詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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薛濤 《月 》
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2017年6月7日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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八、2.5 薛濤 《月 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8854
(さまざまな角度から月を詠じたものというだけでなく、満月が良いのではなく、月の陰の部分にこそ力があるもの、生き歳いきるものその力をもって生きるべきであるというもの。)
新月から三日月の「生魄」は明るく光る所は鉤のように小さいがその影の部分に生きる力がある。漢の班婕妤の『怨歌行』に詠うようにきれいなまるい扇でも秋になれば棄てられるという、だからいまもっと愛してください。細い月影がやがては真ん丸に成長してゆきます。そしてまた「生魄」が成長します。人間世界も、このように陰と陽が成長し合っているものでさまざまなところでさまざまな思いをこめて仰ぎ見ているのでしょう。
地方の官妓(3)
楽営官妓は、節度使や州刺史などの地方長官が直接に掌握し支配した。彼女たちは一般に楽営に集中して居住し、そこから自由に出ることは許されず、官庁から衣服や食糧の支給を受けていた。そして、いつでも官庁からの呼び出しに応じることができるよう準備していたので、「官使の婦人」とか、「官使の女子」などと呼ばれたのである。官庁が挙行する各種の祝典宴会・歓送迎会・上官接待などの時に、宮府は彼女たちを召集して芸の披露、酒席の接待、夜の相手などをさせた。官妓の大半はみな一定の技芸を持ち、歌や舞い、酒席での遊び、それに管弦楽器の演奏などに長じていた。彼女たちは、一段と大きな権勢を持つ長官に占有される以外は、一般に地方長官の許可なしに客を自由に接待することはできなかったと思われる。しかし、この種の制限も決してそれほど厳格なものではなく、すべて長官個人の好みにかかっていた。『雲渓友議』(巻こ一)に次のような話がある。池州(安徹省貴池県)の杜少府(少府は官名。県尉に同じ)と、毫州(安徽省毫県)の章中丞(中丞は官名。御史台の長官)の二人は仏教、道教にたいへん帰依していたので、楽妓に対してあまりよい感じをもっていなかった。それで彼らは「楽営の子女には厚く衣・糧を給し、営外に住むに任せている。もし宴会があれば呼びよせる。花柳の巷では好きに楽しませている」と言った。すると科挙受験生の張魯封が嘲って、「楽営は都て是れ閑人管り、両地の風情(色恋沙汰)日に漸く多し」(張魯封「池毫二州の賓佐を謔い、兼ねて宣武軍掌書記李昼に寄す」)と言った。この話は、第一に官妓は一般に楽営の外に住んだり、閑人(楽営外の人)と交際してはならないという規則であったこと、しかし第二に、この規則はそれほど厳格なものではなかったことも同時に示している。全体的に見れば、地方官妓は一般に官府に頼って生活しており、彼女たちの任務は官の御用に応じて、芸を披露し宴席に侍るのが中心で、自由に肉体を売ることなどは本来の仕事ではなかった。しかし、実際は彼女たちはしばしば秘かに客をとっていたのであった。
1. 井梧吟
庭除一古桐,聳干入雲中。
枝迎南北鳥,葉送往來風。
2. 鴛鴦草
綠英滿香砌,兩兩鴛鴦小。
但娛春日長,不管秋風早。
3. 池上雙鳧
雙棲綠池上,朝去暮飛還。
更憶將雛日,同心蓮葉間。
4. 風
獵蕙微風遠,飄弦唳一聲。
林梢明淅瀝,松徑夜淒清。
5. 月
魄依鉤樣小,扇逐漢機團。
細影將圓質,人間幾處看。
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薛濤詩 《 風kaze 》 |
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月
(さまざまな角度から月を詠じたものというだけでなく、満月が良いのではなく、月の陰の部分にこそ力があるもの、生き歳いきるものその力をもって生きるべきであるというもの。)
魄依鉤樣小,扇逐漢機團。
新月から三日月の「生魄」は明るく光る所は鉤のように小さいがその影の部分に生きる力がある。漢の班婕妤の『怨歌行』に詠うようにきれいなまるい扇でも秋になれば棄てられるという、だからいまもっと愛してください。
細影將圓質,人間幾處看。
細い月影がやがては真ん丸に成長してゆきます。そしてまた「生魄」が成長します。人間世界も、このように陰と陽が成長し合っているものでさまざまなところでさまざまな思いをこめて仰ぎ見ているのでしょう。
(月)
魄は鉤樣【こうよう】小きに依り,扇は漢機團きを逐う。
細き影は將に圓質なり,人間 幾處に看る。
月
魄依鉤樣小,扇逐漢機團。
細影將圓質,人間幾處看。
(下し文)
(月)
魄は鉤樣【こうよう】小きに依り,扇は漢機團きを逐う。
細き影は將に圓質なり,人間 幾處に看る。
(現代語訳)
(さまざまな角度から月を詠じたものというだけでなく、満月が良いのではなく、月の陰の部分にこそ力があるもの、生き歳いきるものその力をもって生きるべきであるというもの。)
新月から三日月の「生魄」は明るく光る所は鉤のように小さいがその影の部分に生きる力がある。漢の班婕妤の『怨歌行』に詠うようにきれいなまるい扇でも秋になれば棄てられるという、だからいまもっと愛してください。
細い月影がやがては真ん丸に成長してゆきます。そしてまた「生魄」が成長します。人間世界も、このように陰と陽が成長し合っているものでさまざまなところでさまざまな思いをこめて仰ぎ見ているのでしょう。
(訳注)
(月)
33.(さまざまな角度から月を詠じたものというだけでなく、満月が良いのではなく、月の陰の部分にこそ力があるもの、生き歳いきるものその力をもって生きるべきであるというもの。)
34. この詩を単にいろんな月がありますという解釈をしているのは、女性蔑視の軽薄な文学である。
魄依鉤樣小,扇逐漢機團。
新月から三日月の「生魄」は明るく光る所は鉤のように小さいがその影の部分に生きる力がある。漢の班婕妤の『怨歌行』に詠うようにきれいなまるい扇でも秋になれば棄てられるという、だからいまもっと愛してください。。
35. ・魄 月魄。三日月の陰の部分を月の生魄といい、この部分に生れる力、たましいを感じたのである。精神をつかさどる陽の気を魂(こん)というのに対し、肉体をつかさどるという陰の霊気。1 人の肉体に宿り、活力を生み出すもの。たましい。「気魄・魂魄」
2 月のかげの部分。「生魄」
3 落ちぶれる。「落魄」。
36. ・鉤樣 鉤は、簾をまきあげてかける金具。形は鉤形。鎌のような形。三日月。
37. ・扇 中国古代の扇は、開くとうちわ型になった。
38. ・漢機 漢代の機。漢の班婕妤
怨歌行
新裂齊紈素,皎潔如霜雪。
裁爲合歡扇,團團似明月。
出入君懷袖,動搖微風發。
常恐秋節至,涼風奪炎熱。
棄捐篋笥中,恩情中道絶。
(新たらしい斉の国産の白練り絹を裂いている、それは純白、潔白で穢れない清い白さは、霜や雪のようだ。
裁断して、両面から張り合わせの扇を作っている。丸くしてまるで満月のようです。
でもいつもこころに恐れていることがあるのは秋の季節が来ることなのです。秋の清々しい風は、わが君の情熱を奪って涼しくしてしまうのです。
そうすると、屑籠の中に投げ捨てられてしまうことになります。わが君、帝王の寵愛が途中で絶えてしまうことになるのです。)第二句はこれ基づいてよんだもの。怨歌行 班婕妤(倢伃) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1458
細影將圓質,人間幾處看。
細い月影がやがては真ん丸に成長してゆきます。そしてまた「生魄」が成長します。人間世界も、このように陰と陽が成長し合っているものでさまざまなところでさまざまな思いをこめて仰ぎ見ているのでしょう。
39. ・細影 月の細い形。初月近くをいう。陰と陽が成長することを云う。薛濤は明るい部分だけ月と云っているのではないのである。班婕妤を引用した意味はこの点にある。
40. ・質 満月と新月。どちらも本来の姿である。
41. ・幾處 何か処で、であるが、反語的用法で、いたるところでの意。