詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-12)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》4.)将に将たるの器
(Ⅱ-12)中国史
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》4.)将に将たるの器 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10434
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中国史・女性論 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
(Ⅱ-8)中国史・女性論 |
§-3 項羽と劉邦の人物評価 |
4)将に将たるの器 |
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4)将に将たるの器
両雄の対比の第四は両者の気量の大小であろう。劉邦には、ブレーンとして斎何・張良・陳平・韓信・焚晴らがおり、かれはこれらの逸材を適材適所に用いて、斎何は政略および食糧の運輸調達に、張良・陳平は智略・軍略に、韓信は将軍として戦略・用兵に、それぞれ持ちまえの能力を存分に発揚させている。それゆえ韓信は劉邦を 称して「将に将たる器」 とたたえているが、まさに至言というべきである。
劉邦のすぐれた人材登用に対して、項羽はただ一人の謀臣苑増さえも使いきれないで、つい
に花増は愛想をつかし、憤摘心やるかたない思いで項羽の許を去った。高祖の謀臣陳平も、はじ 甜め項羽の都尉(警察長官) であったが、「鴻門の会」後は高祖に従っている。このことについて、高祖は核下から凱旋して錐陽(洛陽) の南宮に祝勝の酒宴を開いたとき、列侯・諸将を前にして、項羽が天下を失った所以につき、かれ自身がいみじくもつぎのように喝破している。そもそも等策を陣中にめぐらし、勝利を千里の外に決する点では、朕は子房(張良) におよばない。国家を鎮め、人民をなづけ、食糧を供給して糧道を絶やさない点では、朕は斎何におよばない。百万の大軍をつらねて戦えば、かならず勝ち、攻めれば、かならず取る点では、朕は韓信におよばない。この三人はみな人傑である。朕はこの三人をよく用いることができた。これ朕が天下を取った所以である。しかるに項羽はただ一人の箔増をすら充分に用いることができなかった。これ項羽が、わがとりこになった所以である。(『史記』巻八、「高祖本紀」)
と。わが徳川家康にも比べられる高祖の老檜さがうかがわれるではないか。前漠末の文学者であり思想家でもある揚雄(前五三〜後一八)は、その著『法言』の第十「黍黎篇」のなかで、この劉邦・項羽両者を比較して、つぎのように評価している。
ある人、楚 (項羽)が咳下に敗れてまさに死なんとするときに、天なりと日いしことを問う。
〔揚雄〕日く、漢(劉邦)は、もろもろの策を尽く工たり。しかるに、楚はもろもろの策を悪くんで、自らその力を尽くす。人を尽くす者は克ち、自らを尽くす者は負く。云云
劉氏政権の さて、ここまでは第Ⅰ編の楚・漠の抗争の経緯をふまえて、項羽・劉邦両雄の強化と保持 人物評価を論じたが、最後に第H編をふまえて高祖劉邦の後半生についてみると、高祖は楚漠抗争に勝って天下を一統すると、かれはこれまでの寛仁大度の長者ぶりを一掬したかのように構疑心を強め、およそ劉氏政権をおびやかすと疑われるものがあれば、たとい建国の功臣、たとえば韓信・影越・粗布らのごとき人でも容赦せず、いささかの落度を理由に、ただちに処分するか、みずから軍をひきいて討伐した。
こうしてその治世八年間に、異姓の王八人のうち七人まで亡ぼされ、劉氏一族をこれに代えているのは、劉氏による権力の強化をめざしたものにはかならない。
もし劉氏以外のものが王となったら、天下は相協力してこれを撃て。とは、高祖がつねづね群臣たちにむかって口にし、誓約させたことばであったという。どうや 甜ら天下統一後の徳川家康によく似ている。ここにおいて、高祖を頂点とする劉氏一族と異姓の諸侯・群臣との、これまでのようなルーズな関係は、はっきりと君臣上下の関係に変わっていった。
高祖が死に臨んで、劉氏政権を委ねるに足る人として、曹参・王陵・陳平・周勃らを名ぎしで呂后に遺言しているのも、かれが最後まで、いかに劉氏政権の強化とその保持とに汲汲としていたかが、うかがわれよう。
さらに高祖は馬上に屠りて天下を得るとも、なんぞ馬上をもって、これを治むぺけんや。
という陸頁の言をきいて、武から文へと心をうごかすようになったこと。また漢七年には、叔孫通をして朝儀を定めさせ、はじめて皇帝たることの尊貴を知ったと伝えられること。そして叔孫通のすすめで、かれの門弟の儒生多数を召しかかえて、国家の儀法・秩序を立て、国の体制を整えさせたこと(『史記』巻九九、「叔孫通伝」)などは、高祖が君主権の強化をめざして傾心したことを示すものであり、すぐれた統一者としての、かれの素質を評価できるであろう。
ところが視点をかえて、死に臨んでのかれの態度をみると、たとえば、高祖が死に臨んで病篤うして、伺候した医師に「命乃在レ天、稚二宗一(戦国の名医の名)何益」といって、その治療を拒んだごときは、一見天命に安んじているかのようにみえるが、それは死を前にした強がりにすぎない。かれはこのような虚勢のうらでは、劉氏政権の保持になお汲汲とし、あるいは愛児の逝王如意への愛着をすてきれないで、後顧の妄執をのこしているが、ここにもかれの死に臨んでの、強い執着心がうかがわれる。
おもうに、高祖は、劉竺統の政権保持については、太子盈(恵帝)の仁弱と、それに乗じる呂后の専権に対する不安を拭いえず、また愛する避王と戚夫人とに対しては、呂后のはげしい復讐を憂えて心安んじなかったのであろう。
はたせるかな避王と戚夫人とは、さきにみたような悲惨きわまる最後をとげ、呂后については、その後十四、五年間にわたり、かの女の専制がつづき、呂氏一族によって政権が郵粧されて、高祖の庶子のうち、めぼしい諸王に対する呂太后の迫害は織烈を極め、一時は劉氏政権が危機におちいった。
なかでも超王友のごときは、もっとも悲惨な運命をたどった一人である。かれは呂氏一族の女を妃としていたが、他の女性を愛したため、王妃は嫉妬して超王友の許を去り、そのことを太后に訴えたので、友は太后に幽閉されて給食を絶たれ、まさに餓死せんとして、万科の恨みをこめた、つぎのような詩をのこしている。
呂氏一族がもっぱら政事を行って、劉氏は危い。王侯を脅迫し、彊いて我に妃を授けた。わが妃はすでに妬心が深く、われを〔太后に〕悪しぎまに轟いた。護女は国を乱す〔といぅが〕、上(太后)はこれまで寧bない。われに忠臣はいないのか。なんの故に国を逐われたのか。田野の中に自決して、蒼天に直しいことを挙げよう。乎嗟悔ゆべからず、むしろ蚤く自害すべきであったのに。王となって餓死す、たれかこれを憐れもうぞ。呂氏の理不尽は、天に托してきっと仇を報じよう。
と。かれこれ劉邦と項羽の両者を考えると、項羽が、それまでは頑なに張りあってきた天命を、死の直前に自得し、心満たされた思いで、自らの命を絶った(三四ページ)のと、最後までわが児如意への愛着をすてきれず、また劉氏政権の保持に執心しっづけたにもかかわらず、事は志とちがった高祖劉邦とを比べて、はたして両者いずれが、その死を前に真実な生を生き抜いたかについて、改めて問い直されねばならない。