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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

五-2、貴族、富貴の家の婦女 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8770

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2017524

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五-2、貴族、富貴の家の婦女

 

《洛陽女兒行》 王維

洛陽女兒對門居,才可容顏十五餘。

良人玉勒乘驄馬,侍女金盤膾鯉魚。

畫閣朱樓盡相望,紅桃綠柳垂簷向。

羅幃送上七香車,寶扇迎歸九華帳。

狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。

自憐碧玉親教舞,不惜珊瑚持與人。

春窗曙滅九微火,九微片片飛花璅。

戲罷曾無理曲時,粧成只是薰香坐。

城中相識盡繁華,日夜經過趙李家。

誰憐越女顏如玉?貧賤江頭自浣紗。

 

洛陽女児の行   王維

洛陽の女児 門を対えて居り、機かに容顔 十五余りなる可し。

良人は玉の勒もて聴馬に乗り、侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。

両閣朱楼 尽く相い望み、紅桃縁柳 蒼に垂れて向う。

羅韓 送り上く 七香の車、宝扇 迎えて帰る 九華の帳。

狂夫は富貴にして 青春に在り、意気は鵜奢にして 季倫(晋の富豪石崇)より劇し。

自ら憐む 碧玉(侍妾を指す) 親しく舞を教うるを、惜しまず 珊瑚 持して人に与うるを。

春窓曙に滅す 九微の火、九微片片 飛花頂かなり。

戯に罷れて曾て曲を理むる時無く、汝成りて祗だ是れ香を薫らせて坐す。

城中の相識は尽く繁華、日夜 趙李(漢の美女趙飛燕と李夫人)の〔如き富豪の〕家を経過す。

誰か憐む 越女の顔 玉の如く、貧賤にして江頭 自ら紗を院うを。

 

これは唐代の詩人が描いた貴族の女性たちの富貴にして豪華、優閑にして享楽的な生活の姿である。

 

《相逢行》   崔顥

妾年初二八,家住洛橋頭。

臨馳道,朱門近御溝。

使君何假問,夫壻大長秋。

女弟新承寵,諸兄近拜侯。

春生百子殿,花發五城樓。

出入千門裏,年年樂未休。

 

(相逢の行)   崔顥

妾が年は初めて二八、家は住む 洛橋の頭。

玉戸は馳道に臨み、朱門は御溝に近し。

使君は何ぞ問うを仮いん、夫壻は大長秋(皇后の近侍)。

女弟は新たに寵を承け、諸兄は近ごろ侯を拝す。

春は生ず 百子の殿、花は発く 五城の楼。

干門の裏に出入し、年年 楽しみ未だ休まず。  

 この貴戚の家の若い妻とその妹は宮中で寵愛を受け、夫や兄弟は侯に封ぜられ、あるいは官となり、彼女の生活は何の憂いも心配もない―(年年 楽しみ未だ休まず)である。

 貴族の女性たちといえば、人々はすぐ有名な楊貴妃の三姉妹の韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の三人を思いだすだろう。楊貴妃が寵愛を受けたので、三姉妹は同時に国夫人に封ぜられ、玄宗から各人毎月十万銭を支給されたが、それは専らお化粧代としてであった。平生の皇帝からの賜り物は、さらに多く数えきれないほどであった。彼国夫人の「照夜瓊」、秦国夫人の「七葉冠」などは稀代の珍宝であった。韓国夫人は祝祭日に山上に百本の灯火を立て、その高さは八十尺もあり、煌々たる明るさは月光に勝って、百里の遠くからも眺められた。彼女たちはそれぞれ大邸宅をつくり、その華麗宏壮なることは皇宮に匹敵し、一台閣を造営するごとに費やす金は千万を越えた。もし規模が自分の台閣を越える建物を見たりすると、元のをとり壊して新しく造り直させた。遊覧に出かける時は一家あげて一団となり、みな同じ色彩の衣服を着、彼女たちの乗る車馬とお付きの従僕が道路を塞ぎ、それぞれの牛車の上に飾られた珍宝珠玉の値打は、数十万貫を下らなかった。車が通った後は装身具や珠翠が道いっぱいに落ちていた。ある時、彼女たちは宮中で玄宗の側に侍り音楽を楽しんでいた。玄宗は自ら鼓を打った後、笑いながら秦国夫人に褒美を求めた。秦国夫人は「私は大唐帝国の天子様の姉ですもの、お金が無いわけはないでしーっ」といい、すぐ三百万銭をとり出して笑わせた(以上の話は、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、楽史『楊太真外伝』等に見える)。

 当時詩人の杜甫は、名高い「麗人行」なる詩を書いて、この三人の夫人が春遊する豪華絢爛たるさまを次の詩のように描写した。

 

《麗人行》杜甫

三月三日天氣新,長安水邊多麗人。

態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉勻。

繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。

頭上何所有,翠爲葉垂鬢脣。

背後何所見,珠壓腰衱穩稱身。

就中雲幕椒房親,賜名大國虢與秦。

紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。

犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。

黄門飛鞚不動塵,御廚絡繹送八珍。

簫管哀吟感鬼神,賓從雜遝實要津。

後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。

楊花雪落覆白蘋,靑鳥飛去銜紅巾。

炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。


(麗人の行)     

三月三日  天氣 新たに,長安の水邊  麗人 多し。

態は 濃く 意は 遠くして 淑 且つ 真に,肌理きりは 細膩にして骨肉は 勻し。

繍羅の衣裳は  暮春に 照はゆる,

蹙金の孔雀  銀の麒麟。

頭上 何 の有る所ぞ,翠を 葉と爲なして  鬢脣んに 垂たる。

背後 何 の見る所ぞ,珠は 腰衱を 壓して  穩やかに身に稱ふ。

就中づく 雲幕の  椒房の親,名を賜ふ 大國  虢と秦と。

紫駝の峰を  翠釜 より 出いだし,水精の盤に  素鱗 行くばる。

犀箸 厭飫して  久しく未だ下さず,鸞刀 縷切 空しく紛綸たり。

黄門 鞚を飛ばして  塵を動かさず,御廚 絡繹として 八珍を送る。

簫管 哀吟して 鬼神をも感ぜしめ,賓從 雜遝して  要津に實つ。

後れ來きたる 鞍馬は  何ぞ 逡巡する,軒に當たりて 馬より下りて 錦茵に入る。

楊花 雪のごとく落ちて  白蘋を覆ひ,靑鳥 飛び去りて 紅巾を銜む。

手を炙ば 熱す可べし  勢は絶倫なり,慎みて 近前する莫れ  丞相 嗔らん。

 

 彼女たちは富責と栄華が極まったばかりでなく、まさに「手を戻れば熱かる可し 勢い絶綸」であり、公主たちでさえを二分かた譲らざるを得なかった。各クラスの官僚が彼女たちの門下に出入し、へつらったり賄賂を送ったりして栄達を求めた。彼女たちが顔を出して頼み事をすると、役所は皇帝の詔勅のごとく見なして奔走し、不首尾に終わることをひたすら恐れた。一般の官僚で彼女たちに逆らおうとする人はいなかった。彼国夫人は章嗣立の宅地に目をつけると人を連れて行き、その家を有無を言わさずぶち壊し、章家にはただ十数畝の上地を補償しただけだった。

 この三夫人は一時に天下第一の貴婦人になったが、しかしすべては楊貴妃が天子の寵愛を得た御蔭によるものであった。だから、彼女たちの運命も楊貴妃の浮沈によってたやすく左右されたのである。安史の乱の時、馬鬼の兵変で楊貴妃は絞殺され、三人の夫人も避難の途中で先後して殺され、遺骨も残らない悲惨な末路となった。

 貴族の女性たちの中で、彼女たちほど豪勢で贅沢な生活をした人々は決して多くはないが、富貴で栄華を極め、金を湯水のごとく浪費するのは、貴族の女性に一般的なことだった。武則天の寵臣張易之の母阿蔵の家には七宝帳があり、その表面は各種の金銀珠玉で飾られていた。また彼女の家では象牙で床を作り、犀の角で筆を、紹の毛皮で柳を、こおろぎの羽で艶を、龍槃と鳳咽で席を、それぞれ作ったが、それらは当時の人々がいまだ見たこともないものだった(『朝野命載』巻三)。宰相王涯の娘は玉の銭を一つ買うために父親に十七万銭を求めた(銭易『南部新書』舌。貴族の女性たちの贅沢な生活の一端がうかがわれる。

 貴族の女性は衣食住の心配も家事の苦労もなかったので、年中歌舞音曲とお化粧とで暇をつぶした。

 「王家の少婦」(崔鎖)に「十五にして王昌に嫁し、盈盈と圃堂に入る(美しい姿で座敷に入る)。自ら衿る年の最も少きを、復た堺の郎(郎官)為るを倚む。舞いは愛す前鶏の縁(前銘曲の緑の装い)、歌は憐れむ 子夜の長きを(子夜歌の長い調べ)。閑来せて百草を闘わし、日を度るも汝を成さず(日がな一日お化粧もしない)」とあり、また「菩薩蛮」(温庭筒)に「瀬げに起きて蛾眉を両き、汝を弄んで槐洗すること遅し。花を照らす前後の鏡、花の面は交もに相映ず。新帖き誘羅の楼、双双の金の鶴鵠」とあり、さらにまた、「〔白〕楽天の春詞に和す」(劉瓜錫)に「新たに粉面を敗えて朱楼より下る、深く春の光を鎖して一院は愁う。中庭に行き到りて花栞を数えれば、蜻艇は飛んで上がる 玉の掻頭に」とある。 これらの詩詞は、貴族の女性の富貴にして優閑の様子を描いているが、しかしここには彼女たちのいくばくかの、空虚で無聊な生活もまた表現されているのである。

 彼女たちは豊かといえば豊か、地位が貴いといえば貴かったが、しかしその富貴と地位の大半は、男性の付属物たる身分によって獲得したものであった。彼女たちに富貴をもたらすことができたものは、逆にまた災難をもたらすこともできた。一家の男が一旦勢力を失うと、彼女たちも同様に付属物として巻き添えになった。そして一夜にして農婦、貧女にも及ばない官婢(国有の奴隷)となった。これが彼女たちの最も恐れたことである。厳武は剣南節度使となって相当好き勝手に振舞った。彼が死ぬとその母はむしろほっとして、フ』れからは官婢にならないですむ」といった(『新唐書』厳挺之附厳武伝)。唐代の官僚貴族の女性として、不幸な運命にめぐりあった典型的な人がいる。それは粛宗・代宗両時代の宰相で権臣となった元載の妻王報秀である。彼女が高官の娘として元載の妻となった頃、元載はまだ功名がなく王氏一族から軽視されていた。すると妻は化粧箱を売って金に換え夫に功名をあげるよう励まし、ついに元載は宰相にまで上った。彼女は実家の家族がかつて自分たち夫婦を軽視していたのを恨み、実家の家族と親戚の者が御祝いに来た時、あてつけに侍女に命じて邸内で虫干の用意をさせ、長さ三十丈の長縄四十本を邸内に張りめぐらし、そのすべてに色とりどりの錦紗銀糸の豪華な衣装をかけ、さらにまた金銀の香炉二十個を並べて衣装に香を蛙きこめた。それは第一に自らの富貴を見せびらかし、第二に親族のものを恥じ入らせるためであった。一方で王轍秀は見識のある女性であったから、夫の元載が権勢を掌中に収めた時、夫を戒めて「ご承知のように、栄耀栄華などは束の間のことです、稿り高ぶって人を辱しめてはなりません」と言った。しかし、元載はやはり終りを全うすることができず、最後は罪を得て死刑に処せられた。妻の王氏は法によって官婢にならねばならなかった。彼女は天を仰いで長嘆息し、わたしは「王家の(排行)十三番目の娘と生れ、二十年間節度使であった父の娘として暮らし、十六年間宰相の妻であった。長信宮や昭陽宮でのことを誰か書いてくれる人がいるなら、死んでも幸せなのだが」といい、宮中に婢として入ることを固く拒み、ただ死ぬことだけを求めた。後に彼女は赦免されたとも、また笞打ちの刑を受けて死んだともいわれる(『雲渓友廉』巻こ一)。彼女の生涯のめぐり合わせは、まさに貴族の女性たちが夫の貴賤栄辱の運命のままに翻弄され浮沈定まらない生活をおくったことを反映している。

 「栄耀栄華は束の間のことで長続きはしない」といつも恐れおののいていたほかに、貴族の婦人たちがそれこそ絶えず感じていたのは閑の孤独、夫の薄情に対する恨み、それに容色の衰え易さに対する嘆きであった。唐詩の中で百首に上る「閔怨」詩の大部分が、彼女たちのこの種の心情をよく表現している。たとえば、「閑の中の少婦(若妻) 愁いを知らず、春日 赦いを凝らして翠楼に上る。忽ち見る阻頭楊柳の色、悔ゆるは夫堺をして封侯を兌めしめしを」(王昌齢「閑怨」)、「妾は年四十にして糸は頭に満ち、郎は年五十にして公侯に封ぜらる。男児は全盛なれば日に旧きを忘れ、銀の昧 羽の帳は空しく〔風は〕鮑繩」(陳羽「古意」)などの詩。こうした心情は彼女たちがただ終日飽食し、何の心配もなく暮らしていたから生れたというだけではない。それよりも重要なのは、披女たちは下層の労働する女性たちに比べて独立した経済的能力が無かったため、男性に対する依存心が強く、また家庭の中でも地位が低かったために、夫の自分に対する感情に頼らざるを得なかった

ことによる。しかし、貴族の男たちは往々にしてたくさんの妻妾を持ち、あちこちで女色を漁ったので、おのずから彼女たちは一日中夫の薄情に苦悩し、家庭の中での自分の行く末を案じ、従って自分の容色の衰えを嘆く以外に為すすべがなかった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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