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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10651

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Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10651

Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策

 

 

Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10651

 

 

 

中国史・女性論

 

 

Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)

 

-§-1 烏孫王に嫁いだ細君

1. 和蕃公主

2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君

3. 建国の英雄冒頓単于

4. 匈奴遊牧王国の出現

5. 漢の高祖と冒頓単于

6. その後の漢帝国と匈奴との関係

7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行

8. 烏孫族と月氏族

9. 対匈奴攻守同盟策

10. 望郷の歌―黄鵠の歌

 

 

 

 

-§-1 烏孫王に嫁いだ細君

 

 

§-1-9 対匈奴攻守同盟策

 

月氏族がソグディアナに移牧すると、その故地のイリ地方には烏孫族が移ったが、烏孫遊牧王国は、シルSyr河上流のナリンNaryコ河流域に比定される赤谷城を根拠地に、西方はチユchu河流域からイリ河上流域およびユルドゥスYudusをふくんで、東方はウルムチに接する広大な範囲におよんでいたという。その後、烏孫国はシル河上流のナリン河から大ユルドゥス河谷にわたる天山山中にひろがる草原に遊牧するテエルク部族をたばねる盟主であるとしている。(『古代天山の歴史地理学的研究』)

ちなみに、近年天山山脈中から、烏孫族のものとみられる広大なマウンドをもつ墳墓が発見されたと伝えられるが、いずれにしても烏孫遊牧王国は、当時大匈奴王国と東西に隣接していたようである。さきにいった漢の武帝が、新たに領有することになった甘粛省西部の河西地区を、いかに確保すべきかに心をくだいたのは、まさしくこのころであった。張騫が第一次の旅行中、匈奴に抑留されている間に聞知しえた知識は、匈奴と烏孫との関係がしだいに冷却化しつつあるということであろう。そこで張鴛は、この情報にもとづいて武帝に、烏孫と漢朝との対匈奴攻守同盟策を締結するよう献議したところ納れられて、かれは正使として従者三百人、一万頭に達する牛・羊と数千の金・帛とを用意して、元狩二(前121年に、烏孫国におもむくことになった。張騫の第二次遠征である。

こうして漢軍の匈奴攻撃作戦は、これまでの正北面作戦から河西・西域にわたる西北面作戦 脚へと転換したのであった。

 

さて、烏孫の王延におもむいた張騫は、国王(昆莫)の猟驕靡に多額の財物を贈り、かつ漢室の公主を降嫁さすことも約して、烏孫族を河西地方へ誘致移動させて、漢朝との対匈奴攻守 同盟を結ぶよう説得したが、昆莫の猟驕靡は、部族内の不安定な勢力関係と、匈奴の勢威とをはばかって、河西地区へ移住することにも、また漢帝国と同盟を結ぶことにもふみ切ることができなかった。

ちなみに、烏孫国内の不安定な勢力関係とは、『前漢書』の「西城伝」に

 

初め昆莫十余子あり。中子の大禄は撞くて将たるの才にも長じ、部衆万金騎を将いて別居していた。大禄の兄の太子が若死したが、死に臨んで父の昆莫に「必ずわが子の軍須靡を太子とするよう」懇請し、昆莫もその請を納れたので、大禄は怒り、弟たちと謀って卑陳(太子) の軍須歴を攻めようとした。そこで昆莫は孫の軍須靡に万余騎を分与して別居させ、自らも万余騎をもって備えを固めたため、烏孫は三分の形勢となったが、大権はやはり昆莫の猟驕靡の手中にあった。

 

とあるのをさすものと思うが、これによると、兵三万余騎をもつ烏孫王の実力もほぼ推知でき、かれが、おいそれと漢がわの要請を納れなかったばかりか、漢使の張騫に対しても、尊大な態度をとったのは当然といえよう。

 

なお張騫は、烏孫国に滞在中、副使を大宛をはじめ、康居(カンテュ)、大月氏、安息(パルチア)などの西域諸国に派遣している。『前漢書』巻九六上、西域伝上、「安息国」の条に前漢武帝のとき、使を安息国につかわしたところ厚く歓待され、安息国王もまた、使節を漢朝に派遣して、大鳥(舵烏?)の卵や犁骬(シリア?)の眩人(マジシャン)を献上した。

とあるのは、このときの副使派遣と答礼俊の釆献をいったものと思われる。

 

漢朝と烏孫国との対句奴攻守同盟は、張賽の遣使のときには成功しなかったが、張騫が元鼎二年に帰国するとき、同行して中国を訪れた烏孫王の使節が、中国の人口の多きや物資の豊富さなどを見聞したり、その後もつづいて使節が来朝したことによって、烏孫王も漢朝の勢威の強大さをあらためて知るにおよんで、ついに武帝に対して公主の降嫁を請い、ここに両者は対匈奴攻守同盟を結ぶことになった。

さきにいったように、このとき和蕃公主として白羽の矢をたてられたのが、武帝の兄にあたる江都王劉建の女細君である。かの女の降嫁は元封年中(前110105)のことであった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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