次の詩のように、やむなく深山に逃げて野人のように暮らす人もいた。
「夫は兵に因って死し蓬茅を守る、麻苧の衣杉 贅髪焦がる。桑柘 廃し来たるも猶お税を納め、田園荒れて後 尚お苗を微す。時に野菜を挑りて根と和に煮、旋た生柴を析りて葉を帯び て焼く。任い是れ深山 更に深き処なるも、也た応に征婆を避くる計無かるべし」(杜荀鶴「山中 寡婦」)この詩は、戦乱の中の農家の女性たちの悲惨な境
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2017年5月25日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓 C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8771 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-93 先生-巻八-01#12城南聯句 §2 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8772 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#2 寄韓諫議#2 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8785 |
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漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (201)回目張泌 《巻四28 浣渓沙十首 其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8774 (05/25) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二17 樂府二首其二種瓜東井上 -#2〔魏明帝〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8775 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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五-3、下級官吏の家の女性
ここでは主に貴顕の家柄には入らない下級官吏の家の女性について述べる。彼女たちの生活は一般に朝廷から支給される官俸の収入に頼っていた。杜甫が、「生は(生活の上では)常に租税を免れ、名は征伐(微兵名簿)に隷らず」(「京ょり奉先県に赴き詠懐す五百字」)と、自らについて語っているように、
下級官吏の身分の者には一般民衆のような租税や諸役の苦しみはなかった。しかし彼らの官俸は
往々きわめて少なかったので、衣食の心配や飢寒の苦しみは一般的にはなかったにせよ、生活に十分な余裕があるわけでなく、甚だしい時には貧困窮迫を免れることはできなかった。杜甫の生涯は大半が下級官吏の生活であり、妻と娘の生活はかなり苦しく、多年人に寄食して暮らしたのである。
戦乱(安史の乱)によって、「妻と子、衣は百結だらけ」、「床前の両少女、補綴(つぎはぎだらけの衣服)後かに膝を過ぐ」(杜甫「北征」)というありさま。彼は最も貧しい時には薪を背負い、橡の実を採ってその日暮らしをせねばならなかった。暮らし向きがよかった時のこと、ある日杜甫は友人に妻を紹介した。友人は家に帰るとすぐ妻に命じて、杜甫の妻のために夜飛蝉(婦人の衣裳)をおしゃれ用にと送らせた。おそらく杜甫夫人の着物があまりに簡単で質素だったからであろう(張泌『粧楼記』)。元棋が下級官吏である校書郎になった時、家族の生活はわりに苦しかった。彼は「悲懐を遣わす」という詩において、「我を顧みて衣無ければ画箇(衣裳箱)を捜し、他に泥みて酒を浩わんとすれば金奴を抜く。野蔑 膳に充ちて長き董甘く、落葉 薪に添えんとして古き槐を仰ぐ」と、亡き妻の章氏との生活を懐しんでいる。少なくとも生活はそれほど豊かでなかったことが分かる。この階層の女性は一般に生産労働には参加しなかった。といっても彼女たちの多くは、完全に奴僕に任せきりで家事労働から解放されていたというわけでもなかった。小官吏であった王績は官を棄てて家に帰った後、詩の中で「床に倚りて婦の織を看る」と書いている。また白居易は江州司馬に左遷された時、「内子に贈る」という詩の中で「【妻は】寒衣にて灯下に補い、小女は床頭に戯る」と書いている。この階層の女性たちは、しばしば一定の家事労働をやらねばならなかったことが分かる。
この階層の女性たちは出身も教養も低く、また自分の地位が高まる可能性も特にはなかったので、夫の官途が順調で、とんとん柏子に出世することを祈るというのが共通した心理であり、さし迫った願いであった。湛責は一県吏にすぎなかった時、親戚が名士、官僚を招いて大宴会をやった。湛賞はその家の裏の建物で食事を供せられた。彼の妻はそれがたいへん不満で、「男子たるものよく励んで出世しなければ、このような辱しめを受けるのです。どうしてこれが我慢できましーっ」と言って夫を責めた。後に湛責は発奮し、はたせるかな進士に合格した(『唐捻言』巻ハ)。章皐の妻張氏は節度使の娘であった。夫が自分の実家で冷遇されるのを見て夫を励まし、「男子たるものは天下に遠大な志を持つもの。今このような辱しめを受けるとは思いもしませんでした。ああ!」と嘆いた。彼女は化粧箱を金にかえて夫の出世を支え、はたせるかな章皐は後に金吾将軍、西川節度使になった(『雲渓友議』巻四)。これと大同小異の話はたいへん多く、それらを通じてこの階層の女性たちに共通の心理と願望を知ることができる。
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2017年5月24日 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-021-#4巻169-05 訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈(卷十(一)六七二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8765 |
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806年-92 先生-巻八-01#11城南聯句 §2 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8766 |
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Ⅲ 杜詩 |
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767年-112 寄韓諫議汯 杜詩詳汯((卷一七(四)一五○八))Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8749 |
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唐代女性論 |
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五-2、貴族、富貴の家の婦女
《洛陽女兒行》 王維
洛陽女兒對門居,才可容顏十五餘。
良人玉勒乘驄馬,侍女金盤膾鯉魚。
畫閣朱樓盡相望,紅桃綠柳垂簷向。
羅幃送上七香車,寶扇迎歸九華帳。
狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。
自憐碧玉親教舞,不惜珊瑚持與人。
春窗曙滅九微火,九微片片飛花璅。
戲罷曾無理曲時,粧成只是薰香坐。
城中相識盡繁華,日夜經過趙李家。
誰憐越女顏如玉?貧賤江頭自浣紗。
洛陽女児の行 王維
洛陽の女児 門を対えて居り、機かに容顔 十五余りなる可し。
良人は玉の勒もて聴馬に乗り、侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。
両閣朱楼 尽く相い望み、紅桃縁柳 蒼に垂れて向う。
羅韓 送り上く 七香の車、宝扇 迎えて帰る 九華の帳。
狂夫は富貴にして 青春に在り、意気は鵜奢にして 季倫(晋の富豪石崇)より劇し。
自ら憐む 碧玉(侍妾を指す) 親しく舞を教うるを、惜しまず 珊瑚 持して人に与うるを。
春窓曙に滅す 九微の火、九微片片 飛花頂かなり。
戯に罷れて曾て曲を理むる時無く、汝成りて祗だ是れ香を薫らせて坐す。
城中の相識は尽く繁華、日夜 趙李(漢の美女趙飛燕と李夫人)の〔如き富豪の〕家を経過す。
誰か憐む 越女の顔 玉の如く、貧賤にして江頭 自ら紗を院うを。
これは唐代の詩人が描いた貴族の女性たちの富貴にして豪華、優閑にして享楽的な生活の姿である。
《相逢行》 崔顥
妾年初二八,家住洛橋頭。
玉戶臨馳道,朱門近御溝。
使君何假問,夫壻大長秋。
女弟新承寵,諸兄近拜侯。
春生百子殿,花發五城樓。
出入千門裏,年年樂未休。
(相逢の行) 崔顥
妾が年は初めて二八、家は住む 洛橋の頭。
玉戸は馳道に臨み、朱門は御溝に近し。
使君は何ぞ問うを仮いん、夫壻は大長秋(皇后の近侍)。
女弟は新たに寵を承け、諸兄は近ごろ侯を拝す。
春は生ず 百子の殿、花は発く 五城の楼。
干門の裏に出入し、年年 楽しみ未だ休まず。
この貴戚の家の若い妻とその妹は宮中で寵愛を受け、夫や兄弟は侯に封ぜられ、あるいは官となり、彼女の生活は何の憂いも心配もない―(年年 楽しみ未だ休まず)である。
貴族の女性たちといえば、人々はすぐ有名な楊貴妃の三姉妹の韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の三人を思いだすだろう。楊貴妃が寵愛を受けたので、三姉妹は同時に国夫人に封ぜられ、玄宗から各人毎月十万銭を支給されたが、それは専らお化粧代としてであった。平生の皇帝からの賜り物は、さらに多く数えきれないほどであった。彼国夫人の「照夜瓊」、秦国夫人の「七葉冠」などは稀代の珍宝であった。韓国夫人は祝祭日に山上に百本の灯火を立て、その高さは八十尺もあり、煌々たる明るさは月光に勝って、百里の遠くからも眺められた。彼女たちはそれぞれ大邸宅をつくり、その華麗宏壮なることは皇宮に匹敵し、一台閣を造営するごとに費やす金は千万を越えた。もし規模が自分の台閣を越える建物を見たりすると、元のをとり壊して新しく造り直させた。遊覧に出かける時は一家あげて一団となり、みな同じ色彩の衣服を着、彼女たちの乗る車馬とお付きの従僕が道路を塞ぎ、それぞれの牛車の上に飾られた珍宝珠玉の値打は、数十万貫を下らなかった。車が通った後は装身具や珠翠が道いっぱいに落ちていた。ある時、彼女たちは宮中で玄宗の側に侍り音楽を楽しんでいた。玄宗は自ら鼓を打った後、笑いながら秦国夫人に褒美を求めた。秦国夫人は「私は大唐帝国の天子様の姉ですもの、お金が無いわけはないでしーっ」といい、すぐ三百万銭をとり出して笑わせた(以上の話は、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、楽史『楊太真外伝』等に見える)。
当時詩人の杜甫は、名高い「麗人行」なる詩を書いて、この三人の夫人が春遊する豪華絢爛たるさまを次の詩のように描写した。
《麗人行》杜甫
三月三日天氣新,長安水邊多麗人。
態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉勻。
繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。
頭上何所有,翠爲葉垂鬢脣。
背後何所見,珠壓腰衱穩稱身。
就中雲幕椒房親,賜名大國虢與秦。
紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。
犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。
黄門飛鞚不動塵,御廚絡繹送八珍。
簫管哀吟感鬼神,賓從雜遝實要津。
後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。
楊花雪落覆白蘋,靑鳥飛去銜紅巾。
炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。