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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

四-4、和蕃公主 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8758

 

2017522

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745-021-#2巻169-05 訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈(卷十(一)六七二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8753

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四-4、和蕃公主

 唐は常に周辺の異民族政権と平和的手段で友好関係を保とうとした。そこで、公主の中に特殊な「和蕃公主」なる者が現れた。彼女たちの大半は皇帝の実の娘ではなく、唐の皇室、外戚などの娘であった。皇帝は一般的に実の娘を遠方の蕃国に降嫁させたくはなかったからである。たとえば、高宗の時代、吐蕃が太平公主を嫁にほしいと要求したが、高宗と武則天は大急ぎで彼女のために道観(道教の寺院)を建立し、すでに出家しているという理由で申し出を拒絶した。しかし、皇族やそれに連なる貴戚は皇帝の権勢に迫られて、自分の娘を和親の役目に差し出さざるをえなかった。これらの女性は嫁入り前は特別な栄誉を与えられたが、実際は替え玉にされた名前だけの公主に過ぎなかった。吐谷渾に嫁した弘化公主、吐蕃に嫁した文成公主・金城公主、契丹に嫁した永楽公主・燕郡公主・静楽公主、契に嫁した固安公主・東光公主・宜芳公主、突騎施に嫁した交河公主、回柁に嫁した崇徽公主等々。彼女たちは宗室の娘、公主の娘、皇帝の姪、あるいはまた帰順した少数民族の指導者の娘などであった。唐の中期以後、国勢は衰退したのズ回屹など少数民族の脅威は唐朝にとってきわめて大きくなった。その上、国内に藩鎮が林立し、皇帝権力が不安定になったので、皇帝は和親という手段を重視せざるを得なくなり、それによって周辺の諸民族と平和共存し、同時に皇帝に対する彼らの支持を取りつけようとした。かくして皇帝は実の娘を和親のために乎放さざるを得なくなったのである。こうして、粛宗の幼い娘寧国公主、徳宗の娘咸安公主、憲宗の娘太和公主らが、先後して遥か遠くの回屹可汗のところへ嫁いで行った。  

 唐が強盛で和親が成功し、両国関係が平穏で友好的であった時代には、公主たちは中華の故国や父母肉親と遠く離れていても、まだ家族と手紙を交換したり、また使節を派遣して皇帝に謁見したり、特産品を献上することなどができた。朝廷も常日頃、珍品、織物、衣服、書籍などを公主に贈った。彼女たちも異民族の中で常に礼遇され尊重されていたので、自分の地位、知慧、才能によって、少数民族の遅れた風俗習慣、生産、生活のあり方を改善したり、両民族の友好、交流を促進することができた。これは和蕃公主が民族関係に対して果した不滅の貢献である。これら公主の中でも文成公主は人々から最も称讃された人物であった。この聡明で教養のあった女性は、吐蕃の君臣たちの尊敬を受けたのみならず、チベット族の一般民衆からも末永く尊敬と敬愛を受けた。


しかしながら、公主による和親はすべて成功したわけではなく、悲劇に終ることもあった。なぜなら、和親は政治的な取り引きであって、成功するか否かは、両国間の国力、政治、軍事、外交等各方面の複雑な条件によって左右されるのであり、公主たちの力はきわめて微弱なものだったからである。唐朝は中期以後になると、国勢は衰退し、少数民族の政権との相対的関係も前期とは違ったものになったので、和蕃公主の社会的地位もまた一様ではなくなった。以前は公主の降嫁は唐朝が「天可汗」(諸王の王の意)として外藩の指導者に賜る恩寵であったから、彼らも公主をきわめて尊くあつかった。しかしいまや公主はほとんど人質か、あるいは貢物になり下がったので、礼遇を受けることはきわめて難しくなった。かつて貞観年間に吐蕃の王が文成公主を妻に迎えたとき、その婚礼の儀式はなんと荘重であったことか。ソンツェンガンポ(チベット初代の君主で名君として有名)は白ら数百里も迎えに出向き、また新しく城を築いて公主を住まわせた。しかし後に、回屹が寧国公主を迎えた時には、唐朝の使臣が花嫁を可汗の幕舎まで送って行ったのに、可汗は偉そうに寝椅子の上

に坐ったままで、実に傲慢無礼であった。唐の使臣は可汗に、これまで和親のための公主はみな皇族の娘でしたが、この公主様は皇帝の実の姫君です、また有徳で才色兼備の御方でございます、と言ったところ、可汗は始めて喜んだ。文成、寧国の両公主を対比してみると、和蕃公主たちの境遇は政治情勢の変化に従って大いに異なるものであったことが分かる。もし両国の関係が悪くなったり、異民族の領域内で動乱が起ったりすれば、この孤立無援の公主たちはどこにも救いを求めるすべがなか’った。唐と吐蕃の関係が悪化すると、金城公主は隣国の箇失密国に逃げ出そうと考えざるを得なかった(『仝唐文』巻九九九、謝範国羅火抜「金城公主の事宜を陳ぶる奏」)。また、回屹が他民族との戦いに敗れた時、回屹に嫁していた太和公主は連れ去られ、両軍争奪の対象となった。彼女は軍に従って各地を流れ歩き、後幸運にも唐の将軍に出会ってやっとのことで故国に迎えられ帰ることができた。しかし、このような不幸な目にあったのに、彼女は、辺境の安寧を保つことができず、和親の務めを果たすことができなかったと厳しく責められた。それで彼女は帰国後、光順門外で祷と耳飾りを自ら取り去り、変服(衣服を改めること)して処罰を請わざるをえなかった。こうして始めて、甥にあたる武宗の赦しを得ることができたのである(『資治通鑑』巻二四七、武宗会昌三年)。帝国仝体の文武百官と辺境守備の将軍たちが挙げて出来なかったことが、どうしてか弱い一人の女性にできようか。

 少数民族の習俗も和蕃公主たちの生活の一大難題であった。生臭い肉を割いて食べ、野宿をしながら移動するのはもちろんのこと、ある公主などは野蛮な習俗によって、もう少しで殺されるところだった。回屹の可汗が死んだ時、大臣たちは寧国公主を殉葬しようとした。公主は次のように道理を説いて争った。「中国の礼法では夫が死去すると三年間喪に服し、朝晩泣いて冥福を祈らねばなりません。回屹が中国人の妻を迎えた以上、中国の礼法に従って事を行うべきです。そうしなければ、どうして万里もの遠国との和親が保てましーっか」と。その聡明さと勇気によって、彼女はどうにか一死は免れたものの、やはり回屹の礼法に従わないわけにはゆかず、刀で顔を切り裂いて大声で泣き、最後は故国に送り返されたのであった(『旧唐書』回屹伝)。

「仙峨 今 下嫁し、鵜子(呼韓邪単于)自ら同和す。剣戟 田に帰り尽くし、牛羊 塞を饒りて多し」(張仲素「王昭君」)

「漢道(漢の道統)方に全盛にして、朝廷には武臣足る。何ぞ須いん薄命の妾、辛苦して和親を事 とす」(東方糾「昭君怨」)

 この二つの唐詩は共に和蕃公主について迷べたものであるが、前者は公主がもたらした平和な様千を讃え、後者は逆に公主が遠方に嫁し薄命に終ったことを嘆き悲しんだものである。これは確かに矛盾であるが、われわれは唐代の女性の中で、このような特殊な貢献をし特殊な運命に遭遇した人をどのように評価したらよいのだろうか。周辺民族との和親は唐朝の外交政策の成功であったと言ってもよく、それは辺境の平和を維持し、各民族間の交流を促進した。この点からすれば和蕃公主たちは歴史に大きな貢献をしたのである。しかし、個人の運命からすれば、彼女たちは政治の犠牲者と言わざるをえない。よく言えば、彼女たちは国家と民族のために巨大な犠牲をはらった人々といえよう。彼女たちは永遠に肉親と別れて異国他郷に嫁し、個人の幸福を犠牲にし、甚だしい場合には生命をも抵当に入れたのであった。しかもなお、彼女たちのか細い肩で二つの国の関係という重大な任務を担ったのである。これは彼女たちにとって、おそらく気楽で楽しいことであったとはとても言えないであろう。あの喜びに満ちて嫁していった王昭君というのは、たぶん文学者の想像でしかなく、唐朝の和蕃公主の大半は、目に涙を浮かべ恐れと不安におののきながら故郷に別れを告げて行ったのである。年若い寧国公主は唐朝に脅威を与えていた回屹に遠く嫁して行ったが、行く時泣いて父の粛宗に「国事は重大なことですから、死んでも決して恨みません」(『旧唐書』回屹伝)と言った。この献身的な精神には感嘆させられもするが、一方またこんなか弱い少女が犠牲になったことに対しては、やり切れなさとともに同情を禁じえないのである。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
71
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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