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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

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2017521

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四-3、貴族高官の娘の婚姻と禮法 

唐朝では、公主の婿を選ぶ時には妃を選ぶ時と同じように、特に家柄、出身を重んじたので、公主たちは必ず「華族を選ん」で結婚しなければならなかった。唐朝前期には「尚主(公主の夫)は皆貴戚(天子の親戚)、勲臣(功臣)のバらぺづいハる」(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)のが普通であった。公主は皇室貴戚の家に嫁す例が最も多かったが、また皇室の外甥、つまり長公主(皇帝の姉妹)の息子に嫁すものもあった。当時の人は、皇帝の甥が公主の婿になるのは「国家のしきたり」といっており、こうしたことが最も一般的であったことがわかる。たとえば、太宗の娘の巴陵公主は叔母にあたる平陽公主の息子に嫁し、高宗の娘の太平公主は叔母にあたる城陽公主の息子に嫁し、玄宗の娘の臨晋公主は伯母にあたる代国公主の息子に嫁したというように。また、外戚に嫁した者もいる。たとえば、太宗の娘の長楽公主は母である長孫皇后の甥に嫁し、蘭陵公主は祖母賓太后の一族の男子に嫁し、太平公主は再婚、三婚したが、その相手はいずれも母親(武則天)武氏の一族の息子たちであり、中宗の娘の成安公主は章后の甥に嫁した。その次は勲功ある貴戚や名臣の子弟に嫁す例である。太宗の娘の清河公主は勲臣の程知節の息子に嫁し、臨川公主は勲臣の周範の息子に嫁し、襄陽公主は宰相蕭璃の息子に嫁し、高陽公主は宰相房玄齢の息子に嫁した。皇帝は自分の娘を重臣の家の嫁にやることを恩寵であるとか、龍絡の于段であるとか見なした。実際、娘が王妃となり息子が尚主となるのは貴顕の家の脊であった。郭子儀は「謝男尚公主表(息子が公主を尚るを謝す表)」(『全唐文』巻四四六)の中で、「臣は本来寒門の出身であり、勲臣の家柄でないことを愧じております。……陛下は特にこの賤族を受け入れ姻戚となすことをお許しくださいました。……臣は粉骨砕身しても御恩に報いたとは申せません」と感激した。ここには、自分の家柄が高くないことへの恥ずかしさもあれば、公主がわが家に嫁に来てくれたことに対する感激の気持も表れている。ところで公主の中で、ただ二人だけは例外であったようだ。それは高宗の蕭淑妃の二人の娘である。母親が武則天に罪をきせられ後宮に幽閉されたため、三十歳になっても嫁すことができずにいた。後、二人は宮中の衛士の嫁に降された。  

 唐の中期以後も、公主たちは依然として貴戚功臣の家に嫁す者が少なくなかったが、しかし婿選びの基準にいささかの変化が生じた。その一つは、詩文に優れた人物を重んじ始めたことである。これはおそらく社会において文学を重んじる風潮が日に日に高まり、科挙の進士科合格者が次第に重んぜられたことによるだろう。憲京は権徳輿の娘婿となった翰林学士の独孤郁が優れた文才をもっていることを羨み、嘆息して「徳輿は独孤郁を婿に得たが、いやはや朕は徳輿に及ばないのか」と言った。そして帝は宰相に、公主の婿を公卿士大夫の子弟で、「文雅にして清貫(侍従等の文官)に居る者」の中から選ぶように命じた。しかし諸家の多くは公主の婿になることを願わず、杜佑の孫の杜悴に白羽の矢が立てられた。憲宗はたいへん喜び、長女の岐陽公主を彼の嫁に与えた(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)。敬宗もまた毎年の科挙合格者の中から公主たちの婿を選ぶよう命じた。宣宗はとりわけ進士を重んじ、宰相に彼らの中から公主の婿を選ぶよう厳命した。

 

 第二の変化は名門貴顕を重んじることから、清廉な家柄で礼法を尊ぶ士族出身者を重んじるように変化したことである。躬示は徳宗、宣宗などの唐中期以後の皇帝たちが、山東士族の家風と礼法に非常な憧憬の念をもったことによる。憲宗は公主に命じて門閥の男子から婿を選ばせようとしたが、宣宗は一般士族の中から婿を選ばせ、愛娘の万寿公主を山東士族の進士鄭顔に、広徳公主を代々儒教の徳行で著名であった于踪に、それぞれ嫁がせた。

 その外、唐の中期以後、皇室は衰微し藩鎮の勢いが強くなったので、公主たちの結婚も政治に左右されることが以前より多くなり、少なからざる公主が藩鎮やその武将の子に嫁した。これは婿を選ぶ基準が変ったからではなく、政治情勢に迫られて皇帝が娘を犠牲にせざるを得なくなったことに原因がある。つまり、娘を嫁にやって藩鎖を旅絡し、彼らの忠誠と交換するためであったから、これら公主は時としてまさに人質そのものとなった。たとえば、代宗の娘の嘉誠公主は藩鎮の田緒に嫁し、新都公主は田華に嫁し、徳宗の娘の義章公主は藩将の張孝忠の子に嫁し、憲宗の娘の永昌公主は藩鎮の干頓に嫁した。公主たちの結婚の中で、以上の例は政治的取引が最も濃厚な例であり、また最も不幸な例でもあった。

 公主の夫となることは最高の栄誉であったが、しかしこの栄誉を受けようと願う人はいくらもいなかった。公卿の子弟、士族の家系はぴたすら恐れ避けようとし、甚だしい場合はこうした話に怨みをもつ者さえ出た。太平公主は蔀紹に嫁すことになったが、そのため藤家は大いに苦しみ悩んだ。そこで葬紹の兄は族長に教えを乞いに行った。族長は「慎んでおうけなさい」という外なかった。そしてまた嘆息して「恐ろしいことになったものだ」といった(『資治通鑑』巻二〇二、高宗開耀元年)。宣京が公主の婿を選ぼうとしたが、「衣冠(公卿大夫)は多くこれを避けた」(『旧唐書』于休烈附于踪伝)。そこである人が進士王徹を推薦したところ、王徹は「それを聞くと憂いが顔にあらわれ」、宰相に哀願してやっと逃れることができた(『旧唐書』王徽伝)。前出の山東士族の鄭頴はすでに同じ士族の盧氏の娘と結婚を準備していた。ところが白敏中の推薦によって公主の婿にさせられた。それで彼は白敏中を怨み、いつも皇帝のところで彼の悪口を言った。

 このように人々が公主を嫁にするのを恐れたのは、第一に政治闘争に巻き込まれたり、皇室の権勢に翻弄されたりして故無く禍が身に及ぶことが心配だったからである。唐代に「婦を娶りて公主を得れば、事無くして官府に取えらる」(『資治通鑑に巻二〇二、高宗開耀元年』という諺があった。この諺は人々が公主の婿になることを敬遠した気持をよく表している。こうした情況はどの王朝でもみな同じであった。

 第二の理由は公主の騏慢と無礼を恐れたためである。こうしたことは、特に唐代に顕著であったが、それは唐の公主が元来きわめて猛々しく礼儀をわきまえないことで有名だったからである。唐の皇室がそもそも儒教の礼法を重んじず、公主もまた子供の時から贅沢で安逸な生活を送っていたので、幼くして縞慢で放縦な性格が身についていた。宣宗の娘の広徳公主は父と一緒に食事をしていた時、かんしゃくを起しその場で箸を析った。宣宗は嘆息して「性質がこんなでは、どうして士大夫の妻になるこ妁砂できよう」(『資治通鑑』巻二四九、宜宗大中十三年)と歎いた。公主たちは嫁に行っても権勢を侍んで常々勝乎気ままに振舞い、倫理道徳も女性の礼儀も眼中になかった。「公主たちは自ら多くの役人をかかえ、……夫の屋敷内に別の邸宅をかまえて家族と会わず、自分の親戚ばかりをたくさん集めて宴会を開いたり、あるいは遊びにくり出したりした。夫はそれにあずかることができなかった」(『中朝故事』)。公主の夫が公主と顔をあわす時は婢僕と同じで、偉そうな態度を取れなかった。「公主は自分のしたいことだけを行い、夫と数日間も顔をあわせないことがしばしばあった」(同前)。

 高陽公主は、夫をその兄から分家させるために、義兄を左遵させようと考え、彼が自分に無礼な振舞いをしたと嘘の訴えをした。しかし彼女自身はといえば、ある僧侶と密通して億万もの宝石や金銭財物を彼に貢いでおいて、夫には二人の女性を見つくろってあてがった。また宜城公主は人を派遺して夫が外に秘かに囲っていた妾を連れて来させ、耳鼻を削ぎ落とし、陰部の皮をはいで夫の顔にかぶせ、さらにまた夫の頭髪を切り落とし、禿頭のまま役所で裁判の審議を行わせ、官吏仝員を集めて見物させた(『朝野命載』補輯)。こうした公主たちの所業は、まさに当時の社会風潮と権勢とが結びついて生れた産物であった。千年来、夫は妻の大綱であると見なされてきた中国社会の中で、女が男の大綱であるという、母系家庭に忍従し慣れることは、男にとっては大変難しく、また妻の勝手気ままを容認することは言うまでもなくさらに一層難しかった。人々がどうして公主の婿になることを水火の禍のごとくに恐れ避けようとしたか、理解することは困難ではあるまい。  

 唐の中期、後期になると、皇帝は益々儒教の礼法を重んじるようになり、公主たちの無礼な振舞いは常々自分たちの休面を損なうと感じられるようになったので、彼女たちを礼法で縛ろうと考え始めた。徳宗の時代以前には、公主が嫁いでくる時に、婿の両親は嫁に敬礼をしなければならなかったが、嫁の方は答礼しなかった。徳宗は儀礼官に礼法をつくらせて、公主たちにも普通の人々と同じように夫の両親や年長者に拝礼をさせた。宜宗も士族の家に嫁した万寿公主に必ず婦人の礼儀を守らなければならないと言い、夫の一族を軽視することを許さなかった。ある時、夫の弟が病気で危篤になったが、万寿公主は芝居見物に行った。宣宗は腹を立て嘆息して言った、「朕は士大夫の家がわが家と姻戚になるのを願わないことをかねて不思議に思っていたが、誠によく分かった」と(『資治通鑑』巻二四八、宜宗大中二年)。そしてただちに公主を宮中に呼びもどし、ひとしきり厳しく説教して帰らせた。これ以後、公主たちは山東の士族のように礼を守り、再び勝乎な振舞いをしなくなったそうである。皇帝の教訓と躾によって、公主の中には婦人の礼儀を守り、謙譲でしとやかで、鵜り高ぶった態度を取らない者も現れ、彼女たちは人々から賢婦と称された。たとえば、憲宗の娘の岐陽公主、宣宗の娘の広徳公主などがそうした例であろ。しかし、こうした事例はきわめて少なく、しかもその大半は中唐以後、皇帝が礼法を提唱するようになった後のことである。  

 人々が公主を嫁にすることを願わなかったというのであれば、公主たちはその結婚から何を得ることができたのだろうか。当然のことながら、彼女たちの結婚と家庭生活の大半は不幸なものだったといえよう。その結婚はたいてい政治的取引きであったから、婿選びは各種の政治的要素や家柄を考慮に入れて行われ、人物、才能を重んじることはまずなかった。もちろん、公主たちの個人的感情が考慮されるようなことは決してありえなかった。このことは彼女たちに夫に対して強い不満を持たせる結果となった。高祖の娘丹陽公圭は武将で功臣の蔀万徹に嫁したが、藷は愚鈍で才気が無かったので非常に嫌い、数カ月も夫と同席しなかった。後に高祖は酒席を設けて二人を和解させようとし、遊戯の最中に皆の前で故意に婿の藤に負け、褒美として佩刀を与えて公主の機嫌をとったので、やっと彼女は夫と仲良くなった(劉鯨『隋唐嘉話』巻中)。公主の婿の多くは皇帝の権勢を恐れたり、あるいは功利のために公主を嫁に迎えただけであり、彼女たちに仝く好感をもっていなかった。こうしたことは、おのずから公主の結婚と家庭の不幸の原因となった。結婚の失敗、貞節観念の稀薄、皇帝の子が持つ権勢、この三つが結びついて、公主たちを勝手気ままにさせ、別に愛人を持つことをごく一般的現象にした。ある公主などは男妾の大集団を擁するまでになった。男女関係の上で、彼女たちは唐代の女性の中で最も自由気ままな人々であった。

 この他、唐代の公主の結婚について、以後長く人々から注目されたのは、その再婚の風潮である。これらについては、後に「愛情、結婚及び貞操観」(第三章第八節)で詳しく紹介する。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
71
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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