詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》5.1.悲憤の詩其の一 訳注解説#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10777
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
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蔡文姫 《悲憤詩三首 其一》訳注解説 |
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悲憤詩三首 其一 #1
(蔡文姫が掠め取られる頃の世情、拉致されて連行される時のことなどを歌う)
漢季失權柄,董卓亂天常。
幼帝を傀儡とする宦官の政治介入が長く続くと、後漢の末期には、中央政府の政治は機能不全に陥り、実権は衰えた。宦官殺害がすすみ、機会を得た董卓は、武力を背景に、世の中のきまりを乱して相国になって朝廷を掌握した。
志欲圖簒弑,先害諸賢良。
董卓は主君を殺して帝王の位を奪い取ることを計画し、それに先立って、伍瓊や周等をはじめとし、多くの優秀な人材を排除、殺害したのである。
逼迫遷舊邦,擁主以自彊。』
都であった洛陽が北からの外敵、各地の諸公からの打倒董卓の勢いに、防御能力の高い前漢の首都である長安への移転を画策、少帝を廃して、新たな主君である献帝を擁立して、一時政権を掌握し、洛陽を燃やし尽くし、強引に長安に遷都した。
#2
海内興義師,欲共討不祥。
卓衆來東下,金甲耀日光。
平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。
斬截無孑遺,尸骸相牚拒。』
#3
馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。
還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。
#4
所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。
失意機微閒,輒言斃降虜。
#5
要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。
或便加棰杖,毒痛參并下。
#6
旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。
彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
(悲憤の詩三首)其の一
漢季 權柄を 失し,董卓 天常を 亂す。
志は 簒弑【さんしい】を 圖【はか】らんと欲し,先づ 諸賢良を 害す。
逼迫して 舊邦をに 遷【うつ】らしめ,主を 擁して 以て自ら彊【つと】む。』
#2
海内に 義師を 興こし,共に 祥【よ】からざるを 討たんと欲す。
卓衆 來りて 東下し,金甲 日光に 耀く。
平土の 人 脆弱にして,來兵 皆 胡羌なり。
野に 獵するがごとく 城邑を 圍み,向ふ所 悉【ことごと】く 破り亡す。
斬截【ざんせつ】して 孑遺【げつゐ】 無く,尸骸 相ひ 牚拒【たうきょ】す。』
#3
馬邊に 男の頭を 縣【か】け,馬後に 婦女を 載す。
長驅して 西のかた 關に入るに,迥路【けいろ】は 險にして且つ 阻なり。
還顧すれば 邈【ばく】冥冥として,肝脾【かんぴ】爲に 爛腐【らんぷ】す。
#4
略せる所 萬 計【ばかり】 有りて,屯聚せしめ 得ず。
或は 骨肉の倶【ともな】ふ 有りて,言はんと欲すれど 敢へては 語れず。
意を 機微の閒に 失へば,輒【すなは】ち 言ふに:「降虜を 斃【たふ】すに。
#5
要當【まさに】刃【やいば】を亭【とど】めるを以ってしても,我曹【われら】汝を活かさざるべし。」
豈に 復た 性命を惜みて,其の詈罵【りば】に 堪へざらんや。
或は便ち 棰杖【すゐぢゃう】を加へ,毒痛 參【こも】ごも 并【あは】せ下る。
#6
旦【あした】になれば 則ち號泣して 行き,夜になれば則ち 悲吟して 坐る。
死なんと欲すれども得る 能はずして,生きんと欲すれども 一の 可なるもの無し。
彼の蒼たる者 何の辜【つみ】ありて,乃ち 此(の戹禍【やくか】に遭はさんや!
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10770
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 10. 胡笳十八拍 漢魏 蔡文姫 訳注解説 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
4. 黄巾の乱と軍閥の混戦
このような政界のありさまに対して、一般社会でも、前漢の中期以後あらわになった豪族の大土地所有は、いよいよ深刻化し、自作農民はしだいに土地を失って小作民や奴婢の身分に転落したり、一部のものは、流民となって都市に流出し、無頼の徒やルンペンに成り下がって、社会の腐敗と秩序の乱れに拍車をかけていった。
こうした社会的不安を背景に、184年黄巾の乱が勃発した。この反乱の舞台は、山東・河北・河南から揚子江流域にまでおよぶ広範なもので、三十六万の農民が、たちあがったといわれる。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
黄巾の賊乱は、やがて鎮定され、また騎横にふるまった二千人にあまる百官も、司隷校尉(首都防衛司令官)の袁紹によって尽く殺されてしまった。
百官が蓑紹によって課滅されたものの、しかしそのあと出て来たのは、軍閥による混戦であった。いわゆる「後門の虎」というところである。黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
これよりさき、宦官討減のため外戚の大将軍何進によって招集された地方軍団の一人である幷州の牧(山西省中・北部の長官)董卓は都の洛陽に入京してくると、189年クーデターによって天子の擁立を行い、かれが擁立した献帝を奉じて政権をにぎり、また麾下の羌族(ティベット族)を主体とする傭兵部隊も暴虐のかぎりをつくした。
そこで190年正月を期して、袁紹らは各州・郡の長官や太守をかたらって義兵を挙げ、洛陽へと進撃した。のちの三国時代の魂を興した曹操も、これら義軍の一部将であった。
この形勢をみて董卓は、同年二月、献帝を擁して都を洛陽から西の長安(いまの西安市)に遷したが、かれは義軍が洛陽をめざすときくや、直ちに東にとって返し、各地で烏合の同盟義軍を破り、翌年四月、再び長安に引き揚げた。このとき祭文姫は、人びととともに董卓麾下の羌族傭兵部隊に劫去されて長安に連れ去られたのであった。
その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る(詳しくは「三国時代」を参照)。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡であった。220年、曹操の子曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》3. 後漢末の政治の乱れ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10763
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
3. 後漢末の政治の乱れ
後漢帝国の紀綱の乱れは、すでに第四代の和帝時代(88〜105)からはじまるといえる。というのは、和帝以後第十二代の霊帝までは、八歳から十五歳の幼帝が多く、中には生後わずかに百余日とか、二歳という天子もあった。そのため政権は外戚の手にうつり、やがて外戚に代わって、百官が放屁するようになった。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
こうして、内外にわたる宦官の専横・不法に対して、気節ある一部の官僚グループは、峻烈な弾劾・攻撃を行ったため、宙官は対抗上、気節の士を政界から廃除すべく、執えて郷里に終身禁錮することとした。いわゆる「党錮の禁」または「党錮の獄」である。
党錮の獄は、霊帝(168〜188) のとき再びおこされたが、二度目の獄は徹底的であって、党人の名のもとに、あるいは殺されたり流されたり、あるいはまた、廃禁されたものは六、七百人の多数をかぞ、え、気節の士は、ほとんど官界から根絶されてしまい、いよいよ宦官の専横はきわまった。
幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。
この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。
前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中ではこれより少なかった。
この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》2. 蔡文姫について
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
2. 蔡文姫について
蔡文姫は名を班、字を文姫といい、河南省陳留(開封東南の把県)の人で、蔡文姫について後漢後半期の知名の学者で、班昭を援けて『漢書』の続修にも従った一人であり、また詩人としても知られた禦鮎(223~292)の女として生まれた。
陳留は穎川、南陽とともに後漢時代には学問の一中心であったので、かの女の処女時代は、好きな学問にはげみ、また音楽をたしなむなど、幸せな生活を送っていた。そのため女の身ながらも、父の学問をうけついで博識高牙のはまれ高く、父はかの女の才能を賞でて、こよなく愛したという。
蔡文姫が音楽にも堪能であったことについては、つぎのような逸話からも知られよう。
ある夜、父の亀が琴を弾じていたところ、とつぜん舷がきれた。隣室で聴いていた文姫は、たちまち、それが第二の舷であることを言いあてたので、父は、まぐれあたりであろうと思い、娘の耳をためす意味で、わざと一絃を切って、第何舷かをたずねたところ、かの女は言下に第四の絃であると答えたため、亀はその音感の正確さに舌をまいた。
という。
かの女はやがて、河東郡(山西省)の衛仲道に嫁したが、ほどなく夫に死別した。不幸はこの時からはじまった。
かの女は、たまたま子に恵まれなかったので、衛家を去って実家に帰ってきたところ、世は後漢の末つ方、当時の中央政界は、外戚の専権と宦官の跋扈とで紊乱をきわめたため、世情は騒然たるものがあった。
『後漢書』巻二四、烈女伝、「董紀の妻」(蔡文姫)の条には、
実家に帰っているうち、献帝の興平中(一九四〜一九五) に胡騎に劫め去られて南勾奴の左賢王の夫人となり、胡中に留まること十二年、二子を生んだ。
と簡単に伝えるにすぎないが、かの女が、どうして南匈奴に連れ去られて十二年間も留まらねばならなかったかについて、以下、後漢末の複雑な政情をまじえつつ、その歴史的背景を述べてみよう。
後漢末の文学
蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。
歴史の分野ではまず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として高い評価を受けている。
他には班固の父の班彪が『史記』の武帝以後の部分を埋めた『後伝』、後漢王朝についてを同時代人が書いた文章をまとめた『東観漢記』などが挙がる。
漢詩の分野では班固『両都賦』,張衡『二京賦』などがあり、この時代に五言詩が成熟し、末期の蔡邕(邕は邑の上に巛)になって完成したと言われる。
その流れが建安年間(196年 - 220年)になって三曹(曹操,曹丕,曹植の親子)や建安七子へと受け継がれ、建安文学が形作られる。
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
Ⅳ 政略婚 《§-4 蔡文姫史話》1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10749
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語
1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫
られた蔡文姫
これまでみた細君、王昭君、文成公主の三題は、いわゆる和蕃公主に関する史話であるが、この第四題目の「蔡文姫、都に帰る」史話は、和蕃公主のそれとは少しちがって、中原に侵入した辺境異民族に劫去された良家の一子女の悲惨な物語である。
和蕃公主のような事例は、中国史上数多いが、そのような政略結婚による外交折衝では、平和は長つづきせず、周辺とくに北アジア世界や西北辺境からの異民族の侵入、侵略戦争は、歴代の王朝にわたって絶えずつづく。そして、そのたびにおびただしい人・畜・財・物が劫去される。そのうち、人といっても多くは婦女子であったろうが、みな歴史のかなたに消え去ってしまって実態はわからない。
しかし、それらのなかで、ひとり表題の蔡文姫は、みずからの悲運な境涯を、かの女のすぐれた才筆に託して、五言の長詩「胡、笳十八拍」 に書きのこしており、それが正史の 『後漢書』中に収載されたため、後世の人びとに語りつがれ、また「文姫帰漢図」(ボストン美術館蔵であり、台湾故宮博物館蔵)とか「胡笳十八拍」画巻(南京博物館蔵)などとして画巻にも描かれ、あるいは、近くは郭沫若によって五幕の歴史劇「察文姫」としても上演されている。
蔡文姫/蔡 琰 (177年(熹平6年)- 249年(嘉平元年))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡邕。甥は羊祜。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。
南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。 蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となるが、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。
没年 蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『晋書』景献羊皇后伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は249年だと述べている。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である蔡文姫の妹・貞姫の名が見られる。
また、1992年に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177-254年」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功、蕭綽・王昭君・花木蘭がある。
字の異同 蔡琰は『後漢書』本伝に字を文姫と説明されるが、『後漢書』の注釈にある『列女後傳』は字を昭姫と記録する。このような漢字の違いは王昭君にも見られ、彼女を題材にした西晋の石崇作『王明君辞』が現存する。これらの現象は晋書の司馬昭の諱の使用を避けるために改めた結果である。晋代に成立した蔡琰の伝記が『後漢書』の列伝や『芸文類聚』、『太平御覧』等に収録されたため、避諱後に出来た名称の文姫が後世に広く伝わった。
琴を弁じる 蔡琰が幼い頃、夜に蔡邕が琴を演奏していた。演奏の最中に琴の二番目の弦が切れ、別室で父の演奏を聞いていた蔡琰が「第二弦」と言った。蔡邕が不思議に思いわざと四番目の絃を切ると、またも「第四弦」と蔡琰は言った。蔡邕が「たまたま言い当てたのだろう」と言うと、蔡琰は「昔、呉季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠は律管を吹いて楚軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと言うのですか」と答えた。それを聞いた蔡邕は驚いた。 この逸話は初学者向けの教科書の『蒙求』と『三字経』に取り入れられ、女性にも聡明な者がいることと、男子はこのような才女に見劣りしないよう勉学に励むべきだという教えに用いられた。
書の伝道師 唐の張彦遠の『法書要録』中にある「伝授筆法人名」に次の記述がある。蔡邕の筆法は崔瑗と蔡琰に伝わり、蔡琰が鍾繇に伝えた。鍾繇の筆法は衛夫人に伝わり、衛夫人が弟子の王羲之に伝えていき、その後の多くの能書家に伝わった。
その他 陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。
蔡琰の著作 自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わる。一説に『胡笳十八拍』は後世の詩人が蔡琰に仮託してできた産物だという。なお『胡笳十八拍』の楽曲は現代に伝わり、中国十大古典名曲の一つに数えられる。
蔡琰の人生を題材にした作品には、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした戯曲が多数作られており、元の金志甫の『蔡琰還漢』や明の陳与郊の『文姫入塞』、曹雪芹の祖父曹寅の『続琵琶』、郭沫若の『蔡文姫』などがある。
金星には彼女の名がついたクレーター (Cai Wenji、蔡文姫) がある。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》3. 文成公主の降嫁 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10742
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
3. 文成公主の降嫁
文成公主が、数ある宗主の公主のうちから、どうして吐番への和蕃公主としてえらばれたのかは明らかでないが、かの女がソンツェン=ガムポに降嫁して入蔵したことについて、比較的詳しく伝えているのは、『旧唐書』巻一四六、「吐蕃伝」(上)である。要訳すると、つぎのようである。
貞観十五(六四一)年、太宗は文成公主を弄讃(ソンツ工ン)に降嫁させることとし、礼部尚書(外務大臣)江夏王の道宗に婚儀を司らせ、公主を吐書に送らせた。
ソンツェンは部下をひきいて栢海に屯し、黄河の河源の地(吐谷渾国)まで親しく出迎 え、大臣の江夏王道宗に会見し恭しく婿としての礼を執った。かれは大国(唐朝)の服飾、儀礼の美々しさに感嘆し、帰し仰いで、おのがみすぼらしさ(粗野さ)を愧じ、おそれる様子であった。
ちなみに、河源の地に親迎した云云について、『新唐書』「吐蕃伝」には、つぎのように、もっと具体的に「館を河源王の国(吐谷渾)に建てさせた」と伝えているが、河源王とは吐谷渾王のことで、ソンツェンは、このとき、さきに服属した吐谷樺の地 (ツァイダム盆地)に、新たに館を建てさせて、公主一行を親迎したというのである。
おもうに、これは佐藤長教授もいうように、吐谷渾が完全に吐蕃の勢力下にあったことを唐側に誇示しようとしたのであろう。
こうして、文成公主の降嫁を機に、儀礼・服飾・調度品をはじめ唐朝の文物がしだいに吐蕃の王廷内へ移入されるようになった。また中国仏教のチベットへの流入も、文成公主にはじまるといわれ、チベットに仏教を将来した文化指導者として、文成公主は、ターラの一化身緑ターラと称して、後世永く敬仰されている。ラサ市のラモチェ廟(小召寺)はかの女の建立にかかるという。
ちなみに、文成公主の吐蕃への降嫁については、チベット側の史料である『テブゴン』にもタン(唐)タイズン(太宗)の即位九年(貞観八年)に、チベットの王と贈物を相互におくって親交した。チベットはシナ王の女を迎えようとしたが与えられず、チベット持すは怒って八年ほどの間(唐と)戦を交えた。そして軍がかえったのち ―軍をかえしたのちに?― 王は〔大論の〕ガルトンツェンに黄金や宝石の類を数多く持参させて、太宗の女ウンシンコンジョ(文成公主)を辛丑の年(貞観十五年)に与えられた。とみえるが、この一文は公主の降嫁の成果を過大に見せる唐側の史書によったものと思われる。ついでに、文成公主の入蔵にまつわる逸話の一節を、つぎに書き添えてみる。
文成公主が都の長安を出立するとき、かの女は日月の鏡をたずさえてきたが、青海湖に近い山(祁連山脈の一峯)の尾根まできたとき、遥か遠い行く手に、ふるさとの空を懐かしむあまり、懐中の日月鏡を見ようとした。ところが付き添いの吐蕃の家臣どもが、鏡を石にすりかえていたため、かの女はその鏡をすて、望郷の念を断ち切って吐蕃へ向かった。
という。今日この日月山麓には、文成公主廟が建っている。この伝えはフィクションであるとしても、異境に旅立つ文成公主の悲しい心根を、よく物語っているといえるであろう。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》はじめに(唐とチベット王国との関係を背景) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10721
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とチペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
はじめに(唐とチペット王国との関係を背景)
これまでみてきたように、中国の王朝が異民族に公主を降嫁して婚姻関係をとり結んだのは、史書にみるかぎりでは、漢帝国が高祖のとき、北アジアの匈奴国王冒頓単子に公主を降嫁したのにはじまる。 以後隋・唐時代に至るまで、断続的ではあるが、周辺において強勢を誇った国々、たとえば突厥王国や回鶻王国などとは、公主の降嫁による通婚が行われるのが常例であった。唐代になると、北アジア世界の諸部族だけにとどまらず、東西交通路を確保するため、西域の有力都市国家とか、あるいは周辺の異民族国家とも婚姻関係を結んでいる。なかにあって、周辺の少数民族に大きな影響をおよぼしたのは、唐帝国第二代太宗のときの吐蕃 (チベット)国王に対する文成公主の降嫁であった。
文成公主とは640年に唐がチベットに送った皇女だ。強大な吐蕃(かつてのチベット)の要請に従い、唐は16歳の皇女・文成公主を、ソンツェンガンポ王の息子にして吐蕃の王グンソン・グンツェンの妻としてチベットに送った。
ただ、現在に中国で、この説話の文成公主は、“万能の文成公主”という事で、かなりひどい誇張されているので、まとめてみる。
・ポタラ宮はチベット王ソンツェン・ガンポが文成公主をめとるために建てた
・文成公主はチベット仏教の基礎を築いた主要人物である
・ラサ東部の聖山プンパ・リは文成公主が命名した
・タンカは文成公主が発明した
・チベット語の「タシデレ」(こんにちは)は文成公主とお供の者が伝えた
・チンコー麦は文成公主が中国から持ち込んだ
つまり、チベットの伝統文化がいかに形成されたかを改めて語る中で、権力者の強引な発言で全ての物語が変わり、昔の漢人女性一人に統一の大業という重責を負わせてしまった。実際のところ彼女はチベットに来た時、16歳の少女にすぎなかったが、疑いを差し挟めない“作り直し”と“語り直し”がなされ、孫悟空よりも神通力の大きい成果をもたらした人物とされている。彼女にできないことはない。まるで彼女のおかげでチベットは文明を持てたかのようだとされている。中国の歴史の見直しは、往々にしてこの手の手法が用いられている。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像 3.〝青塚″伝説 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10714
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
〝青塚″伝説
最後に、民間に語り伝えられてきた数多くの王昭君悲話の一つを紹介しておこう。それは、内蒙古自治区の呼和浩特市郊外の南約十三、四キロの黄河の支流の一つで、呼和浩特市の西南方の托克托のあたりで黄河に流入する大黒河畔に位置する青塚とよばれる摺鉢形をした、巨大な墳丘に因縁づけられた説話である。
それによると、呼韓邪単子の死後王昭君は、その後をついで即位した義子の復株累若撃早千に再縁することを強いられると、その不倫を悲しみ憤るあまり、天子(成華に訴えて帰国が許されるように願ったが納れられず、ついに黄河に身を投じた。かの女の、この節烈の気に天地も感動し、黄河の水もために逆流して、その屍を大黒河に送りか、∈たので、土民たちが、描これを拾い上げたところ、その顔ばせは恰かも生けるもののようであった。
そこで人びとは、これを神と敬まい、大黒河の河畔に塚を築いて葬ることとした。由来この地方には、白草が多く繁茂したが、ひとりこの塚だけには青草が生じたので、これを青塚と名づけたという。この青塚が王昭君を葬った墳丘として伝説化されたのは、相当古くからのことらしく、唐代の語りものとして、かつて敦煌から出土した「明妃伝」にも
墳高数尺号青塚、還道軍人為立名。
(墳の高さ数尺 青塚を号し、道に軍人を還す為めに名を立つ。)
只今葬在黄河北、西南望見受降城。
(只今 葬黄河の北に在り、西南 降城を受けらるるを望む。)
とみえる点からも、うかがわれるであろう。
ただし、これによると、唐代ごろの青塚は、いまのような巨大なものでなく数尺の高さにすぎなかったようである。ちなみに、この青塚が王昭君の墳丘であるという確証はない。
呼韓邪単干一世は兄の郡支単子との抗争に敗れて、一たびは南方に走って、長城地帯の五原に仮りの拠点を設けたものの、やがて漢軍の後援をえて郡支単千を西走させて、漠北のもとの本営(ノインーウラ付近)に帰っている。王昭君が降嫁したのは、漠北の本営であるから、青塚をかの女の墳丘に比定することは、地理からもつじつまが合わない。やはり一箇の説話とみるべきであろう。
Ⅳ 政略婚《§-2匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像2.王昭君悲話の大衆化と背景
(Ⅳ 政略婚) 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三) 王昭君の虚像2. 王昭君悲話の大衆化と背景 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10707
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
2. 王昭君悲話の大衆化と背景
以上『西京雑記』や『王明君辞』などを通じてみると、三国・晋代ごろの人びとは、王昭君を毛延寿ら宮廷画工の黄金に目のない欲心のために、漢家の犠牲となって匈奴へ嫁ぎ、また勅命のままに義子への再婚を強いられて、数奇な運命のもとに、異境でかりそめの生を終えた悲劇の女性として、いたく同情の涙をそそいだように思われる。
そして両晋から南朝の宋・斉をへて梁朝の天監年中 (五〇二〜五二〇) には、王昭君悲話を主題とする作曲が、つぎつぎに出て楽府に採り入れられている。
たとえば、前掲の 『楽府詩集』 (『四部叢刊』所収) 第五九「琴曲歌辞」には、王昭君の心情を唱った「昭君怨」と題した四言二十四句より成る歌辞をのせるが、これには王昭君が遠く匈奴の王庭にあって、かつての漢延での後宮生活を追懐しつつ、わが身の悲運を嘆いた心情
が描かれている。
盛んに茂った秋の樹も、葉はしぼみ黄ばみはじめる、
一羽の鳥が (王昭君みずからにたとえる) 山に居て、桑の根に巣をつくる、
羽と毛をはぐくみ、輝くばかりの答に育つ、
やがて雲にのぼる力をえて、天上の殿舎にあそぶ、
その離宮はあまりに広く、このからだは疲れはて、
心は暗くふさぎこみ、鳴けもせねば飛べもせず、
すえ膳はあたえられても、心はいつもうつろである、
私ひとりだけがどうして、異なる運命をうけ、
つばめのように飛んで、はるかえびすの地へ行くのか。
高い山はそびえ立ち、河の水はひろびろと流れゆく。
父上よ 母上よ、道のりはあまりにもはるかに。
ああ! かなしいかな、ふさぐ心は痛み傷つく。
《昭君怨》 訳注解説
昭君怨 王昭君
秋木萋萋,其葉萎黄。有鳥處山,集于苞桑。
養育毛羽,形容生光。既得升雲,上遊曲房。
離宮絶曠,身體摧藏。志念抑沈,不得頡頏。
雖得委食,心有徊徨。我獨伊何,來往變常。
翩翩之燕,遠集西羌。高山峨峨,河水泱泱。
父兮母兮,道里悠長。嗚呼哀哉,憂心惻傷。
(昭君怨)
秋木 萋萋(せいせい)として,其の葉 萎黄(ゐくゎう)す。
鳥 有り 山に處(を)り,苞桑(はうさう)に 集(むらが)る。
毛羽を 養育し,形容 光を生ず。
既に 雲に升(のぼ)るを 得て,上つかた 曲房に 遊ぶ。
離宮 絶(はなは)だ 曠(ひろ)くして,身體 摧藏(さいざう)す。
志念 抑沈して,頡頏(けつかう)するを 得ず。
委食を 得(う)と 雖(いへど)も,心に 徊徨(くゎいくゎう)する 有り。
我 獨(ひと)り 伊(こ)れ 何ぞ,來往 常を 變ず。
翩翩(へんぺん)たる 燕,遠く 西羌(せいきゃう)に 集(いた)る。
高山 峨峨(がが)たり,河水 泱泱(あうあう)たり。
父や 母や,道里 悠長なり。
嗚呼(ああ) 哀(かな)しい哉,憂心 惻傷(そくしゃう)す。
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生
Ⅳ 政略婚《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(三)王昭君の虚像1.王昭君悲話の誕生 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10700
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君 (一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(三) 主昭君の虚像
1. 王昭君悲話の誕生
王昭君に関する悲話があらわれはじめるのは、晋の石崇三四九⊥二〇〇) の 『王明君辞』や同じく葛洪 (二八三l二六三) の 『西京雑記』などからではないかと思う。だから王昭君に関する両漢書の記載を実像とすれば、これらは王昭君の虚像といってもよいであろう。
もともと説話や戯曲は、明人の謝肇制も『五艦哲の中で「小説や戯曲は、虚実相半ばするようにすべきだ」などといい、またわが近松門左衛門も「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの」とかいうように、虚・実おりまぜて、作品化されるものだと考えねばなるまい。
さて、石崇と葛洪とは晋人とはいっても、石崇は西晋時代の人であり、葛洪は石崇より三〇年あまり後輩で、西晋に生まれはしたものの、壮年期は晋室が五胡族をはじめ多種の異民族の華北への乱入をさけて江南へ落ちてゆき、社会の上でも政治の上でも、もっとも変転・変容の激しい時代にあたっている。
いま石崇の『王明君辞』をみると、これはつぎに引用するように、琵琶曲として作曲された五言詩で、多分に戯曲的である。この楽詞は『文選』巻二七「楽府」の条とか、あるいは采の 用郭茂情の編した『楽府詩集』第二九などに収められており、題名の王明君とは、晋の文帝司馬
昭の諒の昭をさけて、王昭君の昭を明と改めたものである。この
後段の二段から成っている。前段にあたる部分は、
千に嫁いだところまでを唱う。
我本漢家子,將適單于庭。 辭決未及終,前驅已抗旌。 僕御涕流離,轅馬悲且鳴。 哀鬱傷五內,泣淚沾朱纓。 行行日已遠,遂造匈奴城。 延我於穹廬,加我閼氏名。 殊類非所安,雖貴非所榮。 |
われはもと漢朝の生まれ、いまや匈奴の王庭に嫁ごうとしている。 いとまごいも終わらないのに、はや前駆の供のものは施旗をかかげる。 下僕や御者たちは別離の湖を流し、わが乗る馬車の馬も悲しみ鳴く。 あふれる涙は、冠の朱ひもを霹らす。 出発して日をかさね遠ざかり行くほどに、ついに匈奴の王庭へついた。 単于延の帳幕に招じ入れられ、(寧胡) 関氏の名を賜った。 しかし異族の中では心安んじるはずもなく、高貴の身分を与えられても栄誉とも思えない。 |
ここまでは、かの女が呼韓邪単千に嫁したのち、寧胡開氏の名を賜って厚遇されたことを唱っ
たものである。そしてまた後段には、呼韓邪単于の死後における、かの女の心情をつぎのように、に唱う。
父子見陵辱,對之慚且驚。 殺身良不易,默默以苟生。 苟生亦何聊,積思常憤盈。 願假飛鴻翼,棄之以遐徵。 飛鴻不我顧,佇立以屏營。 昔爲匣中玉,今爲糞上英。 朝華不足歡,甘與秋草並。 傳語後世人,遠嫁難爲情。 |
父と義子とにわが身を辱しめられ(義子と再婚したことをいう)、これを慙じ且つあきれる。 しかし身を殺すことは良に容易でないので、黙黙として苛の生をつづけるが かりそめの生に、どうして心は安んじようぞ。積る思いに常に憤りはあふれる。 願わくば空飛ぶ鴻の巽をかりて、はるかのかなたへ飛んでかえりたいものよ。 だのに飛ぶ鴻は、わが身のことなど顧みてはくれない。ひとり佇んで不安にとぎされる。 かつては匣の中の玉のように過されたのに、いまは土の上の花びらのよう。 朝咲く華の身は歓ばれもせず、秋草とともに枯れゆくままに甘んじよう。 後の世の人びとに語り伝えてほしい、遠く異境に嫁いだものの心情は堪えがたいことを。 |
この詩をよむと、心ならずも義子の新単子に再嫁したかの女のやるせなさと、それゆえに、いや増す故土への思慕の情と、異境に空しく枯れゆくわが身の嘆きとが、こもごも唱いこまれていて、人びとの涙をそそらずにはおかないものがある。
つぎに、石崇にややおくれた葛浜の 『西京雑記』第二には、王昭君について、つぎのような説話が収められている。
元帝の後宮には宮女が多くて、帝はその一人びとりを召見することができないので、画工にかの女らの容貌や形姿を描かせ、その画像をみて召幸していた。そこで官女たちは、じぶんを少しでも美しく描いてもらうよう、みな画工に五万-十万と賄賂をおくった。ひとり牆(字は昭君)だけは、賄賂をおくることをしなかったので、〔醜婦に描かれて〕帝に見えることができなかった。
そのうちに匈奴 〔王〕が入朝し、美女を求めて閼氏(早手の妃) にしたいと請うたので、帝は宮女たちの画像をみて 〔醜い〕 王昭君に白羽の矢を立てた。ところが帝がいざ昭君を召見してみると、その美貌は後宮第一等であり、対応や挙止も雅やかであったため、帝は〔かの女を旬奴に送ることを〕 ひどく後悔したが、すでに後宮の名簿から、かの女の名は抜かれており、かつ外国〔句奴〕 への信義を重んじて、変更することをしなかった。
そこで事の次第を究明させたところ、画工たちが〔賄賂を受けて〕真実の肖像を描かなかったことが判明したので、毛延寿らの画工をみな死刑〔棄死〕に処し、またその巨万の家財も没収した。
さきにいった前・後両漢書にみえる王昭君の匈奴降嫁のいきさつでは、王昭君がはたして『後漢書』にいうような、元帝の後宮を傾けるほどの美貌の持ち主であったとすれば、かの女はなぜ数年間も、元帝の目にとまらなかったのか、という疑いも、この『西京雑記』によれば、どうやら、つじっまが合うようである。しかし『後漢書』では、王昭君みずからが勾奴降嫁を志願したとあるのに対し、『西京雑記』では、王昭君は黄金に目のない宮廷画工たちの欲心の犠牲になって、その容貌を醜く描かれたため和蕃公主に選ばれ、心ならずも匈奴に降嫁させられたようにいう。それはひどくかの女に同情的であるが、おそらく葛洪が、当時の人びとの語り
伝えを、筆にしたためであろう。