詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
|
||||
2017年5月26日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
|||
10年のBLOGの集大成 |
|
|||
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
||||
Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-022 寓言三首(卷二四(二)一三九一) 其一(頁一三九一)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8765 |
||
Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-94 先生-巻八-01#13城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8778 |
|||
Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#3 寄韓諫議#3 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8791 |
||
Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (202)回目張泌 《巻四29 浣渓沙十首 其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8780 (05/26) |
||
fc2 |
Blog |
|||
Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二18 詠懷詩二首 其一二妃遊江濱 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8781 |
||
Ⅵ唐代女性論ブログ |
||||
唐代女性論 |
||||
六-1、平民労働階級の女性一農家の女性
労働する平民の女性は唐代の女性たちの最も主要な構成部分であり、直接生産労働に参加し富を生みだす主要な源泉でもあった。
一 農家の女性
「男耕女織」、これは中国古代の標準的な農家の生活風景である。唐代の農民は官府に租税を納める外に、なお調として絹、綾、布、綿などを納めねばならず、これらの任務はみな女性たちが担わされていた。少数の豪紳地主の家の女性を除いて、大多数の農家の女性は、その生涯のすべてを養蚕や紡織の仕事に投じた。社会全体の「衣と食」という二つの大仕事は、彼女たちがその半分を担ったのであるが、それと同時に彼女たちは精美な織物を大量に作って古代文明に貢献したのである。 「夫は田中の郎、妾は田中の女。当年君に嫁し得て、君の為に機抒を秉る。筋力は日に已に疲るるも、窓下の機を息めず。如何せん統素を織るに、自らは藍攘の衣を著くるを」(孟郊「織婦辞」)。
これが一般の農家の女性たちの労働と生活の状況であった。
春が来るとすぐに彼女たちは桑の葉を摘み、蚕を飼うことに明け暮れるようになる。「暁夕桑を採んで苫辛多く、好花の時節も不閑身」(来鵠「蚕婦」)。
「桑林棋黒く蚕は再び眠り、婦姑は桑を採んで田に向かわず」(張籍「江村行」)。彼女たちは天の神様に御加護を祈る、どうか繭がたくさん取れますようにと。「但だ青天を得て雨下らず、上に蒼蝿無く下に鼠無からんことを。新婦は族を拝して繭の桐なるを願い……。三日箔を開けば雪く団団、先ず新たな繭を将て県官に送る。已に聞く郷里にては織作を催すと、去きて誰人の身上に著けられん」(王建「族蚕辞」)。
女たちは養蚕の収穫が悪いと悲しんで涙を流す。「春風は蚕を吹き細きこと蟻の如く、桑の芽は後く青鴉の嘴を努す。侵晨に探り采るは誰が家の女、手に長き条を挽きつつ涙は雨の如し。……愁い聴く門外に里骨の催すを、官家は二月に新しき糸を収む」(唐彦謙「桑を採る女」)。
桑摘みと養蚕で多忙を極めているのに、官府は納税を迫るので、女たちは夜を日に継いで乎足を休めず機を織らねばならない。「妾が家は豪門に非ざるに、官賦は日に相い追う。枝を鳴らして夜より暁に達するも、猶お時に及ばざらんことを恐る」(司馬札「蚕女」)。「
貧家の女は富家の為に織り、……水は寒く手は渋み糸は脆くも断つ、続来続去 心腸は爛る。草虫は促促と機の下にて啼き、両日 催して一匹半を成す。宮に輸むれば上頭に零落有りと、姑は未だ衣を得ず 身も著けざるに」(王建「当窓の織」)。
蚕桑、紡織の他に、さらに彼女たちは山菜や野の果実を採ったり、薪を集めたり、米を拠いたりする重労働にも従事した。夜が更けても、村の女はまだ仕事を続けている。「田家 秋作に苦しみ、鄭女 夜 春くに寒し」(李白「五松山下の菊姐の家に宿す」)。
白髪の老婆は、朝早くから夜遅くまで橡の実を拾って家人の食糧にする。「裂仮った黄髪の姐 之(橡の実)を拾って晨霜を踏む。時を移して(しばらくして)始めて掬に盈ち、日を尽して方て筒に満てり。幾びか曝し復た幾びか蒸し、用て三冬糧(冬三ヵ月の食糧)と作す」(皮日休「橡姐の嘆」)。
租税を納めると生活できない貧家の女たちは、ただ麦の落穂を拾って飢えをしのぐしかなかった。「復た貧しき婦人有り、子を抱きて其の傍らに在り。
右の手にて遺ちた穂を秉り、左の背には斂れたる箆を懸く……。家も田も税を輸めて尽き、此を拾いて飢えたる腸を充たす」(白居易「麦を刈るを観る」)。
また、ある貧苦の農婦は日傭いに出ねばならなかった。「貧窮せる田舎の漢、……妻は即ち春稿に客わる」「黄昏 家裏に到れば、米無く復た柴無し」(楊公礦『唐代民歌考釈及変文考諭』第八篇、吉林人民出版社、一九六二年)。山村の女の多くは柴を欲り、それを売って生活した。彼女たちは、「乱蓬を誓となし布を巾と為し、暁に寒山を踏んで自ら薪を負う」(白居易「薪を売る女に代って諸妓に贈る」)。
大部分の女はすでに四、五十歳、頭髪は半ば白くなっているが、なお「十に猶お八九は薪を負うて帰り、薪を売り銭を得て供給に当つ」。彼女たちの生活はきわめて辛いものであり、心は悲しみと苦しみに満ちていた。「面を汝い首を飾るも啼の痰を雑じえ、地は福く衣は寒く石根に苦しむ」(杜甫「負薪行」)。
苛酷な労働、困難な生活は、彼女たちの青春の血と汗を消耗し尽くし、衣服はぼろぼろ、顔はやつれはてた。「粉色は全く無く飢色加わる、壹に人世に栄華有るを知らんや。年年 我に道う 蚕は辛苦なりと、底事ぞ 渾身に苧麻を着くるは」(杜萄鶴「蚕婦」)。
猛暑と風霜の苦しみをいやというほど味わったので、披女たちの顔は黒く髪は赤茶けた。一年中あくせく働いたので、化粧を顧みることもできなかった。詩人によって描写された、ある里帰りの農婦の姿は次のように粗末なものであった。「二升の酸酷をば瓦瓶に盛り、姑姉に請い得たり十日の程。赤黒く眉を両き水に臨んで(水に顔を映して)笑い、草鞄もて脚を苑み風を逐って行く。黄ばめる糸のごとき髪は乱れて槐僚は緊く、青き柁の裾は高く種掠は軽し」(種掠は意味不詳。張結「戯れに村婦に贈る」)。
彼女たちは決して生れつき粗野で醜かったわけではない。ほかならぬ辛く苦労多い生活が早々と彼女たちの青春の輝きを奪い去ったのである。
北方農村の女性に比べると、詩人たちによって描写された江南の女性の労働と生活は、それほど苦労に満ちて重苦しいものではなく、比較的軽やかで活発なものだったように見える。彼女たちの日常の仕事には蓮や菱の実取り、洗濯、機織り、船漕ぎ、牛飼いなどがあった。
「秋江の岸辺 蓮子多く、蓮を採る女見は船に凭りて歌う。青き房 円き実 斉敢栽と、前を争い競って折れば微波を崖らす。試みに緑茎を牽きて下に稿を尋ぬれば、断たれし処 糸多く刺して乎を傷む。白き練もて腰を束ね袖は半ば巻き、玉の鉄を挿さず 汝槐は浅し」(張籍「採蓮曲」)11これは蓮を採る女。
「白馬湖は平らかにして秋日光き、紫菱は錦の如く採鴛翔ける。舟を蕩らす遊女は中央に満ち、菱を採りて馬上の郎を顧みず。多きを争い勝を逐って紛として相い向い、時に蘭の桃を転じて軽浪を破る」(劉瓜錫「採菱行」)-これは菱を採る女。
「玉面の耶渓の女、青蛾 紅粉にて汝う。一双の金歯の殷、両足 白きこと霜の如し」(李白「涜紗石上女」)-これは裸足で紗を洗う女。
* 耶渓は会稽郡にある若耶渓のこと、昔美人の西施が紗を洗ったところという。
「江南の人家 橘樹多く、呉姫は舟の上にて白き苧を織る」(張籍「江南曲」)-これは苧を織る女。
「金釧(金の腕輪) 越渓の女、羅衣 胡粉の香。練を織りて春は幔を巻き、蕨を采りて 瞑に箇を提ぐ」(徐延寿「南州行」)-これは緯を織り蕨を採る女。
「擢女(女船頭)は銀の鈎を飾り、新たに敗して翠楼を下る。……舷を相きて曲浦を過ぎ、帆
を飛して回流を越ゆ」(徐堅「擢歌行」)-これは船を漕ぐ女。
「巴(四川省巴瀧)の女は牛に騎りて竹枝(竹枝詞。楽府)を唱う。扁糸・菱葉 江に傍う時」宇鵠「巴女謡」)-これは巴で牛を飼う女。
「山上 層層 桃李の花、雲間の煙火 是れ人家。銀釧(銀の腕輪)金奴(金の管)のひと 来りて水を負い、長刀短笠のひと 去きて舎を焼く(焼畑をする)」(劉偏錫「竹枝詞」)-これは、水汲みと焼畑をする蜀の女。
こうした労働と生活の風景は、南方の女性たちがあたかも牧歌的な田園生活を送っていたかのように思わせるが、実際は披女たちの生活も詩人が描くような詩情に富むものでは決してなかった。彼女たちにも、北方の姉妹たちと同じように様々な苦痛と困難があった。ただ江南はわりに豊かであり、またこれまで戦乱も一貫して比較的少なかったので、彼女たちが受ける災難はやや少なかっただけのことである。それよりも重要なことは、詩人たちが江南の明るく美しい景色に陶酔して、女性の労働をロマンチ″クに飾り立てて詠んだので、彼女たちの苦労があまり反映されずに終ったことである。
以上述べてきたのは、だいたいが太平の時期における農家の女性たちの生活であり、もし戦乱や災難に遭えば、彼女たちの生活はさらに困難を加え、塗炭の苦しみの中に転落したのであった。男たちは戦争に行き、田畑の仕事のような厳しい農業労働はすべて女の身にふりかかった。貧乏で農具さえ無いような女性たちも、次の詩のようにやむなく野良に出ざるを得なかったのである。
(女の田を耕す行) 戴叔倫
乳燕は巣に入り筒は竹と成り、誰が家の二女(二人の女) 新穀を種う。
人無く牛無く 型・くに及ばず、刀を持し地を析り 翻して泥と作す。
自ら言う 家貧しく母は年老い、長兄は従軍して 未だ嫂を娶らず。
去年の災疫にて 牛囮は空しく、絹を截ち刀を買う 都巾の中。
頭巾もて面を掩い 人に識らるるを畏れ、刀を以て牛に代え 誰と与に同にせん。
姉妹 相い携えて 心は正に苦しく、路ゆく人を見ず 惟だ土を見る。
しかしながら、女性たちの力には限りがある。「縦え健婦の鋤梨を把るも、禾は随畝に生じて東西無し(無秩序である)」(杜甫「兵車行」)というように。好い収穫を得るのはきわめて難しかった。さらに彼女たちは重い挨役を負担しなければならなかった。「婦人は重き役に困しみ、男子は軍に従って行く」、「婦人は州県に役かされ、丁男は征討を事とす」(『唐代民歌考釈及変文考論』第一篇、儲光磯「効古」)。杜甫はある夜、石壕(河南省院県の石壕鎮)という村の農家に泊ったところ、役人が人を捕えて労役に充てるのに出くわした。その家の男はすべて兵隊にとられており、やむなく老婆は自分で労役に服しに行くしかない。「老瘍力衰うと雖も、吏に従って夜帰かんことを請う。急ぎ河陽の役に応ぜば、猶お晨炊に備うるを得んと」(杜甫「石壕の吏」)。官吏は果してこの老婆を連れて行った。戦乱はじつに多くの孤独で寄る辺なき寡婦を生みだしたのであるが、官府はこうした女性たちからも税の徴収を緩めなかった。やむなく彼女たちはさまざまなエ面をして税を納めねばならなかった。
「石間で蕨を采る女、菜を聳ぎて官曹を輸む。丈夫は百役に死し、暮に返り空村に号く」(杜甫「遺遇」)。
* 河陽は河南省孟県に在る。七六〇年、ここで唐将李光弼が史思明の反乱軍を破った。
また次の詩のように、やむなく深山に逃げて野人のように暮らす人もいた。
「夫は兵に因って死し蓬茅を守る、麻苧の衣杉 贅髪焦がる。桑柘 廃し来たるも猶お税を納め、田園荒れて後 尚お苗を微す。時に野菜を挑りて根と和に煮、旋た生柴を析りて葉を帯び て焼く。任い是れ深山 更に深き処なるも、也た応に征婆を避くる計無かるべし」(杜荀鶴「山中 寡婦」)この詩は、戦乱の中の農家の女性たちの悲惨な境