詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10700
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
1. 王昭君悲話の誕生
王昭君に関する悲話があらわれはじめるのは、晋の石崇三四九⊥二〇〇) の 『王明君辞』や同じく葛洪 (二八三l二六三) の 『西京雑記』などからではないかと思う。だから王昭君に関する両漢書の記載を実像とすれば、これらは王昭君の虚像といってもよいであろう。
もともと説話や戯曲は、明人の謝肇制も『五艦哲の中で「小説や戯曲は、虚実相半ばするようにすべきだ」などといい、またわが近松門左衛門も「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの」とかいうように、虚・実おりまぜて、作品化されるものだと考えねばなるまい。
さて、石崇と葛洪とは晋人とはいっても、石崇は西晋時代の人であり、葛洪は石崇より三〇年あまり後輩で、西晋に生まれはしたものの、壮年期は晋室が五胡族をはじめ多種の異民族の華北への乱入をさけて江南へ落ちてゆき、社会の上でも政治の上でも、もっとも変転・変容の激しい時代にあたっている。
いま石崇の『王明君辞』をみると、これはつぎに引用するように、琵琶曲として作曲された五言詩で、多分に戯曲的である。この楽詞は『文選』巻二七「楽府」の条とか、あるいは采の 用郭茂情の編した『楽府詩集』第二九などに収められており、題名の王明君とは、晋の文帝司馬
昭の諒の昭をさけて、王昭君の昭を明と改めたものである。この
後段の二段から成っている。前段にあたる部分は、
千に嫁いだところまでを唱う。
我本漢家子,將適單于庭。 辭決未及終,前驅已抗旌。 僕御涕流離,轅馬悲且鳴。 哀鬱傷五內,泣淚沾朱纓。 行行日已遠,遂造匈奴城。 延我於穹廬,加我閼氏名。 殊類非所安,雖貴非所榮。 |
われはもと漢朝の生まれ、いまや匈奴の王庭に嫁ごうとしている。 いとまごいも終わらないのに、はや前駆の供のものは施旗をかかげる。 下僕や御者たちは別離の湖を流し、わが乗る馬車の馬も悲しみ鳴く。 あふれる涙は、冠の朱ひもを霹らす。 出発して日をかさね遠ざかり行くほどに、ついに匈奴の王庭へついた。 単于延の帳幕に招じ入れられ、(寧胡) 関氏の名を賜った。 しかし異族の中では心安んじるはずもなく、高貴の身分を与えられても栄誉とも思えない。 |
ここまでは、かの女が呼韓邪単千に嫁したのち、寧胡開氏の名を賜って厚遇されたことを唱っ
たものである。そしてまた後段には、呼韓邪単于の死後における、かの女の心情をつぎのように、に唱う。
父子見陵辱,對之慚且驚。 殺身良不易,默默以苟生。 苟生亦何聊,積思常憤盈。 願假飛鴻翼,棄之以遐徵。 飛鴻不我顧,佇立以屏營。 昔爲匣中玉,今爲糞上英。 朝華不足歡,甘與秋草並。 傳語後世人,遠嫁難爲情。 |
父と義子とにわが身を辱しめられ(義子と再婚したことをいう)、これを慙じ且つあきれる。 しかし身を殺すことは良に容易でないので、黙黙として苛の生をつづけるが かりそめの生に、どうして心は安んじようぞ。積る思いに常に憤りはあふれる。 願わくば空飛ぶ鴻の巽をかりて、はるかのかなたへ飛んでかえりたいものよ。 だのに飛ぶ鴻は、わが身のことなど顧みてはくれない。ひとり佇んで不安にとぎされる。 かつては匣の中の玉のように過されたのに、いまは土の上の花びらのよう。 朝咲く華の身は歓ばれもせず、秋草とともに枯れゆくままに甘んじよう。 後の世の人びとに語り伝えてほしい、遠く異境に嫁いだものの心情は堪えがたいことを。 |
この詩をよむと、心ならずも義子の新単子に再嫁したかの女のやるせなさと、それゆえに、いや増す故土への思慕の情と、異境に空しく枯れゆくわが身の嘆きとが、こもごも唱いこまれていて、人びとの涙をそそらずにはおかないものがある。
つぎに、石崇にややおくれた葛浜の 『西京雑記』第二には、王昭君について、つぎのような説話が収められている。
元帝の後宮には宮女が多くて、帝はその一人びとりを召見することができないので、画工にかの女らの容貌や形姿を描かせ、その画像をみて召幸していた。そこで官女たちは、じぶんを少しでも美しく描いてもらうよう、みな画工に五万-十万と賄賂をおくった。ひとり牆(字は昭君)だけは、賄賂をおくることをしなかったので、〔醜婦に描かれて〕帝に見えることができなかった。
そのうちに匈奴 〔王〕が入朝し、美女を求めて閼氏(早手の妃) にしたいと請うたので、帝は宮女たちの画像をみて 〔醜い〕 王昭君に白羽の矢を立てた。ところが帝がいざ昭君を召見してみると、その美貌は後宮第一等であり、対応や挙止も雅やかであったため、帝は〔かの女を旬奴に送ることを〕 ひどく後悔したが、すでに後宮の名簿から、かの女の名は抜かれており、かつ外国〔句奴〕 への信義を重んじて、変更することをしなかった。
そこで事の次第を究明させたところ、画工たちが〔賄賂を受けて〕真実の肖像を描かなかったことが判明したので、毛延寿らの画工をみな死刑〔棄死〕に処し、またその巨万の家財も没収した。
さきにいった前・後両漢書にみえる王昭君の匈奴降嫁のいきさつでは、王昭君がはたして『後漢書』にいうような、元帝の後宮を傾けるほどの美貌の持ち主であったとすれば、かの女はなぜ数年間も、元帝の目にとまらなかったのか、という疑いも、この『西京雑記』によれば、どうやら、つじっまが合うようである。しかし『後漢書』では、王昭君みずからが勾奴降嫁を志願したとあるのに対し、『西京雑記』では、王昭君は黄金に目のない宮廷画工たちの欲心の犠牲になって、その容貌を醜く描かれたため和蕃公主に選ばれ、心ならずも匈奴に降嫁させられたようにいう。それはひどくかの女に同情的であるが、おそらく葛洪が、当時の人びとの語り
伝えを、筆にしたためであろう。
Ⅳ 政略婚《§-2。匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像3.匈奴の分裂と漢朝への帰順
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10693
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順
ところが落ち目になると、匈奴国内における派閥抗争はしだいに激しくなり、 やがて十三代単子の握衍朐鞮単于(前六〇〜前五八)のとき、単于派と対立する東方諸部長が、前代単于の子稽候珊を擁立して反旗をひるがえし、前五八年、単千を襲撃して自殺させ、稽候珊を呼韓邪単于と称し、第十四代単于に推戴した。
このため国内の分裂は決定的になり、混乱に乗じ五人の有力者が、それぞれに自立して単于を称し、互いに抗争することになった。呼韓邪単于の兄の左賢王もまた自立して郅支単于と称した。その内五單于は干はつぎつぎに倒され、最後に呼韓邪と郡支の兄弟が、東西にわかれて対立したが、前五四年、呼韓邪単千は兄の郭支単千に敗れて北モンゴリアのオルコン河畔の本拠地(ノインーウラ付近)をうばわれ、南方長城地帯の五原(内蒙古自治区、呼和浩特市付近) に奔って漢朝に帰順した。ときに宣帝の甘露三(前五一)年正月のことである。
このように呼韓邪単于が漢朝に帰順したこと自体が、匈奴王国にとっては末曽有の大事件であったため、単于が帰順すべきか否かについて、匈奴諸部大人のあいだでは、激しい論議がたたかわされたという。
こうして帰順した呼韓邪単于は、漢軍の後援をえて兄の郅支単于を西方に迷いおとし、漠北の本拠地ノイン・ウラの王庭に復帰することができはしたものの、そのむかし漢の高祖が冒頓単于に屈服してから約一五〇年にして、両国の関係はここにまったく逆転し、ついに匈奴は漢の軍門に投降することになったのである。
さて降服者として漢延に入朝した呼韓邪単于は、元帝に請うて王昭君を迎えることができたので、匈奴旬奴の王庭における王昭君の待遇は鄭重をきわめた。かの女は寧胡関氏(匈奴を安寧にする妃の意) と称せられ、一男を生んだが、その子は伊屠智牙師といい、右目逐王という宗族諸王にもあたる高位高官を授けられた。
ちなみに、呼韓邪単千には寧胡閑氏の王昭君のほか数人の闘氏があり、これについて『前漢書』 巻九四下、「匈奴伝」 によって表示すると、上のようである。
その後の王昭君については、『後漢書』 の「南匈奴伝」には、さきに引用した一文につづいて成帝の建始二(前三一)年に呼韓邪単于が死ぬと、代わって、その大開氏の長子が立って、〔復株累若碇〕単于となり、王昭君を開氏(単于の妃)にしようと欲した。〔これをきらった〕 かの女は、成帝に上書して故国に帰らんことを願ったが、成帝は詔して、漢家のために胡俗にしたがい、新単于と再婚するよう諭したので、ついにその閼氏となった。こうして、王昭君は再嫁したのち、新単于との間に二人の女子を成したが、長女は、のちに名族の須卜氏に嫁いで須卜居次(公主の意) といい、次女は高官の当于(官名)某に嫁いで当于居次といった。
といえば、王昭君は嫁して三年目の建始二年に、そのころ在位すでに二十八年間におよんだ呼韓邪単于が死んで、若い未亡人となったので、いまいったように、かの女は上害して帰国の許可を願いでたが、成帝-そのとき元帝はすでに没していた― に諭され、ついに匈奴の風習にしたがい、新単于と再婚することになった。良家の子女として儒教的教養を身につけた王昭 君にとって、義理ある仲とはいえ、わが子にあたるものに嫁ぐことは堪えがたい陵辱を感じたであろうし、これが、かの女を悲劇の女性として、後世の人びとの同情と共感とをよびおこさせた点でもあったろうか。
おもうに、王昭君の人となりをみると、かの女は元帝の後宮にあって、長い間召見されないままに過した欲求不満から、みずから匈奴行きを申し出るなど、その容貌に強い自負心をもつ勝気な女性ではなかったか。そのような人となりの女性であったとすれば、匈奴に降嫁した当座は、寧胡得ん閼氏を賜って匈奴王国最高の女性の一人として遇せられ、またその一子は、最高官の一人として右目逐王に任じられていることを思えば、むしろ得意な一刻であったであろう。
さらに再婚後も、ときには心中ひそかに堪えがたい思いに涙することはあったかも知れないが、表面上は漢室の威光を背に、二人の子女もそれぞれ高位の宮人にめあわすなどして、波瀾少ない平和な生涯を送ったもののように思われる。すくなくとも前・後両漢書によるかぎりでは、かく考えるのが常識であろう。
ではどうして、このような王昭君の実像に対して、三世紀ごろから王昭君を悲劇的な運命の主人公とする説話とか詩話や戯曲が生まれるようになったのであろうか。
握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう、Wòyǎnqúdīchányú、? - 紀元前58年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。烏維単于の耳孫(玄孫の子、遠い子孫)。握衍朐鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は屠耆堂(ときとう)という。
Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微
Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10686
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
2. 匈奴の衰微
§-1.「烏孫王に嫁いだ細君」の条に説明したように、漢朝に対する匈奴の優位が傾きはじめたのは、漢朝第七代武帝の徹底的な匈奴経略からであった。大将軍衛青および驃騎将軍霍去病らによる、いくたびかの匈奴遠征によって、第五代目匈奴王の伊稚斜単于(前126一114)は、ついにオルドス東北(内蒙古自治区呼和浩特市付近)から、その本拠を、遠く沙漠のかなた北モンゴリアのノイン・ウラ付近(今のモンゴル人民共和国の首都ウラン・バートル市の西北)に移すことになった。
北モンゴリアに移ったのちの約六〇年間、匈奴の国内は、不幸にもたびかさなる大風雪にみまわれ、また、それにともなう飢饉にもおそわれて、人畜の被害ははかり知れず、家畜の保有数は、最盛時に比べ数十分の一に減じたといわれる。その上に、単于の多くは短命であって、六〇年間に八人もの単于が交迭した。当然のこととして単于の生母や外戚が権勢を握って、支配者層の権力争いがたえなかった。こうして、漠北に移ったのちの匈奴王国は、しだいに国力を消耗し、北アジア遊牧部族に対してはもちろん、西域の都市国家群に対しても・支配力を弱めてしまった。そのため漢軍の攻撃にも力いっぱいの反撃を試みはするものの、そのたびに敗北をかさねた。
一方漢軍も、匈奴が北モンゴリアに移ってからは、戦線が遠くなり、以前のような戦果をあげることができなくなった。たとえば、前九九年には、常勝将軍の名をほしいままにしてきた李陵が敗北して匈奴に降ったり、あるいは前九〇年には、名将李広利が西北遠くクリヤスタイ(新彊ウイグル自治区)付近まで軍を進めながら大敗して全滅し、これまた匈奴軍に投降するなど、あるいはまた蘇武が匈奴に使して、バイカル湖畔に幽囚されたと伝えられるのも、この前後のことである。
ただ匈奴は、こうして国力が衰頼して守勢に立ったとはいっても、河西地方(甘粛省西部地区)の奪回と、西域諸国とをその勢力下におくためには総力をあげている。匈奴にとって、西域諸国からの収奪と、それらの諸国を連ねるシルクロードを通じる東西貿易上の利得や、あるいは隊商たちから徴収する通関税などは、遊牧国家の経済を維持する主要な財源であったから、匈奴王国が漠北に封じこめられ、またその国内が天災におそわれれば、おそわれるほど、かれらは、いよいよ西域諸国の支配と東西交通路の保持とには、死力をつくさざるをえなかった。武帝以後西域の都市国家群の支配をめぐって、匈奴と漢朝とが激しい抗争をつづけたのは、このような事情による。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像 1.王昭君の降嫁
(Ⅳ 政略婚) 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二) 王昭君の実像1. 王昭君の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10679
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
1. 王昭君の降嫁
王昭君が和蕃公主として、匈奴王に降嫁したいきさつは、「前漢書」巻94下、「匈奴傳」によれば、元帝の竟寧元(前33)年に、匈奴王の呼韓邪単于一世が漢廷に再度目の入朝をしたとき、公主を賜って漢家の婿たらんと懇請したので、元帝は「以後宮良家子、王牆字昭君、賜単于」と伝えるのみである。
ところが『前漢書』についで、その後、南朝の宋の苑曄(398〜445)が編纂した『後漢書』巻一一九、「南匈奴伝」によると、『前漢書』のそれよりもやや詳しく、つぎのように伝える。
元帝のとき、良家の子女を選んで後宮に入れたが、たまたま匈奴国王の呼韓邪単于が〔再度目の〕来朝をし〔公主を賜らんことを請う〕た。そこで元帝は、宮女五人を賜う〔ことを約束し〕た。
たまたま王昭君は後宮に入ったが、数年間一度も帝にお目見えできず、悲怨の念でいっぱいであった。そこで、後宮の執事に、〔匈奴に〕行かんことを願い出、〔五人の一人に選ばれ〕た。いよいよ呼韓邪単于が帰国するにあたり、お別れの大会を催し、帝は五人の宮女を召見したところ、王昭君の美しく飾った豊かな容貌は、後宮のなかを光り輝かせ、かの女がかえりみ排回すれば、左右の人びとはたじろぎ動いた。帝はみてその美しきに大いに驚き、かの女を後宮に留めおこうとしたが、もしそうすれば、匈奴王の信頼を失うことを心配し、ついに、かの女を匈奴王に与えることとした (以下後述)。
ちなみに、通説では王昭君は斉国(山東省)の王穣の女、名は牆といわれるが、一説によれば、生地は李白や杜甫の詩で知られる揚子江畔の白帝城(四川省夔州奉節県)付近の西瀼水の一つ香渓に沿うところであると。杜甫も香渓を、「明妃(王昭君)を生長せし尚お村有り」と詩う。
苑曄の『後漢書』は、班固の『前漢書』よりも、その成立は三〇〇年以上―― 『前漢書』は後漢の章帝、建初七(八二)年に脱稿しているが、苑曄の『後漢書』は全巻120のうち、本紀一〇巻と列伝八〇巻とは、苑曄自身が編纂したものといわれるから、五世紀前半から半ばにかけて、でき上がったと考えてよかろう ― もおくれている。しかし、この『後漢書』以前にも「七家後漢書」などといわれるように、七種ないし八種の後漢書が存在しており、苑曄は当然これらを参照し集成したものと考えられる。
王昭君降嫁の事情は、『後漢書』によるかぎり、かの女が、その美貌に自信をもって元帝の後宮に入ったものの、数年間も召見されないままに留められていたため、空間にたえかねて、みずから進んで匈奴ゆきを志願し、ついにその望みがかなえられたものという。
このように王昭君に関する所伝は、前漢をへて後漢時代にも語りつがれていたのを、苑曄はその著『後漢書』にとりいれたのであろう。したがって、それは『前漢書』より加上されて、いく分かは詳しくなってはいるものの、『前漢書』の原型までも変容したとは考えられない。
そこで、王昭君の匈奴降嫁の歴史的背景であるが、これまで匈奴は、冒頓単于以来漢朝に対し常に優位を保ち、強圧的態度をとってきたのに、どうして呼韓邪単于が、元帝のときになって、二度までも漢延にみずから伺候した上に、公主の降嫁を懇請するまでに落ちぶれてきたのか、について一通り説明しておく必要がある。
Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君
(Ⅳ 政略婚)《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10672
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一) はじめに 「悲劇のヒロイン」王昭君
王昭君は、前漢の元帝(前四九〜前三三)のとき匈奴王に降嫁した公主であるが、公主とは云っても、烏孫王に嫁した江都公主細君のような宗主の女ではなく、後宮の女官が公主と仮称して嫁いだ女性である。
王昭君の匈奴王への降嫁は、さきの江都公主細君よりも、六十年ないし七十年ほど後のことであるが、中国では、この王昭君の降嫁について、その後二、三百年もすぎた三国時代や晋代ごろから、説話や琵琶楽などに悲話的に作曲されるようになり、そののち唐代・宋代と時代が下るにつれて、詩に唱われ、あるいは絵画にも描かれ、さらに雑劇によって戯曲化され、いよいよ悲劇のヒロインとして、人びとの同情をよびおこすようになった。
わが国でも、王昭君の説話や楽曲は、早く平安時代から貴族の間によく知られ、物語りや絵語や雅楽曲として賞玩されたようである。たとえば 『源氏物語』の「寄木」の巻をはじめ、「絵合」の巻にも
長恨歌や王昭君などような絵は、おもしろくあはれなれど、事の忌あるは、こたみは奉らじといい留め給ふ。
などとみえるように、大宮人の間では「長恨歌」なみに知れわたって、いたことがわかる。
こうして虚像としての王昭君は、その実像とは大きくかけはなれて、ひとり歩きするようになった。
それでは王昭君の実像なり、またかの女はどのような歴史的事情で、匈奴王に降嫁することになったのか、などについて少し考えてみたい。
Ⅳ 政略婚) 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》10. 望郷の歌―黄鵠の歌
(Ⅳ 政略婚) 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》10. 望郷の歌―黄鵠の歌 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10658
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君 1. 和蕃公主 2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君 3. 建国の英雄冒頓単于 4. 匈奴遊牧王国の出現 5. 漢の高祖と冒頓単于 6. その後の漢帝国と匈奴との関係 7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行 8. 烏孫族と月氏族 9. 対匈奴攻守同盟策 10. 望郷の歌―黄鵠の歌 |
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
§-1-10 望郷の歌-黄鵠の歌
さて、話を江都公主細君の身の上にもどそう。烏孫王に嫁した細君は、烏孫国章鵠の歌では、右夫人(第二夫人)として鄭重に遇せられた。とはいうものの、烏孫国 招王 (昆莫) の猟驕靡は、齢すでに七十余歳の老年であり、そのうえ漢語を解せず、また匈奴国から嫁した女性が左夫人(第一夫人)となって一段上位にいたので、王ともめったに会えないありさまであった。『前漢書』巻九六下「烏孫国」の条には、このような細君の悲愁なさまを叙したのち、かの女自作の詩として、つぎにかかげる八言六句の詩を伝えている。
悲愁歌 烏孫公主 劉細君
吾家嫁我兮天一方,遠託異國兮烏孫王。
穹盧爲室兮氈爲牆,以肉爲食兮酪爲漿。
居常土思兮心内傷,願爲黄鵠兮歸故鄕。
(悲愁歌)
吾が家 我を嫁がす 天の一方,遠く異國に託す 烏孫王。
穹盧を 室と爲して氈を牆と爲し,肉を以て食と爲して 酪を漿と爲す。
居常土(くに)を思ひ 心内に傷(いた)め,願はくは黄鵠と爲りて 故鄕に歸らん。
わたしの家(漢王室)は、わたしを(西域の国に)嫁がそうとしている、(そこは)天の彼方の地の果てだ。遠く異民族の国である烏孫の王の許へ嫁ぎゆかせる。
この地ではテントを住まいとして、毛氈を境の壁として。肉を(常)食として、乳製飲料を飲み物としている。
ふだんからふるさとを思いしのんでいるから、心のなかではいつもいたましい思いがしてい。だけど、 願うことなら、あの仙人を乗せ、一挙に千里を飛ぶという黄鵠となり、故郷に帰りたいものである。
§-1-10-2 烏孫公主 劉細君 《悲愁歌》訳注解説
1.劉細君烏孫公主:烏孫公主とは、漢の武帝の時、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系の民族の国家・烏孫国に嫁した漢の皇室の女性で、名は(劉)細君という。江都王・劉建の 娘で、武帝の従孫になる。塞外の民族や部族、諸侯との和親を図るための政略結婚の当事者。なお、王昭君が匈奴に嫁いだのは、この劉細君の婚姻の七十余年後になる。ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。 ・公主:天子の娘。皇女。現代語で、『白雪姫』を“白雪公主”というようなもの。蛇足になるが、『シンデレラ姫』は“灰姑娘”となり、原題に基づいたものになっている。
詩の末句に「願はくは黄鵠と爲りて 故鄕に歸らん。」とあるところから、この詩を「黄鵠歌」というが、日本人の感覚。あるいは、詩の内容からいって、むしろ「望郷の歌」という方がふさわしいと思う。
吾家嫁我兮天一方、遠託異國兮烏孫王。
わたしの家(漢王室)は、わたしを(西域の国に)嫁がそうとしている、(そこは)天の彼方の地の果てだ。遠く異民族の国である烏孫の王の許へ嫁ぎゆかせる。
2. 吾家:わたしの家は。漢家は。劉家は。
・嫁我:わたしをとつがす。 *この句には「吾」「我」と似たものが続く。前者は基本的に主格(わたしは、…)、後者は主として目的格(わたしに…。わたしを…)の場で使われる。蛇足だが、現代語では“我”のみになる。また「家」「嫁」もその義は日本語の訓読みに同じだが、「単語家族」の考え方に立つと、根では繋がっているとも考えられる。
・兮:上古の詩によく見られる、リズムをとり、語調を整える辞(ことば)。
3. 天一方:空の片一方。彼の地の果て。
前漢・蘇子卿(蘇武)『詩四首 其四』
燭燭晨明月,馥馥秋蘭芳。芳馨良夜發,隨風聞我堂。
徴夫懷遠路,遊子戀故鄕。寒冬十二月,晨起踐嚴霜。
俯觀江漢流,仰視浮雲翔。良友遠別離,各在天一方。
山海隔中州,相去悠且長。嘉會難再遇,歡樂殊未央。
願君崇令德,隨時愛景光。」とあり、
『古詩十九首之一・行行重行行』
行行重行行,與君生別離。相去萬餘里,各在天一涯。」とある。
・遠託:遠くとつぐ。
・託:憑る。寄せる。まかせる。頼る。
・異國:異民族の国。ここでは烏孫国になる。
4. 烏孫王:烏孫の王。劉細君が烏孫王に嫁いだのは、紀元前105年(武帝の元封六年)のことになる。
穹盧爲室兮氈爲牆、以肉爲食兮酪爲漿。
この地ではテントを住まいとして、毛氈を境の壁として。肉を(常)食として、乳製飲料を飲み物としている。
5.「穹盧爲室」は、「穹盧を室と爲す」と読むべきところで、本来「以穹盧爲室」とすべきところを語調の関係で「以」を取った。そのため、聯として繋がっている下聯の「以肉爲食兮酪爲漿」では同様の文型「以肉爲食」で、語調の関係上「以」が附けられている。
・穹廬:〔きゅうろ;qiong2lu2〕弓なりに張った円いドーム状のテント。蒙古包(パオ)。遊牧民の住居。匈奴の住居。斛律金によるとも北朝齊民歌であるともする『敕勒歌』「敕勒川,陰山下。天似穹廬,籠蓋四野。天蒼蒼,野茫茫,風吹草低見牛羊。」に詠われている。西北異民族のテント式の住居。豪放詞でも異民族の生活の象徴として、屡々使われる。 ・爲:…とする。…となす。 ・室:いえ。住まい。へや。 ・氈:〔せん;zhan1〕毛(け)むしろ。もうせん。西北異民族の生活を象徴する物。 ・牆:〔しゃう;qiang2〕かき。塀。境。
・以肉爲食:(獣)肉を(常)食とする。 ・〔以A爲B〕 Aを(もって)Bとする。Aを(もって)Bとなす。 ・酪爲漿:乳飲料を。 ・酪:〔らく;lao4〕ちちざけ。ミルク。乳製飲料。 ・漿:〔しゃう;jiang1〕どろりとした飲み物。濃いめの液体。こんず。汁。
居常土思兮心内傷、願爲黄鵠兮歸故鄕。
ふだんからふるさとを思いしのんでいるから、心のなかではいつもいたましい思いがしてい。だけど、 願うことなら、あの仙人を乗せ、一挙に千里を飛ぶという黄鵠となり、故郷に帰りたいものである。
6. ・居常:ふだん。平生。日常。 ・土思:ふるさとを思いしのぶ。
・心内傷:心のなかでいたましい思いをする。
7. ・願爲:願わくは…となり。白居易の『長恨歌』の最後部分に「在天願作比翼鳥,在地願爲連理枝。」とある。
8. ・黄鵠:黄色みを帯びた白鳥。渡り鳥で、秋には南方に帰っていく。 仙人が乗り、一挙に千里を飛ぶという黄色を帯びた白鳥のこと。中国で死人を生き返らせるという想像上の鳥。
・歸:故郷など本来居るべき所に戻っていくこと。かえる。
・故鄕:ふるさと。ここでは、中華の地を指す。
さて烏孫王猟騒廓は、やがて年老いたとの理由で、細君をかれの孫で、そのころ卑随の官にあった軍須靡に尚そうとしたが、細君は聴かなかった。宗主の女として儒教的教養をうけて育った細君にとっては、義理ある仲とはいえ、孫に再嫁するのは、たえがたい陵辱感をうけたことであろう。
やむなく老主としては、上書して武帝にかの女の説得を請うたため、武帝は烏孫の国俗に従って再嫁するよう、また宿敵の句奴をほろぼすには、是非とも烏孫の漠朝への協力が必要であることをあげて説得し、江都公主細君を軍陣の軍須磨に再嫁させたのであった。やがて老王の猟騎歴が死ぬと、軍須磨が代わって王位につき、細君との間に一女の少夫をもうけたといわれる。
こうして、かの女の生涯は、薄幸に終ったものの、その降嫁は決して無意味ではなかった。かの女をかすがいとして、漠朝と烏孫国との攻守同盟は強固になり、旬奴はしばしば漠軍から大打撃をこうむり、やがて南・北句奴に分裂して、南旬奴はついに漠朝に臣服することになった。いうなれば、漠朝の句奴王国に対する勝利は、細君の烏孫王への降嫁という犠牲のうえに成ったものといえよう。
軍須靡に再嫁した後の細君には、少夫と呼ぶ一女があったことは前述したとおりであるが、その他についてはわからない。軍須靡は細君が死ぬと、あらためて楚王の戊の孫女解憂が公主として降嫁されたが、解憂公主も、軍須びの死後は、嗣立した従弟の翁帰歴に再降嫁して、三男二女の母となったという。これは漠朝では昭帝から宣帝の初期にあたるが、こうして漢朝と烏孫国との婚姻関係は、細君以後もつづけられたのであった。
Ⅳ 政略婚 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》8. 烏孫族と月氏族
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
1. 和蕃公主
2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君
3. 建国の英雄冒頓単于
4. 匈奴遊牧王国の出現
5. 漢の高祖と冒頓単于
6. その後の漢帝国と匈奴との関係
7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
8. 烏孫族と月氏族
9. 対匈奴攻守同盟策
10. 望郷の歌―黄鵠の歌
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
Ⅳ-§-1-8. 烏孫族と月氏族
烏孫族については、現在までのところ、その民族的帰属も、その遊牧圏もあまり確かではない。民族としてはトルコ族説が有力であり、トルコ族系のキルギスKirgiz 部族に比定する 。あるいは一説にはカザック族ともいわれる。烏孫族は、さきにいったように前漠のはじめごろには、甘粛省の河西地方から敦塩地方に遊牧していた部族であった。
『漢書』巻九四、「匈奴伝」 によると、烏孫王は孝文帝(前180〜157)のころ月氏族のため、その王の難兜歴が殺されて国土を失ってしまったというが、その月氏族は、かつては匈奴奴の西に隣りした強大な遊牧国家で、旬奴の冒頓単子も、若いときこの国に人質となっていたことがある。
月氏族はそのころ、いまの甘粛省西部から敦凰地方および天山山眠東端の広い範囲にかけて遊牧していたと思われるが、やがて前一七七年ごろ冒頓単于の遣わした右賢王の軍に大打撃を うナ、一たびは分散のうきめにあい、その余類は天山山脈のかなたイリ河流域にのがれて遊牧したのであった。
こうして強力な月氏族を撃破・駆逐して、東西交通路の要衝を占める河西・敦煙地方とタリ 招ム盆地のオアシス諸国とを服属させた旬奴は、二代目の老上単干(前一七四1一六一) のとき、月氏族への対策上から、さきに月氏族によって首長を殺され国土を失った烏孫族を授け、烏孫の昆莫猟騒磨 - 昆美の二字は 『漢書』、「西域伝」の顔師古注には、王号といい、白鳥博士によると、大君の意にあたるKengbagの書写であると-1-と結んで、またも月氏族を攻め、その王を殺したため、月氏族はイリ地方から三たび移牧して、中央アジアのフェルガーナ盆地をへてソグディアナに侵入し、ここで遊牧生活を営みつつ、旧パクトリア王国の後を領していたスキタイ系の大夏族を臣従させて、大月氏と改名してこの地方に遊牧国家を再建したといわれる。
それは前二二三年から前二一九年ごろに比定されあたかも張騫の第一次遠征中の出来事である。
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