詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》4. 匈奴遊牧王国の出現
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(Ⅳ 政略婚) 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》4. 匈奴遊牧王国の出現 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10616
中国史・女性論
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
1. 和蕃公主
2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君
3. 建国の英雄冒頓単于
4. 匈奴遊牧王国の出現
5. 漢の高祖と冒頓単于
6. その後の漢帝国と勾奴との関係
7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
8. 烏孫族と月氏族
9. 対匈奴攻守同盟策
10. 望郷の歌―黄鵠の歌
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
Ⅳ-§-1-4. 匈奴遊牧王国の出現
さて、冒頓が自立すると、かれはすぐれた智謀と奇策をもって東胡族をほろぼし、また西の月氏族をも奔らせている。これについても『史記』は、つぎのような逸話を伝える。
東隣の東胡王は、冒頓が父を殺して自立したと聞くと、すぐに傍をつかわして、頭蔓の所有していた千里を走る名馬を要求してきた。そこで、かれは群臣にはかったところ、みな千里の馬は、旬奴の宝馬であるから与えてはなりませんと答えた。冒頓はこれに対して、隣国同士の間で、馬一匹ぐらいどうして惜しもうぞ、といって要求どおりの名馬を与えた。
東胡王は、冒頓がかれの威力におそれたものとうぬぼれ、しばらくすると、また優を派して冒頓の一夫人を要求してきた。そこで、また冒頓はこれを部下たちにはかったところ、かれらはみな東胡王の無礼を怒り、これを撃たんと願ったが、かれは、
「このたびも隣国同士だのに、どうして女子一人くらい惜しもうぞ」
とて寵愛する夫人を与えてしまった。
そこで、東胡王はいよいよ騎憎になり、冒頓をないがしろにしはじめ、ついに両国の中間にある無人の荒地千余里の割譲を要求してきたので、これについても群臣にはかったところ、かれらは、いずれも無用無人の土地であるといって割譲することに賛成した。ところが、冒頓はこれを聞いて大いに怒り、
「土地は国の本である。なんでこれを与えることができようぞ、割譲に賛成するものはみな斬らん、」
といって、ただちに国中に令して兵をととのえ、不意に乗じて東胡王を急襲し、これをほろぼして、その都民や家畜を獲てかえった。
この説話は、要するに、当時なお旬奴部よりも優勢であった東胡族を、奇策をもって撃滅したという、冒頓の智謀にすぐれていたことを語るものである。
さて東胡族を打倒した冒頓は、つぎには、ほこさきを転じて、西方の月氏族を奔らせ、東と酉の強敵をうって、北アジア世界の覇権をにざることになった。またそのころ、あたかも中国では、楚 (項羽) と漢(劉邦:漢高祖)との抗争のさなかであったので、かれはこれに乗じてオルドスに侵入し、白羊・楼煩の二王が占拠する地を併せ、さきに父頭蔓のとき秦軍にうばわれた故地を回復している。冒頓は、のちさらに北方の幣赦・彫姉・霊歌・一郎駁・覿勢など、モンゴリアのオルコン河畔からシベリアのエニセイ河上流域一帯に遊牧するトルコ系の諸部族をも服属して、ここにはじめて北アジア世界に、匈奴部族を盟主とする大遊牧王国を建設することになった。
とくにエニセイ河上流域を占めていたとおもわれる丁零・商昆諸部族を征服したことは、この地方にさかえていたシベリア・スキタイ系金属青銅器文化 - スキート・サイベリアン文物- が、直接旬奴王国内にとりいれられるようになり、本拠地の縁遠 (呼和浩特市)・オルドス地方を中心に金属二青銅器文物、なかでも銅斧・鋼鉄・短剣・小刀子・考機・甲宵などの小形武器類から馬面・くつわ・馬鐸・馬鈴・絞具・飾り板・草金具などの馬具類の製作がさかんになって、匈奴王国の戦力増強に大きな寄与をすることになった。
こうして冒頓単千を君長とする旬奴遊牧王国の出現によって、北アジアにはじめて歴史的世界が成立することになった。匈奴王国は、それ以前のような北アジアにおける分散的な遊牧部族ではなく、早手を権力の頂点とする政治的統一体であった。『史記』が旬奴王国の成立について冒頓にいたって、旬奴はもっとも強大になり、ことごとく諸部族を服し、南は中国と敵国となる。といっているのも、冒頓の出現によって、漢帝国に対立する政治的統一体としての匈奴王国が、北アジア世界に成立したことを、司馬遷が歴史的現実として重視していたものと考、えられる。このように『史記』が、旬奴王国を自国に対立する統一的な政治世界として確認するようになったのは、つぎに述べるように、漠の高祖が冒頓に屈辱的な和議を強いられて以来のことである。