詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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八、2.81 薛濤 《贈段校書 》
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2017年11月7日 |
の紀頌之"6"つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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八、2.81 薛濤 《贈段校書 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9438
(段校書さまにこの詩を贈る。)
大史公(司馬遷:「史記」の著者)は、趙の平原君(趙勝)のことを「翩翩たる佳公子」といいましたし、また魏の文帝は、呉質に與えた手紙に、阮瑀のことを「元喩書記は翩翩として、致、楽しむに足るなり」といっていまが、校書さまのことをたとえたものでございましょう。そして、玉弓をわきばさみ、金のくつわをつけた馬にまたがられ、紫の薄絹のすそをひらひらさせておいでになるお姿は、まことに風流そのものでございます。
それに、「文采風流」といえは、漢の宰相になった韋玄成のことが、有名ですが、しかしその玄成も、校書さまに比べたら、いたずらに昔語りとして有名なだけで、とても及びませんでしょう。
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薛濤詩 |
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79. 上王尚書
碧玉雙幢白玉郎,初辭天帝下扶桑。
手持云篆題新榜,十萬人家春日長。
80. 段相國游武擔寺病不能從題寄
消瘦翻堪見令公,落花無那恨東風。
儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。
81. 贈段校書
公子翩翩說校書,玉弓金勒紫綃裾。
玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。
82. 題武擔寺西臺
秋天如鏡空,樓閣盡玲瓏。
水暗餘霞外,山明落照中。
鳥行看漸遠,松韻聽難窮。
今日登臨意,多歡語笑同。
83. 和段相公登武擔寺西臺
開閣錦城中,餘閑訪梵宮。
九層連晝景,萬象寫秋空。
天半將身到,江長與海通。
提攜出塵土,曾是穆清風。
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薛濤 81 《贈段校書》 |
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訳注解説 |
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漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9438 |
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贈段校書
(段校書さまにこの詩を贈る。)
公子翩翩說校書,玉弓金勒紫綃裾。
大史公(司馬遷:「史記」の著者)は、趙の平原君(趙勝)のことを「翩翩たる佳公子」といいましたし、また魏の文帝は、呉質に與えた手紙に、阮瑀のことを「元喩書記は翩翩として、致、楽しむに足るなり」といっていまが、校書さまのことをたとえたものでございましょう。そして、玉弓をわきばさみ、金のくつわをつけた馬にまたがられ、紫の薄絹のすそをひらひらさせておいでになるお姿は、まことに風流そのものでございます。
玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。
それに、「文采風流」といえは、漢の宰相になった韋玄成のことが、有名ですが、しかしその玄成も、校書さまに比べたら、いたずらに昔語りとして有名なだけで、とても及びませんでしょう。
段文昌(だん ぶんしょう、772年 - 835年)は、中国・唐代の宰相である。子に『酉陽雑俎』の撰者である段成式がいる。
段文昌(772年-835年),字墨卿,一字景初,唐朝鄒平(今屬山東濱州)人。生於荊州江陵(今湖北荊州市)。唐代政治人物,曾拜宰相,後除節度使,歷轉各軍。卒赠太尉。子段成式,為太常少卿。
段校書は、後に二度も剣南西川節度使として、成郡に赴任し「新唐書」によれは、に景初のあざな段文昌といい、もあり、剰州の生まれ。さっぱりした人物で、が嫌いで、刑南節度使の襲胃に愛されたが、やがて成都に出て彼はあざなを墨卿といい、別義侠な男、こせこせとしたこと、ここでもまた節度使の尊卑に醇清が死んだとき、彼女のために墓誌を書いてやった段文昌であろう。めに墓誌を書いた。
かわいがられ、葦皐は彼を中央政府に願って校苦邸とした。そして偶宗の永貞元年に、葦皐が覇で死に、語荒め元卸二年に、李書簡が宰相となると、彼は抜擢されて登封(河南省にある)の尉になった。したがってこの作は、その前のことであるから、彼女の三十五歳から四十歳までの問のことであろう。段は彼女よりおそらく若干年下であった
『贈段校書』 現代語訳と訳註
(本文)
贈段校書
公子翩翩說校書,玉弓金勒紫綃裾。
玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。
(下し文)
(段校書に贈る)
公子は翩翩たりと校書を說【たと】う,玉弓金勒して 紫綃裾【ししょうきょ】なり。
玄成は便ち 名譽に驕ること莫れ,文采は風流にして 定めて知らざらん。
(現代語訳)
(段校書さまにこの詩を贈る。)
大史公(司馬遷:「史記」の著者)は、趙の平原君(趙勝)のことを「翩翩たる佳公子」といいましたし、また魏の文帝は、呉質に與えた手紙に、阮瑀のことを「元喩書記は翩翩として、致、楽しむに足るなり」といっていまが、校書さまのことをたとえたものでございましょう。そして、玉弓をわきばさみ、金のくつわをつけた馬にまたがられ、紫の薄絹のすそをひらひらさせておいでになるお姿は、まことに風流そのものでございます。
それに、「文采風流」といえは、漢の宰相になった韋玄成のことが、有名ですが、しかしその玄成も、校書さまに比べたら、いたずらに昔語りとして有名なだけで、とても及びませんでしょう。
(訳注)
81・ 贈段校書
1. (段校書さまにこの詩を贈る。)
2. ・段校書 校書は校書郎の官名。段は段文昌。
公子翩翩說校書,玉弓金勒紫綃裾。
大史公(司馬遷:「史記」の著者)は、趙の平原君(趙勝)のことを「翩翩たる佳公子」といいましたし、また魏の文帝は、呉質に與えた手紙に、阮瑀のことを「元喩書記は翩翩として、致、楽しむに足るなり」といっていまが、校書さまのことをたとえたものでございましょう。そして、玉弓をわきばさみ、金のくつわをつけた馬にまたがられ、紫の薄絹のすそをひらひらさせておいでになるお姿は、まことに風流そのものでございます。
3. ・公子翩翩 趙の平原君の趙勝のことを司馬遷はその「史記」の「平原君伝」において、「翩翩たる濁世の佳公子なり」と評している。佳公子とは、よい若殿の意また魏の文帝が、「呉質に与ふる暑」(「文選」におさむ)では、阮瑀のことを「阮瑀書記は翩翩、致、楽むに足るなり」といっている。ともに文釆風流なことをたとえたもので、後者の註には、「翩翩は
美しきかたち、その文雅の致、楽しむに足るをいふなり」とある。
4. ・玉弓 玉で飾った弓。弓の美称。
5. ・金勒 勒はくつわ。上に玉字を使ったので、こちらでは金字を用いたもの。
6. ・紫綃裾 綃はきざぬ、またあやぎぬ。裾は下衣のすそ。
玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。
それに、「文采風流」といえは、漢の宰相になった韋玄成のことが、有名ですが、しかしその玄成も、校書さまに比べたら、いたずらに昔語りとして有名なだけで、とても及びませんでしょう。
7. ・玄成 漢の韋玄成のこと。あざなは少翁。鄒魯の大儒といわれた宰相韋賢の子で、わかくして経書に通じ、元帝の朝に相となった。そこで、鄒魯地方(山東省西部)では、「子供には金をいっぱい遺してやるより、経書を教えておいた方がよい」ということをいった。宰相をつとめること七年、守正持重は父に及ばなかったが、文采風流は、父以上であったという。
8. ・文釆 文章著述の世に伝うるに足るものをいう。司馬遷の「任少卿に報ずる書」に、「鄙陋没世、而して文采、後世に表はれざるなり」 の語がある。
9. ・風流 挙止蕭散にして品格清高をいう。さっぱりして気が利き上品たこと。