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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

三-2 宮人(人間性を全否定され、完全隔離の中での生活)漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8728

 

 

2017518

の紀頌之5つの校注Blog

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Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745-020-#1 商山四皓(卷二二(二)一二九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8723

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-86 先生-巻八-01#5城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8730

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-109#4 贈蘇四徯#4 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8743

杜甫詩 全詩 総合案内 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 (194)回目牛嶠二十六首《巻四22定西番一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8732 (05/18)

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-巻二15 樂府 棄婦篇 -#4 曹植Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8733

Ⅵ唐代女性論         ninjaブログ

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漢詩・唐詩・宋詩研究

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三-2 宮人(人間性を全否定され、完全隔離の中での生活)

 心は黄蓮の如く〔苦く〕、身は紅葉の如く〔はかなし〕

 三千の宮女 朋脂の面、幾箇か春来りて涙の痰無からん」(白居易「後宮詞」)。古来、宮人は女性のなかで最も人間性を踏みにじられた人々であり、宦官とともに君主専制制度の直接の犠牲者であった。一方は生殖器をとられ身体を傷つけられた者、一方は人間性を踏みにじられた者である。宮人は奥深い後宮の中に幽閉されて永遠に肉親と別れ、青春と紅顔は葬り去られ、愛情と人生の楽しみは奪われ、生きている時は孤独の苦しみに、また死んだ後は訪れる人もない寂しさの中に置かれた。それで多くの知識人が、彼女たちの境遇に心を痛め嘆息してやまなかったのである。

 彼女たちの痛苦の生活と心情を理解しようとすれば、白居易の「上陽の白髪の人」ほど真実に迫り、生々と彼女たちの人生を描写したものはない。

 

上陽の白髪の人   白居易

上陽人,紅顏暗老白髮新。

綠衣監使守宮門,一閉上陽多少春。

玄宗末歲初選入,入時十六今六十。

同時采擇百餘人,零落年深殘此身。

憶昔吞悲別親族,扶入車中不教哭。

 

皆雲入內便承恩,臉似芙蓉胸似玉。

未容君王得見面,已被楊妃遙側目。

妒令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。

(上陽 白髮の人)

上陽(宮)の人、紅顏暗く老いて白髪新たなり。

綠衣の監使宮門を守る、一たび上陽に閉ざされてより多少の春。

玄宗の末歲 初めて選ばれて入る、入る時十六今六十。

同時に採擇す百余人、零落して年深く 此の身を殘す。

憶ふ昔 悲しみを吞みて親族に別れ、扶けられて車中に入るも哭せしめず。

 

皆云ふ 入內すれば便ち恩を承くと、臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり。

未だ君王の面を見るを得るを容れざるに、已に楊妃に遙かに側目せらる。

妒(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ、一生遂に空房に宿す。

 

上陽の人は、紅顏暗く老いて白髪が新たである、

綠衣の監使が宮門を守っています、ここ上陽に閉ざされてどれほどの年月が経ったでしょうか、玄宗皇帝の末年に選ばれて宮廷へお仕えしましたが、その時には16歳でしたのが今は60歳

同時に100人あまりの女性が選ばれましたが、みなうらぶれて年が経ちわたしばかりがこうして残りました、思い起こせば悲しみを呑んで親族と別れたものでした、その時には助けられて車の中に入っても泣くことを許されませんでした

皆は入内すれば天子様の寵愛をうけられるといいました、あの頃のわたしは芙蓉のような顔と玉のような胸でした、だけれどもまだ天子様にお会いできる前に、楊貴妃に睨まれてしまい、妬みからここ上陽宮に押し込められて、一生を遂に空しく過ごしました

 

秋夜長,夜長無寐天不明。

耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。

春日遲,日遲獨坐天難暮。

宮鶯百囀愁厭聞,梁燕雙棲老休妒。

鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。

 

唯向深宮望明月,東西四五百回圓。

今日宮中年最老,大家遙賜尚書號。

小頭鞋履窄衣裳,青黛點眉眉細長。

外人不見見應笑,天寶末年時世妝。

秋夜長し、夜長くして寐ぬる無く天明ならず。

耿耿たる殘燈 壁に背く影、蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲。

春日遲し、日遲くして獨り坐せば天暮れ難し。

宮鶯百たび囀ずるも愁へて聞くを厭ふ、梁燕雙び棲むも老いて妒むを休む。

鶯は歸り燕は去って長へに悄然たり、春往き秋來して年を記さず。

 

唯だ深宮に明月を望む、東西四五百回 圓かなり。

今日 宮中 年最も老ゆ、大家遙かに賜ふ尚書の號。

小頭の鞋履 窄【せま】き衣裳、青黛 眉を點ず 眉細くして長し。

外人は見ず 見れば應に笑ふべし、天寶の末年 時世の妝ひ

 

秋の夜は長い、夜が長くて眠ることもできず空もなかなか明けません、ちらちらと揺れる灯火が壁に影を写し、しとしと降る雨が窓を打つ音がします、

 

春の日は遅い、日が遅い中一人で坐し得いますが空はいつまでも暮れません、

 

宮殿の鶯が百度囀ってもわたしは悲しくて聞く気になれません、梁の燕がつがいで巣くっても老いた私には妬む気にもなれません、鶯は故郷へ帰り燕は去ってもわたしは悲しい気持ちのまま、季節が移り変わってもう何年になるでしょうか

 

ここ深宮で月の満ち欠けを見てきましたが、満月はすでに四・五百回も東西を往復しました、おかげで宮中第一の年寄りになってしまいました、天子様はそんなわたしに尚書の號を賜ってくださいました

そのわたしときたら先のとがった靴を履いてぴったりとした衣装を着て、黛で眉を描きますがその眉は細くて長いだけ、もしよその人に見られたら笑われるでしょう、これは天宝の昔に流行った御化粧なのです

 

上陽人,苦最多。

少亦苦,老亦苦。少苦老苦兩如何?

君不見昔時呂向《美人賦》,〈天寶末,有密采艷色者,當時號花鳥使。呂向獻

《美人賦》以諷之。〉又不見今日上陽白髮歌!

 

上陽の人、苦しみ最も多し。

少くして亦苦しみ、老いて亦苦しむ。

少くして苦しむと老いて苦しむと兩つながら如何。

君見ずや 昔時 呂向の《美人の賦》、又見ずや 今日 上陽白髪の歌

 

上陽の人は、苦しみが最も多い、若くしても苦しみ、老いてもまた苦しむ、若くして苦しむのと老いて苦しむのとどちらが辛いだろうか、どうかご覧あれ、昔は呂向の美人の賦、またご覧あれ、いまは上陽白髪の歌

* 呂向は玄宗の派遣した花鳥使を題材にして「美人賦」を詠み、宮女の悲しみを歌った。 

 

 この白髪の詩一首は、今日でも後宮の不幸な女性たちに一掬の同情の涙を流させる。

 九重の深宮は宮人たちの身体を鎖で縛っているが、彼女たちの若い心を縛ることはできなかった。彼女たちは憂え恨み悲しんだが、しかしなおも愛情と幸福を渇望していた。現世がすでに瀞茫たるものであったから、希望と夢を来世に託すほかなかったのである。永く後世に伝わった次の「紅葉に詩を題す」の物語は、生々と彼女たちの心情を伝えている。

 言い伝えによれば、玄宗の時代、詩人の顧況は宮中の堀川の流れの中から一枚の大きな青桐の葉を拾った。その葉に宮人の「一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず。聊か一片の葉に題し、有情の人に寄せ与う」(天宝宮人「洛苑の梧葉上に題す」)という歌一首が書いてあった。顧況はその詩に和して一首を作り川の流れに送った。後に玄宗はそれを知り、少なからぬ宮女を後宮から解放してやった。また次のような伝説もある。宣宗の時代、科挙の試験に応じた盧渥は宮廷を流れる堀川に一片の紅葉を見つけた。それに「流水 何ぞ太だ急なる、深宮 尽日閑なり。殷勤に紅葉に謝す、好し去きて人間に到れ」(宣宗宮人韓氏「紅葉に題す」)とあった。後に宣宗は宮人を解放し、その詩を書いた宮人は運よく盧渥に嫁ぐことができた(いずれのエピソードも芭濾『雲渓友議』巻一〇に収める)。

 こうした伝説ははなはだ多く4内容は異なっているが、筋は大同小異である。「紅葉に詩を題す」とよく似たものに、「繍衣に詩を題す」という伝説がある。一つは開元年間のこと、宮中の女性たちが辺境守備の兵士の軍衣を作ったところ、後にブ人の兵士が綿衣の中から詩一首を得た。それに「沙場 征戦の客、寒夜 眠りを為すに苦しむ。戦袖 手を経て作るも、知んぬ阿誰の辺に落つるかを。意を蓄て多く経を添え、情を含みて更に綿を着く。今生 已に過ぎたり、後身の縁を結び取らん」とあった。玄宗はこの詩を書いた宮人を捜し出し、その兵士の嫁にやった(『太平広記』巻二七四)。また、信宗の時代のこと、辺境を守備する兵士が宮人によって戦抱に縫いこまれた金の首飾と詩一首を発見した、という話もある(『唐詩紀事』巻七八)。こうした類の伝説は、多分に伝奇的な色

彩が加わって行くので、必ずしもすべて真実というわけではないが、深宮に幽閉され、一日がまるで一年にもあたる耐え難い目々に対する宮人たちの恨み、それに加えて民間の自由で愛情ある生活に対する憧れと渇望の激しさを反映しているのである。

 宮人たちが老いて深宮の中で死んだ後は、「宮人斜」と呼ばれる墓地に埋められた。「雲惨ましく煙愁えて苑の路は斜めに、路傍の丘尿は尽く宮娃なり」(孟遅「宮人斜」)というわけであった。彼女たちは生前は孤独に苦しんだが、死後はより一層寂しく惨めであった。後宮で一生を終えない人もいたが、その運命は堀川の流れに漂う紅葉よりもさらにあてどのないものであった。天子は気ままに宮人を贈物とし、外藩(臣従してくる異民族)や功臣に褒美として与えたので、披女たちの結末がどうなるのか、仝く運命の流れに身を委ねるほかなかった。

 老いて天寿を全うできたなら、彼女たちにとってはやはり幸せなことだった。後宮にはいたるところ危険が潜んでおり、宮人たちは常に政治闘争や宮廷の政変に巻きこまれ、身分が下賤であったから、しばしば理由もなく刀刃の露と消えた。文宗は楊賢妃の後言を信じて皇太子を死なせてしまったが、後に後悔した。しかし自分の愚かさを咎めることなく、かえって宮人の張十十等を責めて「吾が太子を陥れたのは汝等である」(『旧唐書』文宗二子伝、『新唐書』十一宗諸子伝)といった。これらの宮女たちはみな処刑されてしまった。宮人の杜秋は穆宗の時、皇子の保母であった。この皇子が後言によって罪に落されたので、披女も巻き添えになって故郷に追い返された。年を取って飢えと寒さがこもごも加わり、また孤独で頼るところがなかった。杜牧などの名士が気の毒に思い、有名な「杜秋娘の詩」を作って彼女の哀れな運命を悼んだ。また宮人たちは不用意にも皇帝の怒りに触れ、死の禍を招くこともあった。文宗の時、宮妓の鄭中丞は皇帝の命に逆らって死を賜った。彼女を棺桶に入れて川に流したところ、ある人が助け出し自分の妻にした。文宗はそれを知ったが、いくらか慈悲心を発して再び罰することはなかった。この宮女は幸いにも、かろうじて生きる道を与えられた者といえよう(段安節『琵琶録』)。

              

 唐朝の宮人たちの中で最も悲惨な運命にあった人として、宣宗の時の絶世の一美女をあげねばならない。宣宗は一人の美女が献上されるとたいへん喜び、数日の内に無数の賞賜を与えた。ところがある日の朝、宣宗は悶々として楽しまず次のように言った。「明皇帝(玄宗)はただ楊貴妃一人だけを寵愛したので天下は今に至るも平穏ではない。このことはどうして忘れられようか」。そしてこの美人を呼んで「お前をここに留めておきたいが、それは出来ない」と言った。左右の者が彼女を宮から出してやるべきでし?っと申し上げたところ、宣宗は「放してやれば朕の想いが残る。鴉毒(塙の羽にある猛毒)の盃をやろう」といった(「唐語林」巻七「補遺」)。まさに豺狼(豺は山犬)の論理である。宣宗は唐代後期の比較的見識のあった皇帝であるが、宮人の生命に対してはこのように残忍であった。鯨宗は愛娘の同昌公主が死ぬと、宰相劉晦の諌めもきかずに公主の乳母、保母などを一人残らず殉葬してしまった。およそ以上に述べてきたような話は、一言でいえば、宮人の命など蝶や蟻の如きもので、人の踏むままにされたということである。宮人がたとえ男子を生んだとしても、宮廷、とりわけ唐の宮廷は出身・家柄を重んじたので、「母は于を以て貴し」ではなく逆に「子は母に因りて賤し」ということになった。史書の記載によると、宮人の生んだ皇子は多くが顕貴の部類には入れられず、また全く生かされなかった場合も多かったようである。審宗の二番目の男子は宮人柳氏が生んだ子であった。武則天はこの孫は出自がきわめて賤しいと思い、養育する準備をしなかった。しかし僧侶の話を聞いてやっと生かしてやった。宮人たちはお腹を痛めたわが子を保護する力もなく、母の愛さえ奪われたのである。

 残酷な圧迫と虐待は、耐え忍ぶことのできない一部の宮人の反抗をまねいた。宣宗の時、ある宮人は宣宗を謀殺しようとしたが、宦官から射殺され成功しなかった(『新唐書』宦者伝古。

 

 4 宮人の解放

 唐朝後宮の宮人の数はたいへん多かったが、それでも、宮人の採用は止むことはなかったので、後宮では恨みつらみが積もり、また民間でも不満が生れた。それで宮人問題は社会と朝廷の注目をあびることになった。どの皇帝の時代にも、この悪政を批判し、宮人たちが家族や恋人と離別させられる恨みや苦しみに同情して、彼女たちを放ち帰らせるようにと皇帝に願い出る人がいた。皇帝たちは、自分が徳政を実施し、歌舞音曲や女人を好まない振りをするために、また時には純粋に宮廷費用を節約するために、あるいはまた、後宮に怨恨が満ち溢れたせいで、災難にあって「天罰」を受けることを恐れるために、しばしば詔勅を発して宮人を解放した。唐朝では高祖より後、ほとんどの皇帝が宮人を解放したという記録がある。多い時には三千人、少ない時でも数百人であった。

これら宮人は宮中を出てから家のある者は家に帰り、嫁に行くことも可能だった。老いて病いのある者、身寄りのない者などは去I一や道観(道教の寺院)に送って収容し、時々少しばかりの金晶を支給し生活の用とした(『全唐文』巻四二、粛宗「宮人を放っ詔」)。これは唐朝の皇帝のわずかばかりの仁政ということができる。しかし解放したといっても、宮人の数はいぜんとして相当なもので、唐末でも相変らず「六宮の貴・賤の女性は一万人を滅らない」という状況であった。その理由は、もともと解放された女性が多くない上に、絶えず新人が選抜されて入って来たので、根本的な問題の解決にはならなかったからである。そしてまた、解放された宮人の大多数は年を取り病弱であって役に立たず、彼女たちの青春はすでに深宮の中に葬り去られていたので、後宮を出ても寄る辺なく、晩年の境遇はじつに哀れで寂しいものであった。これと同時に青春の輝きの絶頂にある乙女たちが次々と絶えることなく後宮に送り込まれ、その紅顔が衰え、青春が空しく費やされるのを待つのであった。だからこの種の仁政の意義などというものは、本当に取るに足りないものだったのである。

 後宮に積った女性たちの怨みを緩めるために、皇室もいくらか対策を講じた。たとえば、毎年上已の日(三月上旬の巳の日)に宮人が肉親と会うことを許した。これは唐朝のち太っとした開明的なところといえる。「宮女は毎年の上巳の目、興慶宮内の大同殿の前で親族と会って安否を尋ね、互いに贈物をやり取りすることを許された。一日の内に訪れる人の数は数千から一万にのぼった。やって来てすぐに親族と面会できる者もいれば、夕暮に及ぶまで家族の名を呼べど至らず、泣いて後宮に帰る者もあり、毎年このようであった」(尉遅渥『中朝故事』)。この一幅の情景は監獄での面会とほとんど大差なく、宮人たちもまたまちがいなく高等監獄の囚人であった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
71
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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