詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月23日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-021-#3巻169-05 訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈(卷十(一)六七二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8759 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-91 先生-巻八-01#10城南聯句 §2 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8760 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-111 別崔潩、因寄薛據、孟雲卿 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8743 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
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fc2 |
Blog |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二16 樂府二首其一昭昭素明月 -#3〔魏明帝〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8763 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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五-1、貴族、高官の家の婦女(外命婦制度)
この節では、豊かさと高貴さにおいて最高の位置にいた皇室貴戚、官僚貴族の婦人たちに加えて、その他の高貴とはいえない下層官僚の婦人も取り上げる。彼女たちの生活、地位の格差はきわめて大きかったが、官と民とが明確に区分されていた社会の中では、同じ「官」に属し、「民」の女性ではなかった。
一〕 外命婦制度
唐朝の命婦制度では宮中の妃娘はすべて「内命婦」といい、公主、王妃以下の貴婦人を「外命
婦」と称した。外命婦の制度は、次のように規定する。親王の母と妻を「妃」とし、文武の一晶官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三晶官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五晶官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の宇が付け加えられた。もし、夫や子の身分によって封号を授与されたものでない人は、別に封号を加えて某晶夫人、某品郡君、某晶県君等と称した(『唐会要』巻二六「命婦朝皇后」)。封号は原則的にはただ正妻だけに与えられるものであり、側室には与えられなかった。
唐朝の命婦の大半は、夫や子が高位高官であるが故に封号を授けられたか、あるいは夫や子が天子の寵愛を特に受けて授けられたかであり、「母は子を以て貴く、妻は夫を以て栄える」のであった。たとえば、宰相牛仙客の妻は那国夫人に封ぜられ、節度使安禄山の二人の妻は共に国夫人に封ぜられた。韓愈等二十九名の官僚たちの亡き母親は、同日にそれぞれ郡太央人∴国太夫人等々の封号を追贈された。一級下のもの、たとえば剌史の李遜の母などは県太君等に封ぜられた(いずれも『全唐文』にみえる)。その他に、皇親と国戚(外戚)であることによって、封号を与えられたものが少数いた。たとえば武則天の母は栄国夫人、姉は韓国夫人、姪は魏国夫人の封号を与えられた。楊貴妃の三人の姉妹は韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の封号を与えられた。また少数ではあるが、皇帝の乳母や上級の宮人で特に皇帝から寵愛を受けたもの、たとえば高宗、中宗、容宗の乳母は、それぞれ国夫人、郡夫人に封ぜられた。それ以外に、本人が功を立てたとか、あるいは別の事情で封号の授与にあずかったものもいた。たとえば、剌史の鄙保英の妻呉氏は契丹の侵人に抵抗して功を立て、誠節夫人に封ぜられ、県令の古玄応の妻高氏は突疲の侵人に抵抗して功を立て、狗忠県君に封ぜられた(『旧唐書』列女伝)。また、武則天のとき故郷の八十歳以上の女性が郡君に封ぜられた、といった例である。
命婦に封ぜられたものに対しては、朝廷がおおむねその品級に応じて一定の俸料銭(給金)を支給した。『仝唐文』には玄宗の「乳母の賓氏に賜る俸料は三品(官)に準ずる詔」が収録されている。これは、乳母の燕国夫人(賓氏)に三品官を標準として俸給を授与せよと命じているのである。ただすべての命婦が俸給を授与されたかどうかは不明である。『容斎三筆』には、宋代の郡夫人、国夫人などの命婦には「みな月俸の銭米の支給と春と冬の絹布・生綿の支給があり、その数量はきわめて多いものだった」と記載されている。おそらく唐代にもほぼ類似の制度があったと思われる。そのほか、『太平広記』巻四九七には、顔呆卿の妻以降、湖南観察使には特別に夫人の脂粉銭(化粧料)の費目があり、柳州刺史の場合もそうだった、という。しかしこれは特定地域の現象に過ぎないだろうし、この『太平広記』の記載が歴史的事実でない可能性もある。
命婦には皇后に朝見する儀式があった。武則天が皇后になった時から、この大礼が始まった。その後、各代の記念日や祝典には、いつも命婦が皇后、太后に朝見することが慣例となった。憲宗のとき詔を下して次のように命じたことがある。およそ外命婦で皇太后に朝見する儀式に休暇をとって出席しなかったものは、官がその夫や子の一ヵ月の官俸を罰として取り上げる、また儀式にしばしば出席しないものは皇帝に報告せよ、と(『旧唐書』憲宗紀古。どうやら欠席は罰を受けねばならなかったようである。朝廷の命婦はち太っとした公職とみなされていたことが分かる。元棋の妻はかつて郡君の身分で、興慶宮で命婦の班長となって太后に朝見したことがある。この際、元袱は妻に贈った詩の中で、あなたは「興慶にて干の命婦に首行し、……君はこの外に更に何をか求めん」(「初て浙東(観察使)に除せらる。妻に阻色あり、因りて四韻を以て之に暁す」)と述べている。人々の意識においては、官僚の婦人として命婦に封ぜられ、宮中において謁見を賜ることが生涯最大の栄誉であったことが分かる。
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2017年5月22日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-021-#2巻169-05 訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈(卷十(一)六七二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8753 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-90 先生-巻八-01#9城南聯句 §2 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8754 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-集-15 【字解集】 ・e-贈李八秘書別三十韻 ・f.君不見簡蘇徯 ・g.-贈蘇四徯 ・h.-別蘇徯 ・i.- 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8767 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (198)回目牛嶠二十六首《巻四26江城子二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8756 (05/22) |
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fc2 |
Blog |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二16 樂府二首其一昭昭素明月 -#2〔魏明帝〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8757 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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四-4、和蕃公主
唐は常に周辺の異民族政権と平和的手段で友好関係を保とうとした。そこで、公主の中に特殊な「和蕃公主」なる者が現れた。彼女たちの大半は皇帝の実の娘ではなく、唐の皇室、外戚などの娘であった。皇帝は一般的に実の娘を遠方の蕃国に降嫁させたくはなかったからである。たとえば、高宗の時代、吐蕃が太平公主を嫁にほしいと要求したが、高宗と武則天は大急ぎで彼女のために道観(道教の寺院)を建立し、すでに出家しているという理由で申し出を拒絶した。しかし、皇族やそれに連なる貴戚は皇帝の権勢に迫られて、自分の娘を和親の役目に差し出さざるをえなかった。これらの女性は嫁入り前は特別な栄誉を与えられたが、実際は替え玉にされた名前だけの公主に過ぎなかった。吐谷渾に嫁した弘化公主、吐蕃に嫁した文成公主・金城公主、契丹に嫁した永楽公主・燕郡公主・静楽公主、契に嫁した固安公主・東光公主・宜芳公主、突騎施に嫁した交河公主、回柁に嫁した崇徽公主等々。彼女たちは宗室の娘、公主の娘、皇帝の姪、あるいはまた帰順した少数民族の指導者の娘などであった。唐の中期以後、国勢は衰退したのズ回屹など少数民族の脅威は唐朝にとってきわめて大きくなった。その上、国内に藩鎮が林立し、皇帝権力が不安定になったので、皇帝は和親という手段を重視せざるを得なくなり、それによって周辺の諸民族と平和共存し、同時に皇帝に対する彼らの支持を取りつけようとした。かくして皇帝は実の娘を和親のために乎放さざるを得なくなったのである。こうして、粛宗の幼い娘寧国公主、徳宗の娘咸安公主、憲宗の娘太和公主らが、先後して遥か遠くの回屹可汗のところへ嫁いで行った。
唐が強盛で和親が成功し、両国関係が平穏で友好的であった時代には、公主たちは中華の故国や父母肉親と遠く離れていても、まだ家族と手紙を交換したり、また使節を派遣して皇帝に謁見したり、特産品を献上することなどができた。朝廷も常日頃、珍品、織物、衣服、書籍などを公主に贈った。彼女たちも異民族の中で常に礼遇され尊重されていたので、自分の地位、知慧、才能によって、少数民族の遅れた風俗習慣、生産、生活のあり方を改善したり、両民族の友好、交流を促進することができた。これは和蕃公主が民族関係に対して果した不滅の貢献である。これら公主の中でも文成公主は人々から最も称讃された人物であった。この聡明で教養のあった女性は、吐蕃の君臣たちの尊敬を受けたのみならず、チベット族の一般民衆からも末永く尊敬と敬愛を受けた。
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2017年5月21日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-021-#1 訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈(卷十(一)六七二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8735 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-89 先生-巻八-01#8城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8748 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-110#3 別蘇徯#3 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8761 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (197)回目牛嶠二十六首《巻四25江城子二首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8750 (05/21) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二16 樂府二首其一昭昭素明月 -#1〔魏明帝〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8751 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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四-3、貴族高官の娘の婚姻と禮法
唐朝では、公主の婿を選ぶ時には妃を選ぶ時と同じように、特に家柄、出身を重んじたので、公主たちは必ず「華族を選ん」で結婚しなければならなかった。唐朝前期には「尚主(公主の夫)は皆貴戚(天子の親戚)、勲臣(功臣)のバらぺづいハる」(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)のが普通であった。公主は皇室貴戚の家に嫁す例が最も多かったが、また皇室の外甥、つまり長公主(皇帝の姉妹)の息子に嫁すものもあった。当時の人は、皇帝の甥が公主の婿になるのは「国家のしきたり」といっており、こうしたことが最も一般的であったことがわかる。たとえば、太宗の娘の巴陵公主は叔母にあたる平陽公主の息子に嫁し、高宗の娘の太平公主は叔母にあたる城陽公主の息子に嫁し、玄宗の娘の臨晋公主は伯母にあたる代国公主の息子に嫁したというように。また、外戚に嫁した者もいる。たとえば、太宗の娘の長楽公主は母である長孫皇后の甥に嫁し、蘭陵公主は祖母賓太后の一族の男子に嫁し、太平公主は再婚、三婚したが、その相手はいずれも母親(武則天)武氏の一族の息子たちであり、中宗の娘の成安公主は章后の甥に嫁した。その次は勲功ある貴戚や名臣の子弟に嫁す例である。太宗の娘の清河公主は勲臣の程知節の息子に嫁し、臨川公主は勲臣の周範の息子に嫁し、襄陽公主は宰相蕭璃の息子に嫁し、高陽公主は宰相房玄齢の息子に嫁した。皇帝は自分の娘を重臣の家の嫁にやることを恩寵であるとか、龍絡の于段であるとか見なした。実際、娘が王妃となり息子が尚主となるのは貴顕の家の脊であった。郭子儀は「謝男尚公主表(息子が公主を尚るを謝す表)」(『全唐文』巻四四六)の中で、「臣は本来寒門の出身であり、勲臣の家柄でないことを愧じております。……陛下は特にこの賤族を受け入れ姻戚となすことをお許しくださいました。……臣は粉骨砕身しても御恩に報いたとは申せません」と感激した。ここには、自分の家柄が高くないことへの恥ずかしさもあれば、公主がわが家に嫁に来てくれたことに対する感激の気持も表れている。ところで公主の中で、ただ二人だけは例外であったようだ。それは高宗の蕭淑妃の二人の娘である。母親が武則天に罪をきせられ後宮に幽閉されたため、三十歳になっても嫁すことができずにいた。後、二人は宮中の衛士の嫁に降された。
唐の中期以後も、公主たちは依然として貴戚功臣の家に嫁す者が少なくなかったが、しかし婿選びの基準にいささかの変化が生じた。その一つは、詩文に優れた人物を重んじ始めたことである。これはおそらく社会において文学を重んじる風潮が日に日に高まり、科挙の進士科合格者が次第に重んぜられたことによるだろう。憲京は権徳輿の娘婿となった翰林学士の独孤郁が優れた文才をもっていることを羨み、嘆息して「徳輿は独孤郁を婿に得たが、いやはや朕は徳輿に及ばないのか」と言った。そして帝は宰相に、公主の婿を公卿士大夫の子弟で、「文雅にして清貫(侍従等の文官)に居る者」の中から選ぶように命じた。しかし諸家の多くは公主の婿になることを願わず、杜佑の孫の杜悴に白羽の矢が立てられた。憲宗はたいへん喜び、長女の岐陽公主を彼の嫁に与えた(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)。敬宗もまた毎年の科挙合格者の中から公主たちの婿を選ぶよう命じた。宣宗はとりわけ進士を重んじ、宰相に彼らの中から公主の婿を選ぶよう厳命した。
第二の変化は名門貴顕を重んじることから、清廉な家柄で礼法を尊ぶ士族出身者を重んじるように変化したことである。躬示は徳宗、宣宗などの唐中期以後の皇帝たちが、山東士族の家風と礼法に非常な憧憬の念をもったことによる。憲宗は公主に命じて門閥の男子から婿を選ばせようとしたが、宣宗は一般士族の中から婿を選ばせ、愛娘の万寿公主を山東士族の進士鄭顔に、広徳公主を代々儒教の徳行で著名であった于踪に、それぞれ嫁がせた。
その外、唐の中期以後、皇室は衰微し藩鎮の勢いが強くなったので、公主たちの結婚も政治に左右されることが以前より多くなり、少なからざる公主が藩鎮やその武将の子に嫁した。これは婿を選ぶ基準が変ったからではなく、政治情勢に迫られて皇帝が娘を犠牲にせざるを得なくなったことに原因がある。つまり、娘を嫁にやって藩鎖を旅絡し、彼らの忠誠と交換するためであったから、これら公主は時としてまさに人質そのものとなった。たとえば、代宗の娘の嘉誠公主は藩鎮の田緒に嫁し、新都公主は田華に嫁し、徳宗の娘の義章公主は藩将の張孝忠の子に嫁し、憲宗の娘の永昌公主は藩鎮の干頓に嫁した。公主たちの結婚の中で、以上の例は政治的取引が最も濃厚な例であり、また最も不幸な例でもあった。
公主の夫となることは最高の栄誉であったが、しかしこの栄誉を受けようと願う人はいくらもいなかった。公卿の子弟、士族の家系はぴたすら恐れ避けようとし、甚だしい場合はこうした話に怨みをもつ者さえ出た。太平公主は蔀紹に嫁すことになったが、そのため藤家は大いに苦しみ悩んだ。そこで葬紹の兄は族長に教えを乞いに行った。族長は「慎んでおうけなさい」という外なかった。そしてまた嘆息して「恐ろしいことになったものだ」といった(『資治通鑑』巻二〇二、高宗開耀元年)。宣京が公主の婿を選ぼうとしたが、「衣冠(公卿大夫)は多くこれを避けた」(『旧唐書』于休烈附于踪伝)。そこである人が進士王徹を推薦したところ、王徹は「それを聞くと憂いが顔にあらわれ」、宰相に哀願してやっと逃れることができた(『旧唐書』王徽伝)。前出の山東士族の鄭頴はすでに同じ士族の盧氏の娘と結婚を準備していた。ところが白敏中の推薦によって公主の婿にさせられた。それで彼は白敏中を怨み、いつも皇帝のところで彼の悪口を言った。
このように人々が公主を嫁にするのを恐れたのは、第一に政治闘争に巻き込まれたり、皇室の権勢に翻弄されたりして故無く禍が身に及ぶことが心配だったからである。唐代に「婦を娶りて公主を得れば、事無くして官府に取えらる」(『資治通鑑に巻二〇二、高宗開耀元年』という諺があった。この諺は人々が公主の婿になることを敬遠した気持をよく表している。こうした情況はどの王朝でもみな同じであった。
第二の理由は公主の騏慢と無礼を恐れたためである。こうしたことは、特に唐代に顕著であったが、それは唐の公主が元来きわめて猛々しく礼儀をわきまえないことで有名だったからである。唐の皇室がそもそも儒教の礼法を重んじず、公主もまた子供の時から贅沢で安逸な生活を送っていたので、幼くして縞慢で放縦な性格が身についていた。宣宗の娘の広徳公主は父と一緒に食事をしていた時、かんしゃくを起しその場で箸を析った。宣宗は嘆息して「性質がこんなでは、どうして士大夫の妻になるこ妁砂できよう」(『資治通鑑』巻二四九、宜宗大中十三年)と歎いた。公主たちは嫁に行っても権勢を侍んで常々勝乎気ままに振舞い、倫理道徳も女性の礼儀も眼中になかった。「公主たちは自ら多くの役人をかかえ、……夫の屋敷内に別の邸宅をかまえて家族と会わず、自分の親戚ばかりをたくさん集めて宴会を開いたり、あるいは遊びにくり出したりした。夫はそれにあずかることができなかった」(『中朝故事』)。公主の夫が公主と顔をあわす時は婢僕と同じで、偉そうな態度を取れなかった。「公主は自分のしたいことだけを行い、夫と数日間も顔をあわせないことがしばしばあった」(同前)。
高陽公主は、夫をその兄から分家させるために、義兄を左遵させようと考え、彼が自分に無礼な振舞いをしたと嘘の訴えをした。しかし彼女自身はといえば、ある僧侶と密通して億万もの宝石や金銭財物を彼に貢いでおいて、夫には二人の女性を見つくろってあてがった。また宜城公主は人を派遺して夫が外に秘かに囲っていた妾を連れて来させ、耳鼻を削ぎ落とし、陰部の皮をはいで夫の顔にかぶせ、さらにまた夫の頭髪を切り落とし、禿頭のまま役所で裁判の審議を行わせ、官吏仝員を集めて見物させた(『朝野命載』補輯)。こうした公主たちの所業は、まさに当時の社会風潮と権勢とが結びついて生れた産物であった。千年来、夫は妻の大綱であると見なされてきた中国社会の中で、女が男の大綱であるという、母系家庭に忍従し慣れることは、男にとっては大変難しく、また妻の勝手気ままを容認することは言うまでもなくさらに一層難しかった。人々がどうして公主の婿になることを水火の禍のごとくに恐れ避けようとしたか、理解することは困難ではあるまい。
唐の中期、後期になると、皇帝は益々儒教の礼法を重んじるようになり、公主たちの無礼な振舞いは常々自分たちの休面を損なうと感じられるようになったので、彼女たちを礼法で縛ろうと考え始めた。徳宗の時代以前には、公主が嫁いでくる時に、婿の両親は嫁に敬礼をしなければならなかったが、嫁の方は答礼しなかった。徳宗は儀礼官に礼法をつくらせて、公主たちにも普通の人々と同じように夫の両親や年長者に拝礼をさせた。宜宗も士族の家に嫁した万寿公主に必ず婦人の礼儀を守らなければならないと言い、夫の一族を軽視することを許さなかった。ある時、夫の弟が病気で危篤になったが、万寿公主は芝居見物に行った。宣宗は腹を立て嘆息して言った、「朕は士大夫の家がわが家と姻戚になるのを願わないことをかねて不思議に思っていたが、誠によく分かった」と(『資治通鑑』巻二四八、宜宗大中二年)。そしてただちに公主を宮中に呼びもどし、ひとしきり厳しく説教して帰らせた。これ以後、公主たちは山東の士族のように礼を守り、再び勝乎な振舞いをしなくなったそうである。皇帝の教訓と躾によって、公主の中には婦人の礼儀を守り、謙譲でしとやかで、鵜り高ぶった態度を取らない者も現れ、彼女たちは人々から賢婦と称された。たとえば、憲宗の娘の岐陽公主、宣宗の娘の広徳公主などがそうした例であろ。しかし、こうした事例はきわめて少なく、しかもその大半は中唐以後、皇帝が礼法を提唱するようになった後のことである。
人々が公主を嫁にすることを願わなかったというのであれば、公主たちはその結婚から何を得ることができたのだろうか。当然のことながら、彼女たちの結婚と家庭生活の大半は不幸なものだったといえよう。その結婚はたいてい政治的取引きであったから、婿選びは各種の政治的要素や家柄を考慮に入れて行われ、人物、才能を重んじることはまずなかった。もちろん、公主たちの個人的感情が考慮されるようなことは決してありえなかった。このことは彼女たちに夫に対して強い不満を持たせる結果となった。高祖の娘丹陽公圭は武将で功臣の蔀万徹に嫁したが、藷は愚鈍で才気が無かったので非常に嫌い、数カ月も夫と同席しなかった。後に高祖は酒席を設けて二人を和解させようとし、遊戯の最中に皆の前で故意に婿の藤に負け、褒美として佩刀を与えて公主の機嫌をとったので、やっと彼女は夫と仲良くなった(劉鯨『隋唐嘉話』巻中)。公主の婿の多くは皇帝の権勢を恐れたり、あるいは功利のために公主を嫁に迎えただけであり、彼女たちに仝く好感をもっていなかった。こうしたことは、おのずから公主の結婚と家庭の不幸の原因となった。結婚の失敗、貞節観念の稀薄、皇帝の子が持つ権勢、この三つが結びついて、公主たちを勝手気ままにさせ、別に愛人を持つことをごく一般的現象にした。ある公主などは男妾の大集団を擁するまでになった。男女関係の上で、彼女たちは唐代の女性の中で最も自由気ままな人々であった。
この他、唐代の公主の結婚について、以後長く人々から注目されたのは、その再婚の風潮である。これらについては、後に「愛情、結婚及び貞操観」(第三章第八節)で詳しく紹介する。
2017年5月20日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-020-#3巻181-26 商山四皓(卷二二(二)一二九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8741 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-82 先生-巻八-01城南聯句【案:韓愈、孟郊】【案:此首又見張籍集。】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8706 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-110#2 別蘇徯#2 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8755 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (196)回目牛嶠二十六首《巻四24西溪子一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8744 (05/20) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉集-013【字解集】 樂府三首 ・樂府 棄婦篇の【字解集】 〔曹植〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8745 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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四-2、公主の生活、婚姻、権勢
公主たちは封戸からの収入あるいは国が支給する銭、絹によって生活した。その生活状況はどうであったか。
玄宗の開元年間を例にして大雑杷な統計を出してみたい。祖庸調制の規定では、壮丁一人当り毎年租として粟二石、調として絹綾等二丈、綿三両を納付した。もし公主たちが一人当たり食実封千戸を給され、また戸ごとに三人の壮丁がいたとすれば、公主の収入は毎年粟米六千石、絹等六千丈、綿九千両ということになり、彼女たちが贅沢三昧の生活を送るに充分であった。この数字はおよそ各時期の公主たちの収入の中等以上の水準を表している。それ以前の中宗の時代、太平公主たちの収人は、この数字をはるかに越えていたようである。玄宗は公主たちの収人が多過ぎたので、彼女たちに「倹約を分からせ」ようとして、削減を行った。唐の後期になると国家財政は困窮し、公主たちの収人もおのずからかなり少なくなった。
ここで述べたのはただ正規の収入だけであって、公主たちにはまた別途の収入源があった。その一つは皇帝の賞賜である。同昌公主が嫁に行く時、父紀宗は宮中の珍宝をことごとく嫁入道具として持たせてやった。こうした種類の収入は値うちの計りようがない。第二は詐取強奪である。公主たちは常に大荘園主であったから、多くが田園、礪確(水車、又は畜力にょる石臼)を経営したり、高利貸をやって利を謀ったり、あるいはあからさまに権勢を振って他人の財産を強奪したりした。太宗の時、大臣たちは公主が高利貸をやって十分の一もの高利を取っていることを非難したことがあった。また太平公主らの封戸に対する過分の搾取は、大臣たちに「刻剥、過苦きなり」といわれた(『旧唐書』高季輔伝)。強奪による収入はおそらく封戸の納める税収より多かったに違いない。この種の風潮があったため、「皇帝の賜金の外に、寵愛を侍んで私利を謀ることをしない」とか、「租税収人以外に人と利を争わない」(『全唐文』巻六三一、呂温「大唐故紀国大長分主墓詰銘」)といったことが公主たちの美徳になった。このような合法的収入や非合法の掠奪によって、公主たちの大部分は豪奢な
生活を送っていたのであった。
唐代の公主のなかで、最も高貴を鼻にかけて鵜り高ぶり、最も横暴極まりないことを行った者として、太平公圭、安楽公主、長寧公圭の三人を数えることができゐ。太平公主は武則天の愛娘であることを侍み、また中宗、容宗を擁立した功績があったので、その権勢は天下を傾けるばかりか、富は帝王に等しく、また政治、経済の力も公主の中で最大のものとなった。彼女の所有する田園は京畿のいたるところにあり、階右(甘粛省蘭州、輦昌一帯)の牧場には一万頭に上る馬があり、家の中には珍奇な宝物が無数にあり、また美しい絹の衣裳を着た侍女が数百人もいた。彼女が権勢を失い死を賜った時、家産は没収されたが、その時発見された財宝は山のごとくであり、皇帝の内庫の宝物を越えていた。牧舎の羊、馬、土地からの利息収人などは数年間にわたって調査し国庫に収めたが、それでもなお尽きなかった。安楽、長寧の両公主は中宗と章后の娘であり、両親の寵愛を侍んでほしいままに土地、財宝を強奪し浪費の限りを尽した。安楽公主は人を派遺して珍しい鳥の羽や、獣の毛を集め「百鳥毛祐」(無数の羽毛で織ったスカート)をつくり、その一枚は一億銭にも値した。彼女は民田十九里四方を強奪して定昆池という池を掘り、石を積んで山となし、水を引いて谷川を造った。また珍しい石や宝石で飾り立て、天下第一の壮麓さを極め、そのありさまは宮廷の禁苑を越えていた。彼女はまた、一般民衆の家屋を取り壊して大規模な自分の役所を作り、そのため宮中の内庫の貯えを空にしてしまった。長寧公主は両京(西都長安、東都洛陽)で民田を占拠して邸宅を作った。東都にあったその一邸宅は都城一〇八坊中の一坊を占め、そのうえ三百畝の広さの池があった。長安にあった一邸宅は、二十億銭にも値した。彼女たちの夫も贅沢な生活をし、こともあろうに地面に油を浸みこませたポロの球場を作るほどだった(安楽公主の夫が影耶『新唐書』外戚41)0公主たちはまた一般民衆の子女を掠奪して奴婢こしたり、民を使役して大いに仏寺をつくったので、当時の大臣から皇帝に報告され、「人の力を燭にぺ人の財を費し、人の家を奪う」(『資治通鑑』巻二〇九、中宗景龍二年)と指弾された。
これ以後の公主たちの権勢はこれほど膨脹したことはなかったが、しかし贅沢の風潮はなお遍く行き渡っていた。玄宗の時代の公主たちは贅沢な料理を献上し、「一皿の料理が十戸分の中等の家の資産を越える」(鄭処海『明皇雑録』補遺)といわれるほどだった。徳宗の貞元年間、義陽、義章の両公主は、それぞれ墓地に百余間もある祠堂(先祖の霊を祭る堂)をつくり、銭数万梧(一紺は銅銭一千枚)を費やした(『旧唐書』李吉甫伝)。同じ時期、十一人の県主が同時に嫁に行ったが、それぞれ三百万銭を支給した。これにはまだ衣服、装身具の費用は入っていなかった。皇帝がこの費用を計算させたところ、花柄の装身具一旅だけで一人につき七十万銭であった。徳宗は、これは浪費に過ぎるといって三万に減額した。しかし残った六十余万銭もそれぞれ県主たちに与え嫁人り費用にしてしまった(『旧唐書』徳宗順宗諸子・珍王誠伝)。公主のうち、贅沢さで有名な人物としては、姑宗の愛娘同昌公主をあげねばならない。彼女の部屋の扉や窓はすべて珍宝で飾られており、井戸の囲い、薬を調合する臼、食器入れ、水槽、それに鍋、碗、ぴしゃく、盆などは金や銀で作られ、ザルや旅、箕は金を散りばめ、床は水晶、瑠璃で飾り、食器類は五色の玉器でつくられていた。さらにまた連珠帳(珠を連ねた帳)、却寒簾(防寒用カーテン)、鵡鵠枕(雄の羽でつくった枕)、鼎翠匝(ひすいの箱)、火蚕綿(四川の茂県産の良質綿)、九玉欽(九っの玉のっいた祷)、龍脳香【香料の】種)などの各国から献上された珍宝もあった。公主が家で食べる料理も珍味で貴族さえ知らないほどのものであったが、公主の方はそれを糟や糠のように粗末にした。一説によると、彼女の死後家中の器物を一緒に焼いたが、人々は争って灰の中から金銀珠玉を拾ったそうである。彼女の豪勢で贅沢な様は、人々から漢王朝以来のどの公主にもいまだなかったことだと噂された(蘇鴉『杜陽雑編』巻下、『太平広記』巻⊇二七)。
公主たちの豪奢の風は一般的となり、また常に彼女たちは世間で不法、横暴を働いたので、代々の皇帝たちも常に頭痛の種と感じ、それを制限せざるをえなかった。文宗の時、帝は公主たちがあまりに華美で高価な装身具を身につけることを厳禁した。ある時、帝は宴会の席上で延安公主の衣服の裾が広すぎるといって即座に追い返し、その夫に罰としてニカ月分の減俸を行った(『旧唐書』后妃伝下)。徳宗の娘の義陽公主はみだりに横暴な振舞をしたので、徳宗から宮中に監禁された。穆宗の娘の安康公主なども、宮廷の外で騒動を起こしたので、宮中に連れもどされて住まわされた。
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2017年5月19日 |
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四-1、公主、高貴な者の婚姻と命婦制度
唐代のことわざ「婦を娶リて公主を得れば、事無くして官府に取えらる」
「帝子天姫」「金枝玉葉」(天子の子女、帝室の一族をいう)といわれるように、天子の娘である公主は唐代女性の中でもっとも高貴で権勢をもつ人々であり、またもっとも勝乎気ままに振舞って礼法に縛られない存在であった。
人口に檜戻している「打金枝」(皇帝の娘を打っ)という芝居は次のような物語である。昇平公主(代宗の娘)は皇帝の娘であることを侍み、夫の父(郭子儀)の誕生日にも御祝いに行かなかった。また厨馬(公主の夫の称号)の郭曖に対しても高慢無礼の態度であったから、夫は怒り彼女を打った。すると父の郭于儀は息子を縛って御殿に上り罰を願った。幸いにも皇帝は道理を知っており、罰を加えず結婚直後のように仲良くさせた。この話は代宗の娘昇平公主の逸事を語ったものであり、必ずしもすべて真実でもないが、人物、筋書きとも基本的に歴史事実に符合している(趙燐『因話録』)。この逸話は唐代の公主たちの生活と結婚の情況をじつによく表している。
一 「封爵」と「食実封」の制度
唐代の命婦制度では、皇帝の姑母(父の姉妹)を大長公主、皇帝の姉妹を長公主といい、皇帝の娘
を公主と称した。公主たちにはみな封号が与えられた。その封号は地名(国名の場合もあれば、郡名の場合もある)によるもの、たとえば代国公主、雷国公主、平陽公主、東陽公主など、それに美称によるもの、たとえば太平公主、安楽公主などがあった。皇太子の娘を郡主と称し、また封号として新都郡主、義安郡主などの称号が与えられた。親王の娘を県主と称し、文安県主、東光県主などという封号が与えられた。
* 命婦制とは高貴な身分の女性に授与する封号を定めたもの。皇帝の母や妃娘等に対しては内命婦制が、公主など外朝の男に嫁した者に対しては外命婦制が定められていた。外命婦には国夫人、郡夫人、郡君、県君、郷君の五等級があった。
『新唐書』「諸帝公主伝」と『唐会要』「公主」の項(以下この二書によるものは出典を省略)の記載によると、唐朝には全部言二二人の公主がいた(この中には周辺異民族に降嫁させるために、特に公主に封ぜられた宗室の女性、たとえば文成公主などは含まれない)。郡主、県主がどれだけいたのかはわからない。これら公主、郡主、県主はみな皇族李氏の女性であったが、他に武則天の時代に武姓の女性や武則天の愛娘太平公主の娘が県主に封じられたこともあった。
公主たちの封号は一種の単なる栄誉の称号であって、何ら実際的な意味はなかった。彼女たちが封じられた国、郡とも何ら関係はなかった。彼女たちの実際の利益、経済収人は、いわゆる「食実封」によるものである。食実封とは、国家が貴族にいくらかの農戸を封戸として給するものであり、貴族はその封戸から租・調の銭糧や布帛などを微収して生活の資にした。一般的にいえば、公主が嫁に行く前は宮中での生活物資は、一切宮廷から支給された。降嫁して後は賜給された封戸が衣食の資となった。しかし、およそ玄宗の時代から、まだ嫁に行かない幼い公主にも封戸が賜給されるようになった。唐初の食封制度に照らすと、公主には三百戸が、長公主には最高六百戸が与えられた。高宗の時代になると、武則天の▽Λ娘太平公主は大変な寵愛をうけたので、食封も定額を越え、武則天の周王朝の時には三干戸にもなった。後に中宗が即位すると、太平公主は功績によって五干戸に加増した。中宗の章后が生んだ二人の娘安楽・長寧の両公主はそれぞれ食封三干戸と二千五百戸に加増し、腹ちがいの娘宜城公主等も二干戸に加増した。これは公主の食実封が最も多い時期である。容宗の時代になると、太平公主の権力が天下で最大となり封戸も一万戸に増え、唐朝の公主のなかで最高の額に達した。
玄宗の時代、公主たちの封戸がぴじ太うに多かったので、それを削減して長公主等は一千戸、公主は五百戸を限度にした。また与えられる封戸は壮丁(税を負担する成年男子)が一家に三人以内の戸とした(なぜなら、玄京朝の前に太平公主と安楽公主は競争して、「財産が多く壮丁の多い」富戸を封戸として取り込んだからである)。それ以後、武恵妃が玄宗の寵愛をほしいままにしたので、その娘の成宜公主は一于月の封戸を賜った。これによって他の公主も一干戸に加増され、以後、これがおよその定制となった。
公主たちは降嫁して後も、公主の食封を管理する役所である「公主邑司」を設け、令、丞、録事、主簿等の大小の役人を置いた。これらの役人は公主の封戸から税を取り、田園、倉庫、財物収人などを専門に管理した。玄宗の開元以前は、公主邑司と国家の官吏は一緒に公主の封戸から税を微収したが、開元年間になると国家が統一して封戸から徴収し、それを公主に支給するように変った。唐の後期になると、食実封はしだいに名目だけになり、国家が直接彼女たちに税収に相当する物資を支給するようになった。たとえば徳宗の貞元年間に「諸公主には毎年それぞれに封物として布帛七百端、疋、屯を給す」(『唐会要』巻九〇「縁封雑記」)とした。これは俸禄とほぼ同じであり、国家の供給制となった。
郡主、県主もまた降嫁の後に封戸を賜った。たとえば武則天の時代、武姓の県主はみな封戸を持ち、玄宗も襄楽県圭等にそれぞれ実封一亘戸を与えた(『全唐文』巻三六、玄宗「襄楽県主等に実封を加うる
勅」)。ただすべての郡主や県主に与えたかどうかは不明である。唐の後期にはだいたい国家の供給制に変ったのであり、貞元年間の規定では「郡主、県主の夫が官を罷めた場合は、郡主には四季ごとに七万銭を、県主には四季ごとに五万銭を支給する。夫が死去した場合もこの規定に照らして行う」とした。後にまたこれを改めて、夫が官であるか否かに関係なく、「郡主には四季ごとに銭一百貫(十万銭)、県主には七十貫(七万銭)を支給する」とした(『唐会要』巻六「公主」)。
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三-2 宮人(人間性を全否定され、完全隔離の中での生活)
心は黄蓮の如く〔苦く〕、身は紅葉の如く〔はかなし〕
三千の宮女 朋脂の面、幾箇か春来りて涙の痰無からん」(白居易「後宮詞」)。古来、宮人は女性のなかで最も人間性を踏みにじられた人々であり、宦官とともに君主専制制度の直接の犠牲者であった。一方は生殖器をとられ身体を傷つけられた者、一方は人間性を踏みにじられた者である。宮人は奥深い後宮の中に幽閉されて永遠に肉親と別れ、青春と紅顔は葬り去られ、愛情と人生の楽しみは奪われ、生きている時は孤独の苦しみに、また死んだ後は訪れる人もない寂しさの中に置かれた。それで多くの知識人が、彼女たちの境遇に心を痛め嘆息してやまなかったのである。
彼女たちの痛苦の生活と心情を理解しようとすれば、白居易の「上陽の白髪の人」ほど真実に迫り、生々と彼女たちの人生を描写したものはない。
上陽の白髪の人 白居易
上陽人,紅顏暗老白髮新。
綠衣監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末歲初選入,入時十六今六十。
同時采擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔吞悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入內便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
妒令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
(上陽 白髮の人)
上陽(宮)の人、紅顏暗く老いて白髪新たなり。
綠衣の監使宮門を守る、一たび上陽に閉ざされてより多少の春。
玄宗の末歲 初めて選ばれて入る、入る時十六今六十。
同時に採擇す百余人、零落して年深く 此の身を殘す。
憶ふ昔 悲しみを吞みて親族に別れ、扶けられて車中に入るも哭せしめず。
皆云ふ 入內すれば便ち恩を承くと、臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり。
未だ君王の面を見るを得るを容れざるに、已に楊妃に遙かに側目せらる。
妒(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ、一生遂に空房に宿す。
上陽の人は、紅顏暗く老いて白髪が新たである、
綠衣の監使が宮門を守っています、ここ上陽に閉ざされてどれほどの年月が経ったでしょうか、玄宗皇帝の末年に選ばれて宮廷へお仕えしましたが、その時には16歳でしたのが今は60歳
同時に100人あまりの女性が選ばれましたが、みなうらぶれて年が経ちわたしばかりがこうして残りました、思い起こせば悲しみを呑んで親族と別れたものでした、その時には助けられて車の中に入っても泣くことを許されませんでした
皆は入内すれば天子様の寵愛をうけられるといいました、あの頃のわたしは芙蓉のような顔と玉のような胸でした、だけれどもまだ天子様にお会いできる前に、楊貴妃に睨まれてしまい、妬みからここ上陽宮に押し込められて、一生を遂に空しく過ごしました
秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,梁燕雙棲老休妒。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜尚書號。
小頭鞋履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
秋夜長し、夜長くして寐ぬる無く天明ならず。
耿耿たる殘燈 壁に背く影、蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲。
春日遲し、日遲くして獨り坐せば天暮れ難し。
宮鶯百たび囀ずるも愁へて聞くを厭ふ、梁燕雙び棲むも老いて妒むを休む。
鶯は歸り燕は去って長へに悄然たり、春往き秋來して年を記さず。
唯だ深宮に明月を望む、東西四五百回 圓かなり。
今日 宮中 年最も老ゆ、大家遙かに賜ふ尚書の號。
小頭の鞋履 窄【せま】き衣裳、青黛 眉を點ず 眉細くして長し。
外人は見ず 見れば應に笑ふべし、天寶の末年 時世の妝ひ
秋の夜は長い、夜が長くて眠ることもできず空もなかなか明けません、ちらちらと揺れる灯火が壁に影を写し、しとしと降る雨が窓を打つ音がします、
春の日は遅い、日が遅い中一人で坐し得いますが空はいつまでも暮れません、
宮殿の鶯が百度囀ってもわたしは悲しくて聞く気になれません、梁の燕がつがいで巣くっても老いた私には妬む気にもなれません、鶯は故郷へ帰り燕は去ってもわたしは悲しい気持ちのまま、季節が移り変わってもう何年になるでしょうか
ここ深宮で月の満ち欠けを見てきましたが、満月はすでに四・五百回も東西を往復しました、おかげで宮中第一の年寄りになってしまいました、天子様はそんなわたしに尚書の號を賜ってくださいました
、
そのわたしときたら先のとがった靴を履いてぴったりとした衣装を着て、黛で眉を描きますがその眉は細くて長いだけ、もしよその人に見られたら笑われるでしょう、これは天宝の昔に流行った御化粧なのです
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦。少苦老苦兩如何?
君不見昔時呂向《美人賦》,〈天寶末,有密采艷色者,當時號花鳥使。呂向獻
《美人賦》以諷之。〉又不見今日上陽白髮歌!
上陽の人、苦しみ最も多し。
少くして亦苦しみ、老いて亦苦しむ。
少くして苦しむと老いて苦しむと兩つながら如何。
君見ずや 昔時 呂向の《美人の賦》、又見ずや 今日 上陽白髪の歌
上陽の人は、苦しみが最も多い、若くしても苦しみ、老いてもまた苦しむ、若くして苦しむのと老いて苦しむのとどちらが辛いだろうか、どうかご覧あれ、昔は呂向の美人の賦、またご覧あれ、いまは上陽白髪の歌
* 呂向は玄宗の派遣した花鳥使を題材にして「美人賦」を詠み、宮女の悲しみを歌った。
この白髪の詩一首は、今日でも後宮の不幸な女性たちに一掬の同情の涙を流させる。
九重の深宮は宮人たちの身体を鎖で縛っているが、彼女たちの若い心を縛ることはできなかった。彼女たちは憂え恨み悲しんだが、しかしなおも愛情と幸福を渇望していた。現世がすでに瀞茫たるものであったから、希望と夢を来世に託すほかなかったのである。永く後世に伝わった次の「紅葉に詩を題す」の物語は、生々と彼女たちの心情を伝えている。
言い伝えによれば、玄宗の時代、詩人の顧況は宮中の堀川の流れの中から一枚の大きな青桐の葉を拾った。その葉に宮人の「一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず。聊か一片の葉に題し、有情の人に寄せ与う」(天宝宮人「洛苑の梧葉上に題す」)という歌一首が書いてあった。顧況はその詩に和して一首を作り川の流れに送った。後に玄宗はそれを知り、少なからぬ宮女を後宮から解放してやった。また次のような伝説もある。宣宗の時代、科挙の試験に応じた盧渥は宮廷を流れる堀川に一片の紅葉を見つけた。それに「流水 何ぞ太だ急なる、深宮 尽日閑なり。殷勤に紅葉に謝す、好し去きて人間に到れ」(宣宗宮人韓氏「紅葉に題す」)とあった。後に宣宗は宮人を解放し、その詩を書いた宮人は運よく盧渥に嫁ぐことができた(いずれのエピソードも芭濾『雲渓友議』巻一〇に収める)。
こうした伝説ははなはだ多く4内容は異なっているが、筋は大同小異である。「紅葉に詩を題す」とよく似たものに、「繍衣に詩を題す」という伝説がある。一つは開元年間のこと、宮中の女性たちが辺境守備の兵士の軍衣を作ったところ、後にブ人の兵士が綿衣の中から詩一首を得た。それに「沙場 征戦の客、寒夜 眠りを為すに苦しむ。戦袖 手を経て作るも、知んぬ阿誰の辺に落つるかを。意を蓄て多く経を添え、情を含みて更に綿を着く。今生 已に過ぎたり、後身の縁を結び取らん」とあった。玄宗はこの詩を書いた宮人を捜し出し、その兵士の嫁にやった(『太平広記』巻二七四)。また、信宗の時代のこと、辺境を守備する兵士が宮人によって戦抱に縫いこまれた金の首飾と詩一首を発見した、という話もある(『唐詩紀事』巻七八)。こうした類の伝説は、多分に伝奇的な色
彩が加わって行くので、必ずしもすべて真実というわけではないが、深宮に幽閉され、一日がまるで一年にもあたる耐え難い目々に対する宮人たちの恨み、それに加えて民間の自由で愛情ある生活に対する憧れと渇望の激しさを反映しているのである。
宮人たちが老いて深宮の中で死んだ後は、「宮人斜」と呼ばれる墓地に埋められた。「雲惨ましく煙愁えて苑の路は斜めに、路傍の丘尿は尽く宮娃なり」(孟遅「宮人斜」)というわけであった。彼女たちは生前は孤独に苦しんだが、死後はより一層寂しく惨めであった。後宮で一生を終えない人もいたが、その運命は堀川の流れに漂う紅葉よりもさらにあてどのないものであった。天子は気ままに宮人を贈物とし、外藩(臣従してくる異民族)や功臣に褒美として与えたので、披女たちの結末がどうなるのか、仝く運命の流れに身を委ねるほかなかった。
老いて天寿を全うできたなら、彼女たちにとってはやはり幸せなことだった。後宮にはいたるところ危険が潜んでおり、宮人たちは常に政治闘争や宮廷の政変に巻きこまれ、身分が下賤であったから、しばしば理由もなく刀刃の露と消えた。文宗は楊賢妃の後言を信じて皇太子を死なせてしまったが、後に後悔した。しかし自分の愚かさを咎めることなく、かえって宮人の張十十等を責めて「吾が太子を陥れたのは汝等である」(『旧唐書』文宗二子伝、『新唐書』十一宗諸子伝)といった。これらの宮女たちはみな処刑されてしまった。宮人の杜秋は穆宗の時、皇子の保母であった。この皇子が後言によって罪に落されたので、披女も巻き添えになって故郷に追い返された。年を取って飢えと寒さがこもごも加わり、また孤独で頼るところがなかった。杜牧などの名士が気の毒に思い、有名な「杜秋娘の詩」を作って彼女の哀れな運命を悼んだ。また宮人たちは不用意にも皇帝の怒りに触れ、死の禍を招くこともあった。文宗の時、宮妓の鄭中丞は皇帝の命に逆らって死を賜った。彼女を棺桶に入れて川に流したところ、ある人が助け出し自分の妻にした。文宗はそれを知ったが、いくらか慈悲心を発して再び罰することはなかった。この宮女は幸いにも、かろうじて生きる道を与えられた者といえよう(段安節『琵琶録』)。
唐朝の宮人たちの中で最も悲惨な運命にあった人として、宣宗の時の絶世の一美女をあげねばならない。宣宗は一人の美女が献上されるとたいへん喜び、数日の内に無数の賞賜を与えた。ところがある日の朝、宣宗は悶々として楽しまず次のように言った。「明皇帝(玄宗)はただ楊貴妃一人だけを寵愛したので天下は今に至るも平穏ではない。このことはどうして忘れられようか」。そしてこの美人を呼んで「お前をここに留めておきたいが、それは出来ない」と言った。左右の者が彼女を宮から出してやるべきでし?っと申し上げたところ、宣宗は「放してやれば朕の想いが残る。鴉毒(塙の羽にある猛毒)の盃をやろう」といった(「唐語林」巻七「補遺」)。まさに豺狼(豺は山犬)の論理である。宣宗は唐代後期の比較的見識のあった皇帝であるが、宮人の生命に対してはこのように残忍であった。鯨宗は愛娘の同昌公主が死ぬと、宰相劉晦の諌めもきかずに公主の乳母、保母などを一人残らず殉葬してしまった。およそ以上に述べてきたような話は、一言でいえば、宮人の命など蝶や蟻の如きもので、人の踏むままにされたということである。宮人がたとえ男子を生んだとしても、宮廷、とりわけ唐の宮廷は出身・家柄を重んじたので、「母は于を以て貴し」ではなく逆に「子は母に因りて賤し」ということになった。史書の記載によると、宮人の生んだ皇子は多くが顕貴の部類には入れられず、また全く生かされなかった場合も多かったようである。審宗の二番目の男子は宮人柳氏が生んだ子であった。武則天はこの孫は出自がきわめて賤しいと思い、養育する準備をしなかった。しかし僧侶の話を聞いてやっと生かしてやった。宮人たちはお腹を痛めたわが子を保護する力もなく、母の愛さえ奪われたのである。
残酷な圧迫と虐待は、耐え忍ぶことのできない一部の宮人の反抗をまねいた。宣宗の時、ある宮人は宣宗を謀殺しようとしたが、宦官から射殺され成功しなかった(『新唐書』宦者伝古。
4 宮人の解放
唐朝後宮の宮人の数はたいへん多かったが、それでも、宮人の採用は止むことはなかったので、後宮では恨みつらみが積もり、また民間でも不満が生れた。それで宮人問題は社会と朝廷の注目をあびることになった。どの皇帝の時代にも、この悪政を批判し、宮人たちが家族や恋人と離別させられる恨みや苦しみに同情して、彼女たちを放ち帰らせるようにと皇帝に願い出る人がいた。皇帝たちは、自分が徳政を実施し、歌舞音曲や女人を好まない振りをするために、また時には純粋に宮廷費用を節約するために、あるいはまた、後宮に怨恨が満ち溢れたせいで、災難にあって「天罰」を受けることを恐れるために、しばしば詔勅を発して宮人を解放した。唐朝では高祖より後、ほとんどの皇帝が宮人を解放したという記録がある。多い時には三千人、少ない時でも数百人であった。
これら宮人は宮中を出てから家のある者は家に帰り、嫁に行くことも可能だった。老いて病いのある者、身寄りのない者などは去I一や道観(道教の寺院)に送って収容し、時々少しばかりの金晶を支給し生活の用とした(『全唐文』巻四二、粛宗「宮人を放っ詔」)。これは唐朝の皇帝のわずかばかりの仁政ということができる。しかし解放したといっても、宮人の数はいぜんとして相当なもので、唐末でも相変らず「六宮の貴・賤の女性は一万人を滅らない」という状況であった。その理由は、もともと解放された女性が多くない上に、絶えず新人が選抜されて入って来たので、根本的な問題の解決にはならなかったからである。そしてまた、解放された宮人の大多数は年を取り病弱であって役に立たず、彼女たちの青春はすでに深宮の中に葬り去られていたので、後宮を出ても寄る辺なく、晩年の境遇はじつに哀れで寂しいものであった。これと同時に青春の輝きの絶頂にある乙女たちが次々と絶えることなく後宮に送り込まれ、その紅顔が衰え、青春が空しく費やされるのを待つのであった。だからこの種の仁政の意義などというものは、本当に取るに足りないものだったのである。
後宮に積った女性たちの怨みを緩めるために、皇室もいくらか対策を講じた。たとえば、毎年上已の日(三月上旬の巳の日)に宮人が肉親と会うことを許した。これは唐朝のち太っとした開明的なところといえる。「宮女は毎年の上巳の目、興慶宮内の大同殿の前で親族と会って安否を尋ね、互いに贈物をやり取りすることを許された。一日の内に訪れる人の数は数千から一万にのぼった。やって来てすぐに親族と面会できる者もいれば、夕暮に及ぶまで家族の名を呼べど至らず、泣いて後宮に帰る者もあり、毎年このようであった」(尉遅渥『中朝故事』)。この一幅の情景は監獄での面会とほとんど大差なく、宮人たちもまたまちがいなく高等監獄の囚人であった。
2017年5月17日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-019-#3巻174-07 留別王司馬嵩(卷十五(一)九○九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8723 |
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10年のBLOGの集大成 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-85 先生-巻八-01#4城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8724 |
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10年のBLOGの集大成 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-109#3 贈蘇四徯#3 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8737 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
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10年のBLOGの集大成 |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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三-1 後宮の職掌と生活
彼女たちは身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家婢に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。 宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「宮女」「宮蛾」「宮婢」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮、別館、諸親王府皇帝陵にそれぞれ配属されていた。
1 宮官と職掌
宮廷は小社会であり、宮人の中にも身分の高下貴賤があり、また様々な等級があった。后妃たちに「内官」の制度があったように、宮人たちには「宮官」の制度があった。宮官と内官を比較してみると、品階の上で差があったばかりでなく、いくらかの本質的な区別があったようだ。つまり、内官は官と称したが身分上は妃娘の身分に属すべきもの、つまり皇帝の妾でもあったが、宮官にそうした身分はなく、ただ宮中の各種の事務を司る職員にすぎなかった。当然、これはあくまで身分上のことに過ぎず、彼女たちと皇帝の実際の関係に何ら影響しないことは、ちざっど主人と家婢の関係と同じである。
宮官は宮人の最上屑にある人々であり、後宮のさまざまな部局に属する職員であった。唐朝の後宮には六局(尚宮局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局)があり、宮中のすべての事務を管理していた。六局の各首席女官の尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功が六部の尚書(長官)になった。六局の下に二十四司を統括し、各司の女官はそれぞれ別に司記、司言、司簿、司闇、司籍、司楽、司賓、司賛、司宝、司衣、司飾、司使、司膳、司酷、司薬、司錨、司設、司輿、司苑、司灯、司制、司珍、司絃、司計に分けられていた。またその他に二十四典、二十四掌、及び宮正、阿監、形史、女史など各級の女官もあった。これらの女官には品級・給与が与えられており、彼女たちは礼儀、人事、法規、財務、衣食住行(行は旅行、出張等の手配)などの宮廷事務を担当した(『旧唐書』職官志三)。
宮官は事務官であったから、必ずしも容貌とか、皇帝のお気に召すかどうかにこだわる必要はなく、良家の出身で才徳兼備の女性を選びさえすればよかった。著名な才女であった宋若昭は、徳
宗によって宮中に召され宮官の首席尚宮に任命された。裴光廷の母車秋氏は婦徳の名が高く、武則天に召されて女官御正に封じられた(『新唐書』裴行倹伝)。
六局の宮官の他に、宮中には内文学館があり、宮人の中の文学の教養ある者を選んで学士とし、妃娘や宮人に教養、読み書き、算術などを教育する仕事を担当させた。宋若昭は六宮の文学士をも兼ね、皇子、妃嬉、公主、騎馬(公主の婿)などを教育したので、「宮師」とよばれた。宮人の廉女真は隷書をよくし、宮中の学士に任じられたこともあった(『全唐詩』巻五一九、李遠「廉女真の葬を観る」)。唐末、李菌が一人の元宮人にあったところ、彼女は自らかつて「侍書家」であったと云った(孫光憲『北夢瓊言』巻九)。おそらく書に優れていたのでこの職に任命された宮人であったと思われる。
これら宮官の中のある者は品級が高く、権勢があり、宮中で尊ばれたばかりか、はては外廷の官僚さえも彼女たちに取り入って功名を図ろうとした。こうしたことにより、一部の宮人は外朝の政治に関与することもできたが、しかし、彼女たちの身分は所詮皇帝の家婢にすぎなかった。ある皇子の守り役が太宗(李世民)の弟舒王に、‐1尚宮(宮官の長)の品秩の高い者には、お会いになった際に拝礼をなさるべきです」と論したところ、舒王は「これはわが二番目の兄(李世民)の家婢ではないか。何で拝する必要があるか?」と言った(『旧唐書』高祖ニトニ子伝)。この言葉は一語で宮官身分の何たるかを喝破している。
2 仕事と生活
宮人は六局、二十四司に分属して管理され、各職務に任命された。彼女たちは出身、容姿、技芸の才能などによって、それぞれに適した任務と職掌が与えられていた。上級の宮人は大半が近侍となり、皇帝、后妃の日常生活や飲食等の世話に従事した。その他に皇帝が朝政に当たる時は側に侍り、内廷から皇帝の勅命を伝える任務にも当った。唐末の哀帝の時代になって、こうした任務ははじめて廃止され、宮人は内廷の門を自由に出ることが禁じられた。その他の下層の宮人は宮中のこまごまとした各種の雑事を分担した。たとえば、ある種の宮人はもっぱら宮中の門を見張っていたので「戸婢」とよばれた。また裁縫、織布、刺繍など、女腎特有の仕事を専門にする宮人は、皇帝后妃などの衣服を調達したり、また軍服をつくる仕事も兼ねた。また宮中の掃除や、庭園、灯火、倉庫など一切の管理事務を受けもつ者もいた。
労働と近侍の他に、宮人のもう一つの役割は皇帝を楽しませることであった。中宗は宮女たちに宮中で市場を開いて晶物を売らせたり、また大臣たちに宮女たちと商売をさせ、その際わざと喧嘩の種をまいて自分と皇后を楽しませた。玄宗と楊責妃は歓楽のために数百人の宮妓、宦官を並べて「風流陣」(両陣に分れて競う遊戯の一っ)をつくらせ、錦で旗をつくって互いに戦わせて楽しんだ(『開元天宝遺事』巻下)。皇帝は名声と身分の高い后妃たちに対しては、常に一定の尊重の気持をもっていたが、宮女たちに対しては気の向くままに戯れたり、もて遊んだりすることができた。玄宗の時代、皇帝の寝所に侍ったお手付きの宮女は、皆腕に「風月常新」(男女の情愛は常に新しい、という意)の四文字を刻印され、そこに桂紅膏(赤色のクリーム)を塗られたので、水洗いしても色があせなかった。また穆宗は黒い絹布の上に白色の文字を書き、また白い絹布に黒色の文字を書き、合せて衣服をつくって「寵愛を受けた」宮女に下賜した。その衣服に書かれた文字はすべて見るに耐えない卑摂な言葉であり、人々はこれを「渾衣」(ざれごとを書いた衣)と呼んだ(馮贅『雲伯雑記』巻五、七)。これらは風流のようにも見えるが、実際は宮女を玩具にし、人格を踏みにじったことの明らかな証拠である。
さらに不幸なのは、亡き皇帝の霊の弔いを命ぜられた「奉陵宮人」とか、「陵園妾」とか呼ばれる女性であった。唐朝の制度では「およそ皇帝の崩御にあたっては、子の無い宮女は悉く山陵に遣わし、朝な夕な、洗面用具を揃え、夜具を整えて、あたかも生者に仕えるように死者に仕えさせた」(『資治通鑑』巻二四九、宣宗大中十二年、胡三省注)。この他、各種の罪に対する罰として陵園(皇帝の御陵園地)に入れられた宮女もいた。いわゆる「潅に因りて罪を得 陵に配され来たりし」(白居易「陵園妾」)者であった。宣宗は即位すると、穆宗の宮人をすべて各地の陵園に押し込んでしまった。宣宗は穆宗を憎んでいたので、宮人たちも一緒に罰したのである。「山宮一たび閉ざされて開く日無く、未だ死せざれば此の身をして出でしめず」であり、「顔色は花の如く命は葉の如し」(白居易「陵園妾」)であったこれらの宮人は、半生を陰惨でもの寂しい陵墓に、自ら墓に入るその日までずっとお仕えしなければならなかった。
2017年5月16日 |
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745-019-#2巻174-07 留別王司馬嵩(卷十五(一)九○九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8717 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-84 先生-巻八-01城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8718 |
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二-2 后 妃 (優雅と残酷な生存競争)
彼女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下婢が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。
* 女禍とは君主が女色に迷い、国事を誤ったため引き起された禍い。
1 内職、冊封
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618年 - 626年)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良俤、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも儒人等の腰妾の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃蹟だけが史書にいささかの痰跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』
「后妃伝」には、全部で二十六人の皇后、十人の妃娘が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には賓皇后の他に、万貴妃、尹徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、崔嬢、楊嬢、小楊娘、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趙麓妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、盧美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、閣才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。
唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴賤を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時
には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徽六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の趙飛燕(成帝
の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完仝に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地冑清華」(家柄の高貴)、「軒尼之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。
唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちのハ人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、娃国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賤である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して披女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は綴敵(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徽六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を胎すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賤ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。
名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婢にされた人であり、憲宗の鄭后、穆宗の蕭后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。
皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に間題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃娘の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の趙麓妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃娘でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。
美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。
2 高貴、優雅な生活
后妃たちの生活は富貴であり、また贅沢でもあった。彼女たちは衣食の心配の必要はなく、内庫(宮中の資材課)が必要なもの一切を支給した。「唐の法は北周、隋の法を踏襲し、妃娘、女官には地位に尊卑があったから、その晶階によって衣服、化粧の費用を支給した」(『旧唐書』王鋲伝)。唐初以来、国庫が日に日に豊かになると、后妃たちの生活もそれに応じて贅沢になった。玄宗の代になると宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦誘を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃娘に大登の褒美を与えた。王鋲は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬉に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、葛枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荊枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。
后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加することーこれは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」ことがあった(『資治通鑑』巻二言一、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賤しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。『唐六典』の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬢は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸棄のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。「内庭の嬢妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小聶に妨姉を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻古。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのち。っとした描写である。
3 不幸な運命、感情の飢渇
富貴、栄達、優閑、快適-彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権カ者の一時の寵愛にすべてに係っていたからである。
『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は勣乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。
后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず第一に政治権力をめぐる闘争であった。彼女たちはしばしば仝く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が披女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも柿め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け賛の小羊となった。
唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趙皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る宦官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。春宗の賓后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱仝忠に殺された後、罪を栓造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。
彼女たちの第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うことに外ならない。大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と穀難を共にしたことによっ≒寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麓人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は敷難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った章后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔敷難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がち太っとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂寞の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ぴどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃娘に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災錐を逃れることができた(王定保『唐植言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と蕭淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから乎足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。
后妃にとって、最後の脅威は皇帝の死去である。これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」へと転じることができた。少なくとも子のある妃娘はち太っとした地位を保つことができたが、子のない妃嬉たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后という至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭
太后を礼遇しなかった。それで郭太后は僻々として楽しまず、楼に登って自殺しようとした。宜宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。
唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。
もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂寥、哀怨の気持であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団秦の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。
玄宗の時代、妃娘がはなはだ多かったので、「妃嬢たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃娘のところに赴いた」。また、妃娘たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。「長門(妃娘の住む宮殿)閉ざし定まりて生を求めず、頭花を焼却し筝を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王娃「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら刑の奴を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「捷好怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作晶を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには披女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。
4 残酷な生存競争
日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ち太っと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しようとし、さらに進んでは他人をも支配しようとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい「生存競争」の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。武則天、中宗の章后、粛宗の張后などは、后妃が政治に関与した例であり、彼女たちの政治活動とその成功失敗については、「女性と政治」(第三章第三節)で詳しく述べることにする。 皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な乎段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、蕭淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける蕭淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、蕭淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を柿め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、蕭の二人は悲惨な末路をたどった。蕭淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猫に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を慄然とさせる。こうした競争は王后、蕭妃が起したものではないし、また武則天だけを咎めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ針らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。
皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男千を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる于段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趙麗妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと両策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、ズ名中に賊が出た〃と言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王予は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛した尹徳妃、張姥好などは子がなかったり、あっても幼かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって娃成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。
后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。
2017年5月15日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-004 a.【字解集】秋夜與劉碭山泛宴喜亭池 b.古風五十九首之二十二 c.情寄從弟邠州長史昭 d.草創大還贈柳官迪 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之8705 |
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767年-115 君不見簡蘇徯 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8713 |
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はじめに
果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら披を動かし手を休めず働くが、宮府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをっち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しようとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。
唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人ロは天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。
二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。披女たちはおよそ次の十種に分けることができる。一 后妃、二 宮人、三 公主(附郡主・県主)、四 貴族・宦門婦人、五 平民労働婦人、六 商家の婦人、七 妓優、八 姫妾・家妓、九 奴婢、十 女尼・女冠(女道古・女以上である。以下それぞれに分けて彼女たちの生活、心理状態などを述べたいと思う。叙述の都合により、后妃と宮人はまとめて一節に書くことにす二、唐代女性の各階層の状況
二-1 后妃と宮人
一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず〃
唐の宮人
杜甫はかつて「先帝の侍女八干人」《2099 觀公孫大娘弟子舞劍器行 并序》(公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る示」)と詠い、白居易もまた「後宮の佳麓三干人」(「長恨歌」)と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『仝唐文し巻一四二、李。白薬「宮人を放っを請うの封事」)といった。『新唐書』の「宦者伝」上に、「開元、天宝中、宮娘はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。宋代の人洪邁は、この時期は漢代以来、帝王の妃妾の数が最も多かった時代であるといっている(『容斎五筆』巻三「開元宮噴」)。うまい具合に、この時期の女性の総人ロは先に紹介した数字おそ二千六百余万であるから、四万余人とすれば、じつに仝女性人口の六百分の一を占める。つまり、女性六百人ごとに、人が宮廷に入ったことになる。唐末になり、国土は荒れ、国勢は衰えたが、いぜんとして「六宮(後宮)の貴・賤の女性は一万人を減らない」(『資治通鑑』巻二七三、後唐の荘宗同光三年)という状態だった。この驚くべき数字の陰で、どのくらい多くの「啖夫怨女」(男やもめと未齢の老女)を造り出したことか計り知れない。唐末の詩人曹郡が慨嘆して「天子 美女を好み、夫婦 双を成さず」(「捕漁謡」)と詠ったのも怪しむに足りない。
一 宮中に入る
このように多くの女性はどこから来たのか。またどのようにして宮廷に入ったのか。彼女たちは
だいたい次の四種類に分けられる。
第一種は、礼をもって宮廷に迎え入れられた場合である。この種の人々の大部分は名門貴顕の出身である。たとえば高宗の王皇后、中宗の趙皇后、粛宗の張皇后等の場合、みな皇室の親戚であった。また唐朝の権力者の娘もいた。たとえば憲宗の郭貴妃は尚父郭子儀の孫娘であった。また名門大族の子孫もいた。たとえば太宗の楊妃は隋の場帝の娘であり、玄宗の柳捷好は当時の名族の娘であった。唐の皇室は各種の政治的原因と西晋、東晋以来の門閥観念によって、名族と姻戚関係をもちたいと望んでいたから、彼女たちは特別厚い礼をもって宮中に招かれた。ごく少数であるが、徳と才能と容姿によって宮中にその名を知られ、特別に厚い礼をもって招かれた女性もいた。彼女たちの出身は必ずしも貴顕ではなかったが、大多数は文武百官、あるいは士大夫階級の娘であった。たとえば、太宗の徐賢妃は才能、学識が衆に抜きんでていたので招かれて才人となったが、武則天はと言えば美貌によって招かれて後宮に入っている。こうした部類の女性たちは皇室の特別厚い礼によって招かれた人々であったから、大部分は後宮に入った後、高い位の妃嬢や女官に封じられ、身分はよりいっそう高かった。
* 尚父は父のごとき人という意味の尊号。憲宗は郭子儀をそのように遇した。
第二種は、選抜されて宮廷に入った場合である。この種の女性は必ずしも高貴な家柄の出ではなかったが、しかし大多数は「良家」の出身、つまり一般の官僚あるいは士人の家の出であった。唐朝の諸帝は、前後して何度となく民間の良家の娘を広く選抜して後宮に入れた。唐朝の初め、尚書省は次のように奏上している。「近頃、後宮の女官の選抜に身分の賤しい者どもが選ばれ、礼儀作法がないがしろにされております(侍女や歌姫・舞姫から抜擢された者を指す)。また刑罰や死刑にあった家の女もおりますが、これらは怨恨の積った者たちであります(罪に連坐して後宮に没収された者を指す)。そのため、今後、後宮や東宮(皇太子の宮殿)の女官に欠員が生じた場合は、みな良家の才智と徳行のある女性を当て、礼をもって招聘されますように。また罪人として宮廷に入れられた者や、もともと下賤の家の者はみな補充に当てないようお願いいたします」(『資治通鑑』巻一九五、太宗貞観ナ二年)と。唐の太宗はこの意見を入れ、すすんで「天子自ら良家の娘を選び、東宮の女官に当てた」ことがあった(『資治通鑑』巻一九七、太宗貞観十七年)。
これ以後、唐の歴代の皇帝は、後宮や太子、諸王のために妃を選ぶ時にはぴじーっに家柄を重んじ、常に良家の中から広く娘を選び、「龍子龍孫」(皇帝の子や孫)が下賤の家の女から生れないようにした。玄京皇帝は、皇太子や諸王のために「百官の子女」、「九品官(一品官から九品官に至る官僚)の息女」を選んで宮中に入れた(『全唐文』巻三五、玄宗「皇太子諸王妃を選ぶ勅」、『新唐書』十一宗諸子伝)。文宗は皇太子の妃を選んだとき、百官に「十歳以上の嫡女(正妻の生んだ女子)、妹、姪、孫娘をすべて報告せよ」(『全唐文』巻七四、文宗「皇太子妃を選ぶ勅」)と命じた。荘恪太子(文宗のT、名は李永)のために妃を決める時には、もっぱら「汝州(河南省臨安。洛陽の東南)、鄭州(河南省鄭州)一帯の高貴な身分の家の子女を対象に新婦を求めた」(王浪『唐語林』巻四「蚕羨」)。十数歳に達した「良家の子女」は、この種の選抜をへて多数宮廷に入ったのであるが、彼女たちの中のほんの少しの者だけが幸運を得て妃娘に列し、大多数の者は名もなき宮女のままで生涯を終えたのである。このように良家の子女を選抜するのが、宮廷女性の主要な来源であり、宮廷女性の中で少なからざる比率を占めていた。陳鴻は『長恨歌伝』のなかで、玄宗の時代、宮中の「良家の子は、千を以て数える」といい、蔀調も『劉無双伝』の中で「後宮に選抜された宮娘の多くは衣冠(公卿大夫)の家の子女である」と書いている。
しかしながら、良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというのは、主に皇太子、諸王の妃を決める時だけであった。事実、歴代の皇帝は宮女を選別するのに、決してこれほど厳格な規定を持ってはいなかった。皇帝たちは名門の令嬢でも、貧しい家の娘でも、はては娼妓、俳優などの賤しい女たちであろうとも、ただ容姿、技芸が衆に抜きんでていれば、一様に選んで宮廷に入れたのであった。玄宗は、かつて「花鳥使」なる役人を四方に派遣して密かに美人をさがさせたが、家柄や才能、徳行などは必ずしも問題にしなかったようである。その他、唐の宮中には教坊などの役所があり、皇族の耳目を楽しませる多数の宮妓を専門に養成していた。この教坊もしばしば民間で女性を選抜した。たとえば憲宗の時、教坊は「密旨だとして良家の子女、及び衣冠の族の別宅の妓人を取り上げた」(『旧唐書』李綺伝)。宮妓を選抜するにはただ容姿、技芸を見るだけであったから、良家の出か、才智徳行がどうかは問題にしなかった。
古来、自分の青春と自由を、移り気で定かならぬ皇帝の寵愛ごときと取り換えようなどと思う女性はいくらもいなかったし、また自分の娘を世間から隔絶したそんな所に送ろうとする父母もほとんどいるわけはなかった。それで、ひとたび宮女を選抜するという話があれば、朝野、貴賤を問わず人々はみな恐怖におののいた。そのため、玄宗、文宗の両皇帝は宮女の選抜をやめざるを得なかった。元桐は民間の娘を選抜する状況を「上陽の白髪の人」なる詩で、次のように描写している。美女の選抜の任に当たる花鳥使たちは、「懐に墨詔を満たして嬢御を求め、……酔い醗にして直
ちに卿士の家に入れば、閑閔のひとは倫かに週避するを得ず。良人は妾を顧みて死別と心ぎめ、少女は爺を呼んで血もて涙を垂らす。十中一は更衣を得ること有るも、九は深宮に配されて宮婢と
作る」と。
第三種は、宮中に献上された女性である。この種の人々には様々なタイプがあったが、大半は美貌か技芸の才によって献上された女性であった。いくらかの朝臣は自分の出世のために妻や娘を宮中に入れることを常に願った。たとえば、秘書官の鄭普思は、娘を中宗の後宮に献上したので弾劾を受けたことがあった(『資治通鑑』巻二〇八、中宗神龍二年)。崔混はさらに恥知らずにも美貌の妻と娘を一緒に皇太子の宮中に献上し、高官になることができた。そのため、「艶婦を春宮(皇太子の宮殿)に進めた」と世間から機られた(『太平広記』巻二四〇)。こうした例よりもさらに多かったのは、皇族、大臣や藩鎖(節度使)などが民間の美人を捜し出して猷上した事例である。順宗の時、昇平公主は女ロ(奴婢とされた女)十五人を献上した(『旧唐書』憲宗紀。ちなみに『新唐書』諸帝公主伝では「女伎を献ず」に作る)。敬宗の時、帝は特に「公主、郡主は決して女口を献上してはならないと命じた」(『旧唐書』敬宗紀)ことがある。「女口を進める」ことがすでに風習になっていたことが分かる。唐朝後期には藩鎭の大半が入朝の際にも女口を献上しようとし、于頔、韓弘は歌舞妓、女楽(楽器を奏でる妓女)を献上した。こうした女口たちの中には娼優(娼妓、俳優)や個人が所有する家妓・姫妾、それに若干の名もなき民家の娘も含まれていた。
第四種は、罪人の家の女性で宮廷の婢にされたものである。これらの大多数は、官僚士大夫層の女性であった。唐律の規定では、「籍没」といって謀反および大逆罪を犯した官僚士大夫層の家族(母、娘、妻、妾、子孫を含む)と奴婢は、みな後宮に入れて官奴婢にすることになっていた。つまり「技芸に巧みな者は後宮に入れる」(『唐六典』巻六、刑部都官)と定めていた。そして、無能な者は司農寺(銭穀のことを司る官庁)等の官庁に配属して官奴婢とし、後宮に入れられた者の一部分は宮女とした。著名な宮廷の才女となった上官婉児は、祖父の罪に連坐し、まだおむつを着けている時、母とともに宮廷に没収された女性である。その他、たとえば太宗の時代の廬江王の姫妾、粛宗の時代の外国人将軍阿布思の妻、唐の後期の藩鎮呉元済と李鋳の妻、娘、婢妾等は、みな夫や父、あるいは主人が洙殺されたため後宮の婢にされた人々であった。また、その他の原因により、連坐して後宮に没収された者、たとえば裴珪の妾趙氏載』巻一)彼女は姦通罪を犯して後宮に没収された(『朝野倉のような女性もいたのである。玄宗は百官たちの側室のうちの「別宅婦」(正式な婚姻関係のない妾)を宮中に没収し懲戒の意を示したことがあった(『仝唐文』巻二I、玄宗「別宅婦人を畜うるを禁ずる制」)。罪に連坐して没収された女性は宮廷女性のなかでも決して少なくはなかった。彼女たちの身分は官婢であったが、後に様々な機縁によって幸運をつかんだ者もいた。たとえば玄宗は、連坐して宮中に没収された官僚士大夫層出身の女性五人を選んで皇太子に賜ったが、そのうちの一人は後に皇后になった。しかし全体的にいえば、この部類に属する人々の身分は最も下賤であり、彼女たちの心もまた深い悲しみと苦しみに満ちていたのである。
以上をまとめてみると、唐の宮廷女性は四種の主な方法、招聘、選抜、献上、連坐によって調達されていたことが分かる。彼女たちの中には、名門貴族、官僚士大夫層の娘のみならず、また少数ながら娼妓、俳優、婢妾など下賤な身分に属する者もいた。罪没される者は比較的特殊な例であったが、これ以外の女性たちはあるいは家柄、あるいは才智と徳行、あるいは容姿、あるいは技芸によって宮中に選抜された人々であり、以上の四つが彼女たちが宮廷に入る主要な道であった。そして彼女たちの大半は十三、四歳の少女であった。
これら数干、数万の宮廷女性のなかで、幸運にも后妃となり皇帝の正式な妻、もしくは妾の地位をつかんだ者はほんの少数であった。まずそうした少数の幸運なる女性から見てゆこうと思う。