詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微
Ⅳ 政略婚 《§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君》(二)王昭君の実像2.匈奴の衰微 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10686
中国史・女性論
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
(一)はじめに「悲劇のヒロイン」王昭君 (二) 王昭君の実像 1. 王昭君の降嫁 2. 匈奴の衰微 3. 匈奴の分裂と漢朝への帰順 (三) 王昭君の虚像 1. 王昭君悲話の誕生 2. 王昭君悲話の大衆化と背景 3. 〝青塚″伝説 |
Ⅳ-§-2 匈奴王に嫁いだ王昭君
〔二〕王昭君の実像
2. 匈奴の衰微
§-1.「烏孫王に嫁いだ細君」の条に説明したように、漢朝に対する匈奴の優位が傾きはじめたのは、漢朝第七代武帝の徹底的な匈奴経略からであった。大将軍衛青および驃騎将軍霍去病らによる、いくたびかの匈奴遠征によって、第五代目匈奴王の伊稚斜単于(前126一114)は、ついにオルドス東北(内蒙古自治区呼和浩特市付近)から、その本拠を、遠く沙漠のかなた北モンゴリアのノイン・ウラ付近(今のモンゴル人民共和国の首都ウラン・バートル市の西北)に移すことになった。
北モンゴリアに移ったのちの約六〇年間、匈奴の国内は、不幸にもたびかさなる大風雪にみまわれ、また、それにともなう飢饉にもおそわれて、人畜の被害ははかり知れず、家畜の保有数は、最盛時に比べ数十分の一に減じたといわれる。その上に、単于の多くは短命であって、六〇年間に八人もの単于が交迭した。当然のこととして単于の生母や外戚が権勢を握って、支配者層の権力争いがたえなかった。こうして、漠北に移ったのちの匈奴王国は、しだいに国力を消耗し、北アジア遊牧部族に対してはもちろん、西域の都市国家群に対しても・支配力を弱めてしまった。そのため漢軍の攻撃にも力いっぱいの反撃を試みはするものの、そのたびに敗北をかさねた。
一方漢軍も、匈奴が北モンゴリアに移ってからは、戦線が遠くなり、以前のような戦果をあげることができなくなった。たとえば、前九九年には、常勝将軍の名をほしいままにしてきた李陵が敗北して匈奴に降ったり、あるいは前九〇年には、名将李広利が西北遠くクリヤスタイ(新彊ウイグル自治区)付近まで軍を進めながら大敗して全滅し、これまた匈奴軍に投降するなど、あるいはまた蘇武が匈奴に使して、バイカル湖畔に幽囚されたと伝えられるのも、この前後のことである。
ただ匈奴は、こうして国力が衰頼して守勢に立ったとはいっても、河西地方(甘粛省西部地区)の奪回と、西域諸国とをその勢力下におくためには総力をあげている。匈奴にとって、西域諸国からの収奪と、それらの諸国を連ねるシルクロードを通じる東西貿易上の利得や、あるいは隊商たちから徴収する通関税などは、遊牧国家の経済を維持する主要な財源であったから、匈奴王国が漠北に封じこめられ、またその国内が天災におそわれれば、おそわれるほど、かれらは、いよいよ西域諸国の支配と東西交通路の保持とには、死力をつくさざるをえなかった。武帝以後西域の都市国家群の支配をめぐって、匈奴と漢朝とが激しい抗争をつづけたのは、このような事情による。