詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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八、2.80 薛濤 《段相國游武擔寺病不能從題寄 》
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2017年11月6日 |
の紀頌之"6"つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(段相国さまが武擔寺にお遊びにおいでになったとき、あいにく病気でおともできなかったので、同じ題で、この詩を差しあげます。)
病気のために衰えやせ細ったこの身では、かえって相國さまのお前にまかり出るのは失礼と存じます。散りゆく花は、あと数日なりとも、どうにかならないかと思いますが、花を散らせる春風を恨むよりないのです。
わたくしの心は、「まだまだ若さを持っております」といってはおりますが、年は隠せず飛蓬のように枯れた感じがしております。お供して、石鏡に自分の姿がうつると、はずかしくて、おともできなかったわけでございます。
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薛濤詩 |
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79. 上王尚書
碧玉雙幢白玉郎,初辭天帝下扶桑。
手持云篆題新榜,十萬人家春日長。
80. 段相國游武擔寺病不能從題寄
消瘦翻堪見令公,落花無那恨東風。
儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。
81. 贈段校書
公子翩翩說校書,玉弓金勒紫綃裾。
玄成莫便驕名譽,文采風流定不知。
82. 題武擔寺西臺
秋天如鏡空,樓閣盡玲瓏。
水暗餘霞外,山明落照中。
鳥行看漸遠,松韻聽難窮。
今日登臨意,多歡語笑同。
83. 和段相公登武擔寺西臺
開閣錦城中,餘閑訪梵宮。
九層連晝景,萬象寫秋空。
天半將身到,江長與海通。
提攜出塵土,曾是穆清風。
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薛濤 80 《段相國游武擔寺病不能從題寄》 |
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訳注解説 |
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漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9431 |
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段相國游武擔寺病不能從題寄
(段相国さまが武擔寺にお遊びにおいでになったとき、あいにく病気でおともできなかったので、同じ題で、この詩を差しあげます。)
消瘦翻堪見令公,落花無那恨東風。
病気のために衰えやせ細ったこの身では、かえって相國さまのお前にまかり出るのは失礼と存じます。散りゆく花は、あと数日なりとも、どうにかならないかと思いますが、花を散らせる春風を恨むよりないのです。
儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。
わたくしの心は、「まだまだ若さを持っております」といってはおりますが、年は隠せず飛蓬のように枯れた感じがしております。お供して、石鏡に自分の姿がうつると、はずかしくて、おともできなかったわけでございます。
(段相國 武擔寺に游ぶ、病みて從うに能わず題して寄す)
消瘦【しょうそう】翻【かえ】って令公を見えるに堪【たえ】んや,落花 那【いか】んともする無し東風を恨む。
儂【わ】が心には猶お青春在りと道【い】う,飛蓬【ひほう】を石鏡の中に看るを羞じる。
段文昌(だん ぶんしょう、772年 - 835年)は、中国・唐代の宰相である。子に『酉陽雑俎』の撰者である段成式がいる。
段文昌(772年-835年),字墨卿,一字景初,唐朝鄒平(今屬山東濱州)人。生於荊州江陵(今湖北荊州市)。唐代政治人物,曾拜宰相,後除節度使,歷轉各軍。卒赠太尉。子段成式,為太常少卿。
段校書は、後に二度も剣南西川節度使として、成郡に赴任し「新唐書」によれは、に景初のあざな段文昌といい、もあり、剰州の生まれ。さっぱりした人物で、賄が嫌いで、刑南節度使の襲胃に愛されたが、やがて成都に出て彼はあざなを墨卿といい、別義侠な男、こせこせとしたこと、ここでもまた節度使の尊卑に醇清が死んだとき、彼女のために墓誌を書いてやった段文昌であろう。めに墓誌を書いた。
かわいがられ、韋皐は彼を中央政府に願って校苦邸とした。そして順宗の805年永貞元年に、韋皐が蜀で死に、807年元和二年に、李書簡が宰相となると、彼は抜擢されて登封(河南省にある)の尉になった。したがってこの作は、その前のことであるから、彼女の三十五歳から四十歳までの間のことであろう。段は彼女よりおそらく若干年下であった
『段相國游武擔寺病不能從題寄』 現代語訳と訳註
(本文)
段相國游武擔寺病不能從題寄
消瘦翻堪見令公,落花無那恨東風。
儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。
(下し文)
(段相國 武擔寺に游ぶ、病みて從うに能わず題して寄す)
消瘦【しょうそう】翻【かえ】って令公を見えるに堪【たえ】んや,落花 那【いか】んともする無し東風を恨む。
儂【わ】が心には猶お青春在りと道【い】う,飛蓬【ひほう】を石鏡の中に看るを羞じる。
(現代語訳)
(段相国さまが武擔寺にお遊びにおいでになったとき、あいにく病気でおともできなかったので、同じ題で、この詩を差しあげます。)
病気のために衰えやせ細ったこの身では、かえって相國さまのお前にまかり出るのは失礼と存じます。散りゆく花は、あと数日なりとも、どうにかならないかと思いますが、花を散らせる春風を恨むよりないのです。
わたくしの心は、「まだまだ若さを持っております」といってはおりますが、年は隠せず飛蓬のように枯れた感じがしております。お供して、石鏡に自分の姿がうつると、はずかしくて、おともできなかったわけでございます。
(訳注)
段相國游武擔寺病不能從題寄
1. (段相国さまが武擔寺にお遊びにおいでになったとき、あいにく病気でおともできなかったので、同じ題で、この詩を差しあげます。)
2. ・段相國 剣南西川節度使であった段文昌をさす。相国といったのは、彼が穆宗の朝に、中書侍郎同中書門下平輩事(大臣)から、剣南西川節度使に赴任しきたから。文昌はあざなを墨卿、また景初ともいった。貞元の初めに、校書郎を授けられ、翰林学士をへて、中書舎人となり、穆宗の即位とともに、中書侍郎同中書門下平章事となり、年を踰えずして、出でて剣南西川節度使となった。かくて穆宗の822長慶中と敬宗の826宝暦中、あわせて約五年あまり、成都にいたが、それは薛濤の五十五歳から六十歳までの間にあたる。ついで文宗の御代(827太和)になると、御史大夫に招かれ、淮南節度使となり、荊南節度使となり、ふたたび西川節度使となって、825太和九年、成都で没している。彼が成都に節度使としていたのは、したがって二回であるが、「全唐詩」を見ると、姚向が長慶二年に、西川節度判官となり、同じく「段相公の武擔寺の西台に登るに和す」という詩がのせられているから、この薛濤の詩は最初の赴任時の作と思われる。なお段文昌が、再度赴任してきたのは、李徳柘が節度使から、元卸七年に、召されて相となったのに、入れかわったものと思われるから、薛濤が831太和五年に死んだとすれば、その直後で、段文昌は彼女のために、墓誌碑文を書いたといわれている。
・武擔寺 成都市内の西北偶の武擔山にある寺。楊雄の「蜀本紀」 によれば、武都(甘粛の成県の西)の男が化して女になったのを、覇王が納れて妃にしたが、まもなく死亡したので、武都の土を運んで、成都の城内に積んで、葬った所という。後に三国時代、蜀の劉備がこの武擔山の南で、帝位に即いたという。寺内から錦江の流れがながめられることは、姚康の詩によってもうかがわれる。現在は俗に五担山と称し、山というより小さな岡にすぎず、高さ四六五メートル。昭列帝(劉備)の祠堂が山のそばにあり、ふもとに池がある。
3. ・題寄 詩を書いて贈ること。
瘦翻堪見令公,落花無那恨東風。
病気のために衰えやせ細ったこの身では、かえって相國さまのお前にまかり出るのは失礼と存じます。散りゆく花は、あと数日なりとも、どうにかならないかと思いますが、花を散らせる春風を恨むよりないのです。
4. ・消瘦 肉がおち痩せること。
5. ・令公 ここは節度使の武元衡を指す。
6. ・東風 春風。春は方位でいえは東にあたる。
儂心猶道青春在,羞看飛蓬石鏡中。
わたくしの心は、「まだまだ若さを持っております」といってはおりますが、年は隠せず飛蓬のように枯れた感じがしております。お供して、石鏡に自分の姿がうつると、はずかしくて、おともできなかったわけでございます。
7. ・儂 我におなじ。
8. ・飛蓬 蓬はよもぎ。乱れたよもぎ。みだれ髪にたとえる (病中であるから)。杜甫『奉寄河南葦草丈人』奉寄河南韋尹丈人 杜甫
飛蓬 秋風にとぶよもぎ、髪の乱れたさまをたとえていう。「詩経」伯今の詩に「伯の東せるより、首は飛蓬の如し」とあるのに本づく。
9. ・石鏡・蜀王鏡
武都有一丈夫,化為女子,美而豔,蓋山精也。蜀王納為妃。不習水土,欲去。王必留之,乃為《東平》之歌以樂之。無幾,物故。蜀王哀之。乃遣五丁之武都擔土,為妃作冢,蓋地數畝,高七丈。上有石鏡。今成都北角武擔是也。武都の人で善知という人がいた。蜀王は、その妻を蜀へ引っ越させた。蜀に居住した後、そこの風土に合わず、帰りたがった。蜀王は彼女を愛していたので、留め置いた。《伊鳴声》という六つの舞踊曲を作った。
武都の夫は女となった。美しく山々の精と言われた。蜀王は彼女を娶って妻とした。風土習俗が合わず、病を得て帰りたがった。蜀王はこれを留め置いた。幾ばくもせずに帰らぬ人となった。蜀王は兵士を出して武都の土を持ってこさせ、成都の城内に埋葬した。大よそその地は、180平米*4、高さ7メートル*5、武担と言い、石で一枚の鏡を作ってその墓の表に置いた。鏡の幅は1メートル、高さは120cm程だった。
杜甫『石鏡』
蜀王將此鏡,送死置空山。
冥寞憐香骨,提攜近玉顏。
眾妃無複歡,千騎亦虛還。
獨有傷心石,埋輪月宇間。
蜀王は山々の精と言われた妻を成都の街に埋葬しここに石鏡を作っておいた。その死後時は立って空しい山となっている。
静かで暗いそこには芳しい骨となっているだけで憐れをもよおすのである。その意志の鏡に輝く顔を近づけてみるのである。
たくさん集められたその妃たちは再び歓喜の声を上げることはない。この石鏡のための千騎のの兵士たちも又帰って來ることはないのである。
私は独り此処に傷心の石があるだけであると思う。
孫子の兵法で「馬を並べて車輪を埋め、以て進退を封じて往く所無きにす」という秦が攻めて來るに際して戦略のものも今では月の世界の話となっている。
石鏡 杜甫 <431> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2100 杜甫詩1000-431-614/1500
琴台 杜甫 <432> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2105 杜甫詩1000-432-615/1500
朝雨 杜甫 <433> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2110 杜甫詩1000-433-616/1500