詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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儒教の復興は、彼の思想の基盤である。古文復興運動とは表裏のものであり、その観点から原道」「原性」「原毀」「原人」「「原鬼」などを著している。その一方で、排仏論も、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。六朝から隋、唐にかけての崇仏の傾向が強くくなったのも中国人民に儒教が嫌悪されたからで、学問として哲学としても敬遠されたのだ。そうした中で、韓愈の一門は中国古来の儒教の地位を回復しようとするのであった。
「原」(尋ねるという意味)は、『淮南子』の「原道訓」に倣って、韓愈が始めた論文の一種で、本原をたずねて推論する性質のもであって、「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五原がある。
《原性》を書いて性三品説を確立した。
《原毀》世の謗りは人は多情であっても名声あるものを嫉妬することにある。
《原人》人間とは何か、人道、「仁」の本原の理を明らかにする。
《原鬼》人間の精霊の本原の理を明らかにする。
ということである。
まず原道から始めることとする。長文のため、意味によって区切り、おおむね14段分割し、掲載は22回程度になる。
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39 | 韓愈2 原道 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ archives/6243542.html |
40 | 韓愈2 原性 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ archives/6308849.html |
41 | 韓愈2 原人 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ archives/6333021.html |
42 | 韓愈2 原鬼 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ archives/6340683.html |
43 | 韓愈2 原毀 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ archives/6349803.html |
802年貞元十八年に国子四門博士(大学教授)となって以来十余年、一時監察御史に出た ほか、三度博士に任ぜられ、813年元和八年以後しきりに左遷されていた韓退之は、この文章 を作って、学殖がありながら世に用いられない一人の博士の自己弁明を滑稽に述べたのであ る。 題して「学問を進めるための解明文」という。この解も漢の揚雄の「解嘲」に倣った問答体の俳諧
文で、韻を踏んだ賦に似た形式もその系統をあらわしている。揚雄は「太玄経」を著したが、ある 人から「玄(幽玄な哲学) を説くには、尚、彼の徳は白(素白、浅薄)である」といわれた。玄と 白との語言上の戯れであるが、この嘲(からかい)を解くための文章という意味で 「解嘲」と題し た。これは漢の東方朔の「答客難」に倣ったものであるが、後漢の班国は、またこれをうけて「答 賓戯」を作った。『文選』には「設諭」体の三篇としてこれらを収載している。韓愈はこれを継いだ のである。 |
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44 | 韓愈3 進学解 | http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6240580.html |
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Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.2.悲憤の詩其の二 訳注解説#6
Ⅳ 政略婚《§-4 蔡文姫史話》5.2.悲憤の詩其の二 訳注解説#6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10854
そこに加えて、わたしと同時期に拉致された仲間達が大勢で、お別れの挨拶を言いに来てくれ見送ってくれた。
生き地獄の様なところからこの地に一緒に来て、わたし独りだけ帰っていくことができたのを歓び慕ってくれたが、別れを哀しみ、叫び声で、切り裂かれてしまうほどである。
出発の時となっても馬はそのために立ち止まって躊躇し、馬車は、そのためでも進む向きを変えないで前進しだした。
帰還の行列に来たもの、見る者はすべて皆、すすり泣きをし、道を行く人さえも、また、子供との別れを知って、嗚咽して泣いたりしたのである。
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫られ去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩三首 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 10. 胡笳十八拍 漢魏 蔡文姫 訳注解説 |
Ⅴ-§-4 蔡文姫、史話
5. 悲憤の詩三首
その二 6回目
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漢魏 蔡文姫 《悲憤詩三首》 |
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悲憤詩三首 其一
漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖簒弑,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。
海内興義師,欲共討不祥。卓衆來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。
獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。
長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。
或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。
豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。
欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此戹禍!
悲憤詩三首 其二
邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄕里。
邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。
存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。人言母當去,豈復有還時。
阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!見此崩五内,恍惚生狂癡。
號泣手撫摩,當發復回疑。
兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬爲立踟蹰,車爲不轉轍。
觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。
悲憤詩三首 其三
去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆爲摧敗。
既至家人盡,又復無中外。城郭爲山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。
出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛咤糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。
奄若壽命盡,旁人相寬大。
爲復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。
人生幾何時,懷憂終年歳!
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蔡文姫 《悲憤詩三首 其二》訳注解説 |
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悲憤詩三首 其二 漢魏 蔡文姫
#1
悲憤詩三首 其二
その二(蔡文姫が異民族の地での生活している時のことを歌う)
邊荒與華異,人俗少義理。
辺疆の地は中華、中原とは全く異った生活様式となっており、その地の人の風俗は、人の踏み行なうべき道を缺いている。
處所多霜雪,胡風春夏起。
生活しているところは、とてつもなく雪や霜が多く、胡風というもの、本来秋の西風と言うべき風が、その西風が春と夏にも起こるのである。
翩翩吹我衣,肅肅入我耳。
その風は、漢衣のわたしのころもに吹いて、ひらひらと巻き上げてしまうし、部屋に入ってもしゅうしゅうと私の身に聞こえてはなれない。
#2
感時念父母,哀歎無窮已。
折に節して、父母のことを強く心に思うし、連れ去られた哀しみと歎きに孤独が加わり、哀歎が無限にこみ上げてくるばかりである。
有客從外來,聞之常歡喜。
胡地以外の地から来た拉致されてきたものがいると、その「有客從外來」という噂を耳にすれば、その地の事が聴けるといつも喜んだ。
迎問其消息,輒復非鄕里。
その客を歓迎して、いろいろ中原の様子を問い訊ねた。「迎問其消息」するたびに、同郷の者ではないことがわかった。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10735
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 3. 文成公主の降嫁 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
2. 唐と吐蕃の関係
国際関係とはいっても、これまで唐と吐蕃両者の間には、直接の交渉関係はなかったが、『旧唐書』の「吐蕃伝」(上)には、
貞観八(634)年、吐蕃王の棄宗弄讃は使節を送って朝貢してきたので、唐の太宗は折り返し馮徳遐を使者として遣わし、撫慰させたところ、ソンツェン=ガムポは大いに悦こんで、徳遐に随って答礼使節を入朝させ、多くの金、宝を奉献して、公主を降嫁されんことをも請うてきた。
という。しかし、このとき太宗はまだ公主の降嫁を許さず、かえって吐谷揮王には、貞観十、十一年ごろ公主の降嫁を約束したのであった。これを知ったソンツェン=ガムポは、面子をこわされたことを怒って吐谷渾を攻撃したので、吐谷渾王は敗れて青海の北に逃亡し、その部民や畜牧は、全部吐蕃に掠奪されてしまった。
吐蕃軍はさらに兵を進めて、吐谷渾の勢力下の党項や自蘭な乃どの羌族系諸部族をしたがえ、さらに二十余万の兵をもって、唐の都督の駐屯する松州の西境に迫った。こうしておいて、ソンツェンは再び使節を送り、金・帛を献じて公主の降嫁を迫り、貞観十二年秋には、ついに松州城を攻撃し、都督韓威の先鋒軍を敗ったため、その統制下にあった党項、自蘭などの諸羌族は、挙げて吐蕃に服属してしまった。
ちなみに、これら羌族の多くは、そのころ唐の国都長安(いまの西安)から吐蕃の都ラサへの公道 ―鄯州(青海省楽都縣)西寧から青海湖の東南辺に沿うて、さらに西南に進み、河源地帯の格尓木を経由してラサに至るいまの青蔵公路が、唐代の史書には「入吐蕃道」としてあげられている― に沿うて遊牧していたが、これらの部族の民族系統、その他西寧・格尓木経由の青蔵公路については、佐藤長「唐代の青海・ティペットの民族状況」 (『鷹陵史学』一〇号所収) および同氏の『古代 チベット史研究』付図第一図を参照されたい。
さて、吐蕃軍のはげしい攻撃によって、一時敗色の濃かった松州城の唐軍も、救援の征討将軍牛進達や侯君集らの尽力によって、ようやく危機を脱し、やがて吐蕃軍も内部の不和から、侵攻軍を引き揚げざるをえなくなり、ソンツェンは更めて唐朝に謝罪俊を送り、三たび熱心に婚姻を求めたので、太宗もようやく公主降嫁の内諾を与えることになった。喜んだソンツェンは、大論(大臣) のガルトンツェンを使節として、黄金五千両をはじめ、宝物・玩物数百件を結納として献じた。
吐蕃国概略
吐蕃は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。
・名の由来は「偉大なチベット」という意味である。
・唐が吐蕃と呼んで以来、17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。
・日本では一般的に中国名の「吐蕃」を王朝名とした他、吐蕃王国、吐蕃帝国などの呼称が用いられており、呼称は定まっていない。
概要
7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後、唐とは東部では吐谷渾の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った[1]。9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。
仏教書には釈迦一族の末裔を王室の起源とする神話が描かれている。中国の旧唐書では中国の遼東地方より移住した鮮卑拓跋部出身の王家を吐蕃王室の起源とする、より遅い年代の史書ではチベットの波窩地方出身とされる事が多いが信憑性は薄い。吐蕃時代の金石文では、ほぼ例外無く初代王を天の子としている。
ナムリ・ソンツェン王はラサ南東のヤルルン渓谷(ロカ地方、波窩地方)を起点として、近隣部族のセンポやタボ、東部の小部族を征服し勢力をラサ地方へ伸ばした。630年、ナムリ・ソンツェン王が反逆者によって毒殺されると、子のソンツェン・ガンポ王(在位:630年 - 650年)が即位する。633年、ソンツェン・ガンポ王は前王の死後反乱を起こした蘇毗族(中国語版、英語版)(スムパ[6])、センポ族、タボ族、大羊の反乱を平定して都をラサに定めた。史書ではインドへ人を遣って文字を学ばせ、トンミ・サンボータ(チベット語版、英語版)が数名のインドの仏教僧とともにチベット文字を創成したと書かれている。
634年、ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。さらに王国の南に位置するネパールのリッチャヴィ朝に使者を遣わし、前王アンシュ・ヴァルマー(在位: 605年 - 629年)の娘、ティツン王女(ブリクティ、ペルサ)を妃に迎える、仏教国であったネパールの影響により仏教が広まった。さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶される。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭などの羌族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫るが(松州の戦い)、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらにガル・トンツェンユルスンを遣わし、金五千両を結納として贈る。
638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主(ギャサ)をグンソン・グンツェンの妃として迎える。グンソン・グンツェン王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し[7]、ソンツェン・ガンポが王に復位した。なお、同年、シャンシュン王国を併合し、ナレーンドラ・デーヴァ(在位:643年頃 - 679年頃)をリッチャヴィ朝の君主に据えている。
646年、ソンツェン・ガンポ王は太宗の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。 647年、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアラナシュ(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者王玄策を保護している。更に大軍を率いて当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き帰還している。
649年、唐の太宗が死去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、スムパ族(蘇毗)平定に大功のあったニャン・マンポジェシャンナンや、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣のキュンポプンサを粛清している。649年末、病のため死去した。
ガル一族の執権と唐との戦争
ソンツェン・ガンポ王が死ぬと、王の子グンソン・グンツェンと文成公主の子であるマンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が8歳で即位し、大論(宰相)ガル・トンツェン(在任:652年 - 667年)が国政を執った。 663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政,軍事,租税登録,徴発制度を改めて整備した。
667年にガル・トンツェンが死去すると、長子のガル・ツェンニャドムプが大論の位を継いだ。弟のガル・ティンリンは積極的に唐の西域で軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于闐、疏勒)を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンリンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。
676年、マンソン・マンツェン王が死去し、ティドゥ・ソンツェン王が即位すると、大羊と熱桑部が背くも短期間のうちに鎮圧された。唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退した。このとき唐の前軍の将が捕虜となっている。
680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。 683年、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌684年にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒される程となった。
692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻、安西四鎮は陥落した。696年、唐に対して勝利を収めた。
699年、ティドゥ・ソンツェン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し大論のガル・ティンリンを自殺に追い込んだ。この粛清劇により、ガル氏は表舞台から消えた。
この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。
唐との講和と南詔の冊封(8世紀後半の吐蕃と周辺国)
704年、ティドゥ・ソンツェン王が南詔親征中に戦死すると、生まれたばかりのティデ・ツグツェン[11](在位:704年 - 755年、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母(チマル(英語版))方のブロ[12]氏が政権を掌握したが政権は安定せず、デレンパノナンジャやケガドナンが反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主を迎える。大論(宰相)であったシャンツァントエルトサイビンが公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。
チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネンが任命され摂政したが、国威は振るわなかった。713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。
722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領したが、710年代-730年代は連年唐(蕭嵩)と戦うも反間の計に掛かり歴戦の大論(宰相)バー・タジャコンルーを処刑した事もあって、東部の諸城を落とされるなど軍事的劣勢が続き、度々唐と講和した。739年、金城公主は吐蕃にて死去する。
吐蕃・唐の内乱と唐の弱体化
751年、トゥーラーンの支配権を巡って唐は、前年のザーブ河畔の戦い(英語版)に勝利して誕生したばかりのアッバース朝とタラス河畔の戦いを行なったが、カルルクがアッバース軍に寝返り、敗れた唐は中央アジアの覇権を失った。同年、唐の剣南節度使、鮮于仲通が南詔に大敗。752年、唐に攻められた南詔国王閣羅鳳が吐蕃に助けを求め、王は閣羅鳳を王弟として冊封する。754年に唐の楊国忠が派遣した四川長官の李宓が南詔を攻撃した際には、兵を送り南詔と共に唐軍を破った。
ティデ・ツグツェン王の時代は唐や西域から仏僧を拉致或は招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていたが、754年に大論(宰相)であった功臣のランメシクとバルドンツァブが謀反し、755年にティデ・ツグツェン王が近衛兵によって殺害されスムパ族(蘇毗)も反乱を起こした。ティデ・ツグツェンと金城公主の子ティソン・デツェン[13](在位:755年 - 797年)は乱を鎮圧して蘇毗族も滅ぼし王位を継ぐが、実権は大論(宰相)マシャン・ジョンバジェを筆頭とする外戚が握っており、仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し仏教を法律で禁じた。
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾
Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》1. 吐蕃王国と吐谷渾 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10728
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Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主 はじめに(唐とティペット王国との関係を背景) 1. 吐蕃王国と吐谷渾 2. 唐と吐蕃の関係 §-4 蔡文姫史話 1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫 2. 蔡文姫について 3. 後漢末の政治の乱れ 4. 黄巾の乱と軍閥の混戦 5. 悲憤の詩 6. 南匈奴部と後漢帝国との関係 7. 南匈奴部の反乱と分裂 8. 帰都の実現 9. 母子別離の情 |
Ⅳ-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主
1. 吐蕃【トバン】王国と吐谷渾【トヨクコン】
チベット高原に統一国家がはじめて出現したのは、七世紀初頭のことである。 それまでのチベット高原には、多くのチベット語系部族が分散割拠しておリ、これら諸部族の興亡については確たる史料に乏しく、したがって、これらのものは、わが日本の耶馬台国時代にみるような類ではなかったかと思われる。
それらの分散割拠したチベット系諸部族を打倒して、はじめて統一国家としての吐蕃王国を創建したのは、ソンツェン=ガムポ (漢字訳で棄宗弄讃)である。この王については、中国の史書である新・旧両唐書にも、確かな記録が記載されている。
建国王のソンツェン=ガムポは、伝統ある東南チベットの貴族の出であったようで、父王のナムリ日ソンツェンが部下に毒殺されたので、年若く十三歳ごろ父の後を承け、やがて四方の部族をつぎつぎに統合した。かれは史書の 『通典』巻一九〇によれば、七世紀初めごろの唐の初頭には、精兵十万を擁するほどの強国を創り上げていたようである。
その吐蕃王国が、唐帝国とトラブルをおこしはじめたのは、ソンツェン=ガムポが、ココノール(青海)西方の広大なツァイダム盆地(黄河源地帯)に触手をのばすようになったときからで、ここには中国史書に、吐谷渾―チベット語でアシャ(漢字訳で阿柴虜)という― とよばれた有力部族が拠っていた。
吐谷渾は、その支配部族が東方モンゴリアに拠っていた鮮卑族系の慕答氏の分かれであって、その下にはティペット族や同じ語系の蒐族などの諸部族を従えてツァイダム盆地を根拠に、六世紀なかごろから隆盛になり、北は河西回廊地帯(甘粛省西部)の諸都市国家とも交渉をもち、さらにシルク・ロードのタリーム盆地南辺にも勢力をのばすとともに、南方では四川盆地から長江に沿うて中国の南朝に対しても朝貢貿易を盛んに行っていた。
この吐谷渾國は、隋代の六世紀末ごろから盛期をむかえたが、やがて唐の太宗が西域経略にのり出すと、唐の勢力下において王権の維持に努めたものの、西南方からの吐蕃王ソンツェン=ガムポの侵圧に抗しかねて、国の政情が不安定になると、吐谷渾国をめぐって唐・吐蕃両者の国際関係は、しだいに緊迫化していった。
吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。
鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、次男嫡子の若洛廆(慕容廆)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容廆の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行く着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。
六朝との関係
吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延(中国語版)は于闐国(現:新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。
隋唐との関係
581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善国(現:新疆ウイグル自治区ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。
滅亡
663年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670年に将軍の薛仁貴に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦い(中国語版)で吐蕃軍に包囲され大敗した。これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾部衆は霊州で保護されたが、8世紀中葉、吐蕃軍はさらに唐の領内にも攻め込み、霊州もまた吐蕃軍の陥れるところとなった。一部の吐谷渾部衆はさらに各地に逃れ、その勢力は見る影もなく衰退する。吐谷渾の名は遼代ころまで中国史料に見えるが、その後は漢民族に吸収された。
社会経済
吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。
宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。
Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策
Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》9.対匈奴攻守同盟策 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10651
中国史・女性論 |
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主) Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君 1. 和蕃公主 2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君 3. 建国の英雄冒頓単于 4. 匈奴遊牧王国の出現 5. 漢の高祖と冒頓単于 6. その後の漢帝国と匈奴との関係 7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行 8. 烏孫族と月氏族 9. 対匈奴攻守同盟策 10. 望郷の歌―黄鵠の歌 |
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
§-1-9 対匈奴攻守同盟策
月氏族がソグディアナに移牧すると、その故地のイリ地方には烏孫族が移ったが、烏孫遊牧王国は、シルSyr河上流のナリンNaryコ河流域に比定される赤谷城を根拠地に、西方はチユchu河流域からイリ河上流域およびユルドゥスYu-dusをふくんで、東方はウルムチに接する広大な範囲におよんでいたという。その後、烏孫国はシル河上流のナリン河から大ユルドゥス河谷にわたる天山山中にひろがる草原に遊牧するテエルク部族をたばねる盟主であるとしている。(『古代天山の歴史地理学的研究』)
ちなみに、近年天山山脈中から、烏孫族のものとみられる広大なマウンドをもつ墳墓が発見されたと伝えられるが、いずれにしても烏孫遊牧王国は、当時大匈奴王国と東西に隣接していたようである。さきにいった漢の武帝が、新たに領有することになった甘粛省西部の河西地区を、いかに確保すべきかに心をくだいたのは、まさしくこのころであった。張騫が第一次の旅行中、匈奴に抑留されている間に聞知しえた知識は、匈奴と烏孫との関係がしだいに冷却化しつつあるということであろう。そこで張鴛は、この情報にもとづいて武帝に、烏孫と漢朝との対匈奴攻守同盟策を締結するよう献議したところ納れられて、かれは正使として従者三百人、一万頭に達する牛・羊と数千の金・帛とを用意して、元狩二(前121年に、烏孫国におもむくことになった。張騫の第二次遠征である。
こうして漢軍の匈奴攻撃作戦は、これまでの正北面作戦から河西・西域にわたる西北面作戦 脚へと転換したのであった。
さて、烏孫の王延におもむいた張騫は、国王(昆莫)の猟驕靡に多額の財物を贈り、かつ漢室の公主を降嫁さすことも約して、烏孫族を河西地方へ誘致移動させて、漢朝との対匈奴攻守 同盟を結ぶよう説得したが、昆莫の猟驕靡は、部族内の不安定な勢力関係と、匈奴の勢威とをはばかって、河西地区へ移住することにも、また漢帝国と同盟を結ぶことにもふみ切ることができなかった。
ちなみに、烏孫国内の不安定な勢力関係とは、『前漢書』の「西城伝」に
初め昆莫十余子あり。中子の大禄は撞くて将たるの才にも長じ、部衆万金騎を将いて別居していた。大禄の兄の太子が若死したが、死に臨んで父の昆莫に「必ずわが子の軍須靡を太子とするよう」懇請し、昆莫もその請を納れたので、大禄は怒り、弟たちと謀って卑陳(太子) の軍須歴を攻めようとした。そこで昆莫は孫の軍須靡に万余騎を分与して別居させ、自らも万余騎をもって備えを固めたため、烏孫は三分の形勢となったが、大権はやはり昆莫の猟驕靡の手中にあった。
とあるのをさすものと思うが、これによると、兵三万余騎をもつ烏孫王の実力もほぼ推知でき、かれが、おいそれと漢がわの要請を納れなかったばかりか、漢使の張騫に対しても、尊大な態度をとったのは当然といえよう。
なお張騫は、烏孫国に滞在中、副使を大宛をはじめ、康居(カンテュ)、大月氏、安息(パルチア)などの西域諸国に派遣している。『前漢書』巻九六上、西域伝上、「安息国」の条に前漢武帝のとき、使を安息国につかわしたところ厚く歓待され、安息国王もまた、使節を漢朝に派遣して、大鳥(舵烏?)の卵や犁骬(シリア?)の眩人(マジシャン)を献上した。
とあるのは、このときの副使派遣と答礼俊の釆献をいったものと思われる。
漢朝と烏孫国との対句奴攻守同盟は、張賽の遣使のときには成功しなかったが、張騫が元鼎二年に帰国するとき、同行して中国を訪れた烏孫王の使節が、中国の人口の多きや物資の豊富さなどを見聞したり、その後もつづいて使節が来朝したことによって、烏孫王も漢朝の勢威の強大さをあらためて知るにおよんで、ついに武帝に対して公主の降嫁を請い、ここに両者は対匈奴攻守同盟を結ぶことになった。
さきにいったように、このとき和蕃公主として白羽の矢をたてられたのが、武帝の兄にあたる江都王劉建の女細君である。かの女の降嫁は元封年中(前110〜105)のことであった。
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