詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月29日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-025-#1 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8783 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-97 先生-巻八-01#16城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8796 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-114 解悶十二首其二(卷一七(四)頁一五一二) 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8827 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (205)回目張泌 《巻四32 浣渓沙十首 其六》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8798 (05/29) |
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Blog |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二19 詠懷詩二首 其二昔日繁華子 -#2〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8799 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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八、1. 妓 優
金燈花 薛濤
金燈花、金䙁花
山慈姑花.【さんじこのはな】 別名金燈花(《本草拾遺》)。 蘭科の植物で杜鵑蘭あるいは獨蒜蘭等の花である。花苗の長さは45寸、葉は厚く狭く、茎を抱いて生ず。茎は柔らかく脆いとされ、茎の頭に花を咲かせる。指の頭のような形になるが花を咲かせると茎や葉は花に隠れてしまう。長春花が一番近い花である。功能主治『綱目』によると:治小便血淋澀痛。
金燈花
闌邊不見蘘蘘葉,砌下惟翻艷艷叢。
欄干の端の方から見るとこの花がぱっと開くとその下の葉と茎はシュッシュッとして葉幅が狭く、茎が柔らかなので隠れて見えない。高楼の庭に降りる石段の際の所に、ただ、えんえんとしてあでやかに咲き集まるこの花を見る。
細視欲將何物比,曉霞初疊赤城宮。
一杯に咲いている花も一つ一つ細やかに見ていくとこれを何かに喩えられるのである、それは、こんなに咲き誇っていてもやがて凋んでいくこの街の女に喩えられ、今朝日に照らされた青城山の上に幾重にも重なってある年増女の往きつくさきの赤城の宮が思われてならない。
(金燈花【きんとうか】)
闌邊【らんべん】蘘蘘【じょうじょう】の葉を見ず,砌下【ぜいか】惟だ艷艷【えんえん】の叢【くさむら】を翻えす。
細かに視ては何物を將って比せんと欲す,曉霞【ぎょうか】初めて疊なる赤城の宮。
芸妓について
妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと。娼妓、娼女という呼称もある。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。また、道教の寺観にも娼婦に近い巫女がいた。この時代において、女性が男性と対等にできる唯一の場所であった。
もともとは国家による強制的な徴発と戦時獲得奴隷が主な供給源だったと考えられるが、罪人の一族を籍没(身分を落とし、官の所有とする制度)する方法が加わった。また、民間では人身売買による供給が一般的であった。区分すると以下の通り。
(1.宮妓 2.家妓 3.営妓、4.官妓、5.民妓、6.道妓)
1 宮妓
皇帝の後宮に所属。籍没された女性や外国や諸侯、民間から献上された女性。后妃とは別に、後宮に置かれ、後宮での業務をし、技芸を学び、皇帝を楽しませた。道教坊で技芸を習得した女性もこれに含まれる。班婕妤・趙飛燕や上官婉児などのように后妃に取り立てられるものもいた。
2 家妓
高官や貴族、商人の家に置かれ、家長の妾姫となった。主人だけではなく、客を歓待する席でも技芸により、これをもてなす役目があった。官妓から、臣下に下賜されて家妓になるものもいた。始皇帝の母にあたる呂不韋の愛人や、西晋の石崇の愛妾である緑珠が有名。
3営妓
軍隊の管轄に置かれ、軍営に所属する官人や将兵をその技芸で楽しませた。蘇小小。唐代女流詩人の薛濤が有名。
4官妓
中央政府の道教観や州府の管轄に置かれた。実際は、妓楼や酒楼は個別に運営されており、唐代・長安の北里、明代・南京の旧院は、その代表的な色町である。唐代の天宝年間以降に彼女らを題材にして、多くの士大夫が詩文にうたい、妓女となじんだという記録が盛んになる。唐代はその活動は最大なものであった。
唐代女流詩人の魚玄機、明代の陳円円、李香君、柳如是が有名。
5民妓
民営の妓楼に所属した。売春だけを目的とした女性も含まれる。明代以降、官妓が衰退した後、大きな役割を果たすようになった。清代は上海に多くの民妓がいた。宋代の李師師が有名。
6.道妓
道教の祠に学問等していない娼婦に近いものが多かった。
妓館には、花や植物が植えられ、狆や鸚鵡が飼われ、香炉が置かれ、また、雲母屏風、山水画や骨董が飾られているところが多く、庭園風になっているものもあった。妓館は、互いに奇をてらい合い、提供される様々な香りが数里先まで漂ったと伝えられる。さらに、厨女(女料理人)が働いており、彼女らが料理する山海の珍味がすぐに作れるように準備されていた。旧院には商店もあり、客が妓女に贈るための高級品が置かれていた。また、茶を専門とする茶坊もあった。夜には、妓女による音楽が奏でられ、芝居が上演された。妓館の額もまた、名人の手になるものがいくつもあった。妓館には、他に下働きの下女と男衆が別にいた。
薛濤の全詩 案内表
薛濤は西川節度使が管轄する官妓であった。「韋皐から李德裕までの歴代十一人の節度使に仕えて、詩によって知遇を受けている。その間に元稹・白居易・牛僧孺・令狐楚・裴度・嚴綬・張籍・杜牧・劉禹錫等、凡そ二十人の名士とも詩を唱和したとされる。また薛濤が詠じた詩は、『稿簡贅筆』には「有詩五百首」とあるが、現存しているのはここに掲載する約九十首全詩である。
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2017年5月28日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-024巻183-05 寓言三首其三(卷二四(二)一三九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8789 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-95 先生-巻八-01#15城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8784 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-集-16 【字解集】 ・i.-別崔潩因寄薛據孟雲卿 ・j-寄韓諫議 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8803 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (204)回目張泌 《巻四31 浣渓沙十首 其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8792 (05/28) |
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Blog |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二19 詠懷詩二首 其二昔日繁華子 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8793 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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七、商家の女性
那ぞ商人の婦と作リて、
水を愁い復た風を愁うるや
李白
唐代には商業の繁栄、商人の活躍がめざましく、そのため商人階級の女性たちが世間の注目を浴びる一群を形成した。しかし、彼女たちの間の貧富の格差は大きく、公主や貴婦人に等しい富を持つ大商人の夫人もいれば、零細な経営で苦しむ小売商人の女性もいた。大塩商の妻がどのような生活をしていたか見ておこう。
(塩商の婦) 白居易
墟跨の婦 金帛多し、田農と蚕績を事とせず。
南北東西 家を失わず、風水を郷となし船を宅と作す。
本と是れ揚州の小家の女、嫁し得たり 西江の大商客。
緑の鬘は溜去て金の奴多く、皓き腕は肥え来たりて銀の釧窄し。
前に蒼頭(下男)を呼び後に婢を叱る、爾に問う 何に因って此くの如きを得たる。
婿 塩商となりて十五年、州県(地方政府)に属さず 天子に属す。
毎年 塩利の官に入る時、少しく官家に入れ多く私に入る。
・・・・
紅の檜 黄の直 香ばしき圀販。
飽い食べ 濃い汝をし柁楼(船尾の操舵室)に倚る、両栞の紅い額 花 綻びんと欲す。
塩商の婦、幸い有りて塩商に嫁す。
終朝 美き飯食。 終歳 好き衣裳。
彼女たちは終日飽食し、けばけばしい化粧をし、下男下女を意のままに使った。なんという快適、なんという贅沢さであったことか。これはごくまれな現象ではなく、唐代の豪商の家にいる婦人の生活はしばしば王侯貴族の女性のそれを越えていたようである。
しかしながら、商家の婦人にもそれ特有の悩みがあった。唐詩の中には商家の女たちの悩み、恨みを描いた大量の詩がある。それらは彼女たちに共通する心理をじつによく反映しており、また彼女たちの特殊な生活と憂愁の情が社会の注目を浴びていたことを示している。
第一に、商人は東奔西走し、水陸の間を往来したので、波や風、強盗の出没、健康状態、生命の安危などが商家の婦人の最大の心配ごとだった。「那ぞ商人の婦と作りて、水を愁い復た風を愁うるや」(李白「長千行」)、「揚州の橋の辺の少婦、長安の市裏の商人、二二年 消息を得ず。各おの自ら鬼を拝し神に求む」(王娃「江南三台詞」)という状態だった。
第二に、「商人は利を重んじ、別離を軽んじた」(白居易「琵琶行」)ことである。商人は常にあちこち漫游し、数年も帰らず、ある者は花柳の巷に遊び、妻子を忘れ去った。それで商家の婦人たちは往々にして半生を孤独に過ごし、夫婦の長い別離を悲しみ、夫の薄情を恨んだ。「商人の婦と作るを悔む、青春 別離長し」(李白「江夏行」)、「商人に嫁与ぎて頭白からんと欲するに、未だ曾つて一日も双行たるを得ず。君が利を逐うて江海を軽んずるに任すも、風や濤を妾の似く軽んずる英れ」(劉得仁「貫婦怨」)。心配、思墓、寂寞、怨恨、こうした感情は商家の婦人たちの裕福な生活の中における「楽しまざる」ところであった。 唐代の女性の中には自分で商業を経営するものも少なくなかった。しかしながら、彼女たちの大多数は小規模の商売で、大商人の出現などなかったようである。ただ段成式の著した『剣侠伝』の中に、唐代後期のこと、揚州に寡婦として暮らす女商人荊十三娘というものが資産を持っていた話が出てくるが、彼女はきっと富商であったろう。その他の書物に見える者はみな中小商人であり、その中では飯屋、酒屋、旅龍などを開くものが多かった。『太平広記』に次のような話がある。注州の西に板橋店という宿場があり、宿屋の女将の三娘子は一人者だが、広さ数間の家屋を持ち、料理屋を開いて大変豊かであったという話(巻二八六)、洛陽の敏財里に郭大娘という女性がおり、酒場を開いていたという話(巻三八二)、また謝という姓の一婦人が酒を売って生業としていたという話(巻一三四)などである。また『唐国史補』に、王積薪というものが夜旅龍に泊ったところ、主人は丁入の老婆で息子の嫁と一緒に経営しており、雑貨の小売りもしていた、という話がある。また、唐の太宗に仕えた名臣馬周の妻はもともと「蒸し餅売りの女」であった(『甫部新書』丁)。『太平広記』にはその他に「履物売りの老婆」、「着物売りの女」等々の例も記されている。こうした女性たちの大半は都市や田舎町に集中し、東奔西走する行商人ではなかった。
商業を営む女性のなかで、いささか目を引くのは「胡姫」(西域出身の美女)である。彼女たちは中原に移ってきた少数民族の女性で、大半が長安などの大都市で酒場を開いていた。彼女たちの店は特に詩人や名士にひいきにされ、李白などは常々「五陵の年少 金市の東、銀鞍白馬 春風を度る。落花踏み尽くして何処にか遊ぶ、笑って入る胡姫の酒肆の中」(「少年行」)という具合であった。
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2017年5月27日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-023巻183-05 寓言三首其二(卷二四(二)一三九二)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8783 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-95 先生-巻八-01#14城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8784 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#4 寄韓諫議#4 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8797 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (203)回目張泌 《巻四30 浣渓沙十首 其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8786 (05/27) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二18 詠懷詩二首 其一二妃遊江濱 -#2〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8787 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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2017年5月26日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-022 寓言三首(卷二四(二)一三九一) 其一(頁一三九一)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8765 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-94 先生-巻八-01#13城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8778 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-112#3 寄韓諫議#3 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8791 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (202)回目張泌 《巻四29 浣渓沙十首 其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8780 (05/26) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二18 詠懷詩二首 其一二妃遊江濱 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8781 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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六-1、平民労働階級の女性一農家の女性
労働する平民の女性は唐代の女性たちの最も主要な構成部分であり、直接生産労働に参加し富を生みだす主要な源泉でもあった。
一 農家の女性
「男耕女織」、これは中国古代の標準的な農家の生活風景である。唐代の農民は官府に租税を納める外に、なお調として絹、綾、布、綿などを納めねばならず、これらの任務はみな女性たちが担わされていた。少数の豪紳地主の家の女性を除いて、大多数の農家の女性は、その生涯のすべてを養蚕や紡織の仕事に投じた。社会全体の「衣と食」という二つの大仕事は、彼女たちがその半分を担ったのであるが、それと同時に彼女たちは精美な織物を大量に作って古代文明に貢献したのである。 「夫は田中の郎、妾は田中の女。当年君に嫁し得て、君の為に機抒を秉る。筋力は日に已に疲るるも、窓下の機を息めず。如何せん統素を織るに、自らは藍攘の衣を著くるを」(孟郊「織婦辞」)。
これが一般の農家の女性たちの労働と生活の状況であった。
春が来るとすぐに彼女たちは桑の葉を摘み、蚕を飼うことに明け暮れるようになる。「暁夕桑を採んで苫辛多く、好花の時節も不閑身」(来鵠「蚕婦」)。
「桑林棋黒く蚕は再び眠り、婦姑は桑を採んで田に向かわず」(張籍「江村行」)。彼女たちは天の神様に御加護を祈る、どうか繭がたくさん取れますようにと。「但だ青天を得て雨下らず、上に蒼蝿無く下に鼠無からんことを。新婦は族を拝して繭の桐なるを願い……。三日箔を開けば雪く団団、先ず新たな繭を将て県官に送る。已に聞く郷里にては織作を催すと、去きて誰人の身上に著けられん」(王建「族蚕辞」)。
女たちは養蚕の収穫が悪いと悲しんで涙を流す。「春風は蚕を吹き細きこと蟻の如く、桑の芽は後く青鴉の嘴を努す。侵晨に探り采るは誰が家の女、手に長き条を挽きつつ涙は雨の如し。……愁い聴く門外に里骨の催すを、官家は二月に新しき糸を収む」(唐彦謙「桑を採る女」)。
桑摘みと養蚕で多忙を極めているのに、官府は納税を迫るので、女たちは夜を日に継いで乎足を休めず機を織らねばならない。「妾が家は豪門に非ざるに、官賦は日に相い追う。枝を鳴らして夜より暁に達するも、猶お時に及ばざらんことを恐る」(司馬札「蚕女」)。「
貧家の女は富家の為に織り、……水は寒く手は渋み糸は脆くも断つ、続来続去 心腸は爛る。草虫は促促と機の下にて啼き、両日 催して一匹半を成す。宮に輸むれば上頭に零落有りと、姑は未だ衣を得ず 身も著けざるに」(王建「当窓の織」)。
蚕桑、紡織の他に、さらに彼女たちは山菜や野の果実を採ったり、薪を集めたり、米を拠いたりする重労働にも従事した。夜が更けても、村の女はまだ仕事を続けている。「田家 秋作に苦しみ、鄭女 夜 春くに寒し」(李白「五松山下の菊姐の家に宿す」)。
白髪の老婆は、朝早くから夜遅くまで橡の実を拾って家人の食糧にする。「裂仮った黄髪の姐 之(橡の実)を拾って晨霜を踏む。時を移して(しばらくして)始めて掬に盈ち、日を尽して方て筒に満てり。幾びか曝し復た幾びか蒸し、用て三冬糧(冬三ヵ月の食糧)と作す」(皮日休「橡姐の嘆」)。
租税を納めると生活できない貧家の女たちは、ただ麦の落穂を拾って飢えをしのぐしかなかった。「復た貧しき婦人有り、子を抱きて其の傍らに在り。
右の手にて遺ちた穂を秉り、左の背には斂れたる箆を懸く……。家も田も税を輸めて尽き、此を拾いて飢えたる腸を充たす」(白居易「麦を刈るを観る」)。
また、ある貧苦の農婦は日傭いに出ねばならなかった。「貧窮せる田舎の漢、……妻は即ち春稿に客わる」「黄昏 家裏に到れば、米無く復た柴無し」(楊公礦『唐代民歌考釈及変文考諭』第八篇、吉林人民出版社、一九六二年)。山村の女の多くは柴を欲り、それを売って生活した。彼女たちは、「乱蓬を誓となし布を巾と為し、暁に寒山を踏んで自ら薪を負う」(白居易「薪を売る女に代って諸妓に贈る」)。
大部分の女はすでに四、五十歳、頭髪は半ば白くなっているが、なお「十に猶お八九は薪を負うて帰り、薪を売り銭を得て供給に当つ」。彼女たちの生活はきわめて辛いものであり、心は悲しみと苦しみに満ちていた。「面を汝い首を飾るも啼の痰を雑じえ、地は福く衣は寒く石根に苦しむ」(杜甫「負薪行」)。
苛酷な労働、困難な生活は、彼女たちの青春の血と汗を消耗し尽くし、衣服はぼろぼろ、顔はやつれはてた。「粉色は全く無く飢色加わる、壹に人世に栄華有るを知らんや。年年 我に道う 蚕は辛苦なりと、底事ぞ 渾身に苧麻を着くるは」(杜萄鶴「蚕婦」)。
猛暑と風霜の苦しみをいやというほど味わったので、披女たちの顔は黒く髪は赤茶けた。一年中あくせく働いたので、化粧を顧みることもできなかった。詩人によって描写された、ある里帰りの農婦の姿は次のように粗末なものであった。「二升の酸酷をば瓦瓶に盛り、姑姉に請い得たり十日の程。赤黒く眉を両き水に臨んで(水に顔を映して)笑い、草鞄もて脚を苑み風を逐って行く。黄ばめる糸のごとき髪は乱れて槐僚は緊く、青き柁の裾は高く種掠は軽し」(種掠は意味不詳。張結「戯れに村婦に贈る」)。
彼女たちは決して生れつき粗野で醜かったわけではない。ほかならぬ辛く苦労多い生活が早々と彼女たちの青春の輝きを奪い去ったのである。
北方農村の女性に比べると、詩人たちによって描写された江南の女性の労働と生活は、それほど苦労に満ちて重苦しいものではなく、比較的軽やかで活発なものだったように見える。彼女たちの日常の仕事には蓮や菱の実取り、洗濯、機織り、船漕ぎ、牛飼いなどがあった。
「秋江の岸辺 蓮子多く、蓮を採る女見は船に凭りて歌う。青き房 円き実 斉敢栽と、前を争い競って折れば微波を崖らす。試みに緑茎を牽きて下に稿を尋ぬれば、断たれし処 糸多く刺して乎を傷む。白き練もて腰を束ね袖は半ば巻き、玉の鉄を挿さず 汝槐は浅し」(張籍「採蓮曲」)11これは蓮を採る女。
「白馬湖は平らかにして秋日光き、紫菱は錦の如く採鴛翔ける。舟を蕩らす遊女は中央に満ち、菱を採りて馬上の郎を顧みず。多きを争い勝を逐って紛として相い向い、時に蘭の桃を転じて軽浪を破る」(劉瓜錫「採菱行」)-これは菱を採る女。
「玉面の耶渓の女、青蛾 紅粉にて汝う。一双の金歯の殷、両足 白きこと霜の如し」(李白「涜紗石上女」)-これは裸足で紗を洗う女。
* 耶渓は会稽郡にある若耶渓のこと、昔美人の西施が紗を洗ったところという。
「江南の人家 橘樹多く、呉姫は舟の上にて白き苧を織る」(張籍「江南曲」)-これは苧を織る女。
「金釧(金の腕輪) 越渓の女、羅衣 胡粉の香。練を織りて春は幔を巻き、蕨を采りて 瞑に箇を提ぐ」(徐延寿「南州行」)-これは緯を織り蕨を採る女。
「擢女(女船頭)は銀の鈎を飾り、新たに敗して翠楼を下る。……舷を相きて曲浦を過ぎ、帆
を飛して回流を越ゆ」(徐堅「擢歌行」)-これは船を漕ぐ女。
「巴(四川省巴瀧)の女は牛に騎りて竹枝(竹枝詞。楽府)を唱う。扁糸・菱葉 江に傍う時」宇鵠「巴女謡」)-これは巴で牛を飼う女。
「山上 層層 桃李の花、雲間の煙火 是れ人家。銀釧(銀の腕輪)金奴(金の管)のひと 来りて水を負い、長刀短笠のひと 去きて舎を焼く(焼畑をする)」(劉偏錫「竹枝詞」)-これは、水汲みと焼畑をする蜀の女。
こうした労働と生活の風景は、南方の女性たちがあたかも牧歌的な田園生活を送っていたかのように思わせるが、実際は披女たちの生活も詩人が描くような詩情に富むものでは決してなかった。彼女たちにも、北方の姉妹たちと同じように様々な苦痛と困難があった。ただ江南はわりに豊かであり、またこれまで戦乱も一貫して比較的少なかったので、彼女たちが受ける災難はやや少なかっただけのことである。それよりも重要なことは、詩人たちが江南の明るく美しい景色に陶酔して、女性の労働をロマンチ″クに飾り立てて詠んだので、彼女たちの苦労があまり反映されずに終ったことである。
以上述べてきたのは、だいたいが太平の時期における農家の女性たちの生活であり、もし戦乱や災難に遭えば、彼女たちの生活はさらに困難を加え、塗炭の苦しみの中に転落したのであった。男たちは戦争に行き、田畑の仕事のような厳しい農業労働はすべて女の身にふりかかった。貧乏で農具さえ無いような女性たちも、次の詩のようにやむなく野良に出ざるを得なかったのである。
(女の田を耕す行) 戴叔倫
乳燕は巣に入り筒は竹と成り、誰が家の二女(二人の女) 新穀を種う。
人無く牛無く 型・くに及ばず、刀を持し地を析り 翻して泥と作す。
自ら言う 家貧しく母は年老い、長兄は従軍して 未だ嫂を娶らず。
去年の災疫にて 牛囮は空しく、絹を截ち刀を買う 都巾の中。
頭巾もて面を掩い 人に識らるるを畏れ、刀を以て牛に代え 誰と与に同にせん。
姉妹 相い携えて 心は正に苦しく、路ゆく人を見ず 惟だ土を見る。
しかしながら、女性たちの力には限りがある。「縦え健婦の鋤梨を把るも、禾は随畝に生じて東西無し(無秩序である)」(杜甫「兵車行」)というように。好い収穫を得るのはきわめて難しかった。さらに彼女たちは重い挨役を負担しなければならなかった。「婦人は重き役に困しみ、男子は軍に従って行く」、「婦人は州県に役かされ、丁男は征討を事とす」(『唐代民歌考釈及変文考論』第一篇、儲光磯「効古」)。杜甫はある夜、石壕(河南省院県の石壕鎮)という村の農家に泊ったところ、役人が人を捕えて労役に充てるのに出くわした。その家の男はすべて兵隊にとられており、やむなく老婆は自分で労役に服しに行くしかない。「老瘍力衰うと雖も、吏に従って夜帰かんことを請う。急ぎ河陽の役に応ぜば、猶お晨炊に備うるを得んと」(杜甫「石壕の吏」)。官吏は果してこの老婆を連れて行った。戦乱はじつに多くの孤独で寄る辺なき寡婦を生みだしたのであるが、官府はこうした女性たちからも税の徴収を緩めなかった。やむなく彼女たちはさまざまなエ面をして税を納めねばならなかった。
「石間で蕨を采る女、菜を聳ぎて官曹を輸む。丈夫は百役に死し、暮に返り空村に号く」(杜甫「遺遇」)。
* 河陽は河南省孟県に在る。七六〇年、ここで唐将李光弼が史思明の反乱軍を破った。
また次の詩のように、やむなく深山に逃げて野人のように暮らす人もいた。
「夫は兵に因って死し蓬茅を守る、麻苧の衣杉 贅髪焦がる。桑柘 廃し来たるも猶お税を納め、田園荒れて後 尚お苗を微す。時に野菜を挑りて根と和に煮、旋た生柴を析りて葉を帯び て焼く。任い是れ深山 更に深き処なるも、也た応に征婆を避くる計無かるべし」(杜荀鶴「山中 寡婦」)この詩は、戦乱の中の農家の女性たちの悲惨な境
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2017年5月25日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓 C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8771 |
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806年-93 先生-巻八-01#12城南聯句 §2 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8772 |
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Ⅲ 杜詩 |
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767年-112#2 寄韓諫議#2 杜詩詳注((卷一七(四)一五○八) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8785 |
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漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (201)回目張泌 《巻四28 浣渓沙十首 其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8774 (05/25) |
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五-3、下級官吏の家の女性
ここでは主に貴顕の家柄には入らない下級官吏の家の女性について述べる。彼女たちの生活は一般に朝廷から支給される官俸の収入に頼っていた。杜甫が、「生は(生活の上では)常に租税を免れ、名は征伐(微兵名簿)に隷らず」(「京ょり奉先県に赴き詠懐す五百字」)と、自らについて語っているように、
下級官吏の身分の者には一般民衆のような租税や諸役の苦しみはなかった。しかし彼らの官俸は
往々きわめて少なかったので、衣食の心配や飢寒の苦しみは一般的にはなかったにせよ、生活に十分な余裕があるわけでなく、甚だしい時には貧困窮迫を免れることはできなかった。杜甫の生涯は大半が下級官吏の生活であり、妻と娘の生活はかなり苦しく、多年人に寄食して暮らしたのである。
戦乱(安史の乱)によって、「妻と子、衣は百結だらけ」、「床前の両少女、補綴(つぎはぎだらけの衣服)後かに膝を過ぐ」(杜甫「北征」)というありさま。彼は最も貧しい時には薪を背負い、橡の実を採ってその日暮らしをせねばならなかった。暮らし向きがよかった時のこと、ある日杜甫は友人に妻を紹介した。友人は家に帰るとすぐ妻に命じて、杜甫の妻のために夜飛蝉(婦人の衣裳)をおしゃれ用にと送らせた。おそらく杜甫夫人の着物があまりに簡単で質素だったからであろう(張泌『粧楼記』)。元棋が下級官吏である校書郎になった時、家族の生活はわりに苦しかった。彼は「悲懐を遣わす」という詩において、「我を顧みて衣無ければ画箇(衣裳箱)を捜し、他に泥みて酒を浩わんとすれば金奴を抜く。野蔑 膳に充ちて長き董甘く、落葉 薪に添えんとして古き槐を仰ぐ」と、亡き妻の章氏との生活を懐しんでいる。少なくとも生活はそれほど豊かでなかったことが分かる。この階層の女性は一般に生産労働には参加しなかった。といっても彼女たちの多くは、完全に奴僕に任せきりで家事労働から解放されていたというわけでもなかった。小官吏であった王績は官を棄てて家に帰った後、詩の中で「床に倚りて婦の織を看る」と書いている。また白居易は江州司馬に左遷された時、「内子に贈る」という詩の中で「【妻は】寒衣にて灯下に補い、小女は床頭に戯る」と書いている。この階層の女性たちは、しばしば一定の家事労働をやらねばならなかったことが分かる。
この階層の女性たちは出身も教養も低く、また自分の地位が高まる可能性も特にはなかったので、夫の官途が順調で、とんとん柏子に出世することを祈るというのが共通した心理であり、さし迫った願いであった。湛責は一県吏にすぎなかった時、親戚が名士、官僚を招いて大宴会をやった。湛賞はその家の裏の建物で食事を供せられた。彼の妻はそれがたいへん不満で、「男子たるものよく励んで出世しなければ、このような辱しめを受けるのです。どうしてこれが我慢できましーっ」と言って夫を責めた。後に湛責は発奮し、はたせるかな進士に合格した(『唐捻言』巻ハ)。章皐の妻張氏は節度使の娘であった。夫が自分の実家で冷遇されるのを見て夫を励まし、「男子たるものは天下に遠大な志を持つもの。今このような辱しめを受けるとは思いもしませんでした。ああ!」と嘆いた。彼女は化粧箱を金にかえて夫の出世を支え、はたせるかな章皐は後に金吾将軍、西川節度使になった(『雲渓友議』巻四)。これと大同小異の話はたいへん多く、それらを通じてこの階層の女性たちに共通の心理と願望を知ることができる。
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2017年5月24日 |
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五-2、貴族、富貴の家の婦女
《洛陽女兒行》 王維
洛陽女兒對門居,才可容顏十五餘。
良人玉勒乘驄馬,侍女金盤膾鯉魚。
畫閣朱樓盡相望,紅桃綠柳垂簷向。
羅幃送上七香車,寶扇迎歸九華帳。
狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。
自憐碧玉親教舞,不惜珊瑚持與人。
春窗曙滅九微火,九微片片飛花璅。
戲罷曾無理曲時,粧成只是薰香坐。
城中相識盡繁華,日夜經過趙李家。
誰憐越女顏如玉?貧賤江頭自浣紗。
洛陽女児の行 王維
洛陽の女児 門を対えて居り、機かに容顔 十五余りなる可し。
良人は玉の勒もて聴馬に乗り、侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。
両閣朱楼 尽く相い望み、紅桃縁柳 蒼に垂れて向う。
羅韓 送り上く 七香の車、宝扇 迎えて帰る 九華の帳。
狂夫は富貴にして 青春に在り、意気は鵜奢にして 季倫(晋の富豪石崇)より劇し。
自ら憐む 碧玉(侍妾を指す) 親しく舞を教うるを、惜しまず 珊瑚 持して人に与うるを。
春窓曙に滅す 九微の火、九微片片 飛花頂かなり。
戯に罷れて曾て曲を理むる時無く、汝成りて祗だ是れ香を薫らせて坐す。
城中の相識は尽く繁華、日夜 趙李(漢の美女趙飛燕と李夫人)の〔如き富豪の〕家を経過す。
誰か憐む 越女の顔 玉の如く、貧賤にして江頭 自ら紗を院うを。
これは唐代の詩人が描いた貴族の女性たちの富貴にして豪華、優閑にして享楽的な生活の姿である。
《相逢行》 崔顥
妾年初二八,家住洛橋頭。
玉戶臨馳道,朱門近御溝。
使君何假問,夫壻大長秋。
女弟新承寵,諸兄近拜侯。
春生百子殿,花發五城樓。
出入千門裏,年年樂未休。
(相逢の行) 崔顥
妾が年は初めて二八、家は住む 洛橋の頭。
玉戸は馳道に臨み、朱門は御溝に近し。
使君は何ぞ問うを仮いん、夫壻は大長秋(皇后の近侍)。
女弟は新たに寵を承け、諸兄は近ごろ侯を拝す。
春は生ず 百子の殿、花は発く 五城の楼。
干門の裏に出入し、年年 楽しみ未だ休まず。
この貴戚の家の若い妻とその妹は宮中で寵愛を受け、夫や兄弟は侯に封ぜられ、あるいは官となり、彼女の生活は何の憂いも心配もない―(年年 楽しみ未だ休まず)である。
貴族の女性たちといえば、人々はすぐ有名な楊貴妃の三姉妹の韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の三人を思いだすだろう。楊貴妃が寵愛を受けたので、三姉妹は同時に国夫人に封ぜられ、玄宗から各人毎月十万銭を支給されたが、それは専らお化粧代としてであった。平生の皇帝からの賜り物は、さらに多く数えきれないほどであった。彼国夫人の「照夜瓊」、秦国夫人の「七葉冠」などは稀代の珍宝であった。韓国夫人は祝祭日に山上に百本の灯火を立て、その高さは八十尺もあり、煌々たる明るさは月光に勝って、百里の遠くからも眺められた。彼女たちはそれぞれ大邸宅をつくり、その華麗宏壮なることは皇宮に匹敵し、一台閣を造営するごとに費やす金は千万を越えた。もし規模が自分の台閣を越える建物を見たりすると、元のをとり壊して新しく造り直させた。遊覧に出かける時は一家あげて一団となり、みな同じ色彩の衣服を着、彼女たちの乗る車馬とお付きの従僕が道路を塞ぎ、それぞれの牛車の上に飾られた珍宝珠玉の値打は、数十万貫を下らなかった。車が通った後は装身具や珠翠が道いっぱいに落ちていた。ある時、彼女たちは宮中で玄宗の側に侍り音楽を楽しんでいた。玄宗は自ら鼓を打った後、笑いながら秦国夫人に褒美を求めた。秦国夫人は「私は大唐帝国の天子様の姉ですもの、お金が無いわけはないでしーっ」といい、すぐ三百万銭をとり出して笑わせた(以上の話は、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、楽史『楊太真外伝』等に見える)。
当時詩人の杜甫は、名高い「麗人行」なる詩を書いて、この三人の夫人が春遊する豪華絢爛たるさまを次の詩のように描写した。
《麗人行》杜甫
三月三日天氣新,長安水邊多麗人。
態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉勻。
繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。
頭上何所有,翠爲葉垂鬢脣。
背後何所見,珠壓腰衱穩稱身。
就中雲幕椒房親,賜名大國虢與秦。
紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。
犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。
黄門飛鞚不動塵,御廚絡繹送八珍。
簫管哀吟感鬼神,賓從雜遝實要津。
後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。
楊花雪落覆白蘋,靑鳥飛去銜紅巾。
炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。
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2017年5月23日 |
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五-1、貴族、高官の家の婦女(外命婦制度)
この節では、豊かさと高貴さにおいて最高の位置にいた皇室貴戚、官僚貴族の婦人たちに加えて、その他の高貴とはいえない下層官僚の婦人も取り上げる。彼女たちの生活、地位の格差はきわめて大きかったが、官と民とが明確に区分されていた社会の中では、同じ「官」に属し、「民」の女性ではなかった。
一〕 外命婦制度
唐朝の命婦制度では宮中の妃娘はすべて「内命婦」といい、公主、王妃以下の貴婦人を「外命
婦」と称した。外命婦の制度は、次のように規定する。親王の母と妻を「妃」とし、文武の一晶官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三晶官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五晶官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の宇が付け加えられた。もし、夫や子の身分によって封号を授与されたものでない人は、別に封号を加えて某晶夫人、某品郡君、某晶県君等と称した(『唐会要』巻二六「命婦朝皇后」)。封号は原則的にはただ正妻だけに与えられるものであり、側室には与えられなかった。
唐朝の命婦の大半は、夫や子が高位高官であるが故に封号を授けられたか、あるいは夫や子が天子の寵愛を特に受けて授けられたかであり、「母は子を以て貴く、妻は夫を以て栄える」のであった。たとえば、宰相牛仙客の妻は那国夫人に封ぜられ、節度使安禄山の二人の妻は共に国夫人に封ぜられた。韓愈等二十九名の官僚たちの亡き母親は、同日にそれぞれ郡太央人∴国太夫人等々の封号を追贈された。一級下のもの、たとえば剌史の李遜の母などは県太君等に封ぜられた(いずれも『全唐文』にみえる)。その他に、皇親と国戚(外戚)であることによって、封号を与えられたものが少数いた。たとえば武則天の母は栄国夫人、姉は韓国夫人、姪は魏国夫人の封号を与えられた。楊貴妃の三人の姉妹は韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の封号を与えられた。また少数ではあるが、皇帝の乳母や上級の宮人で特に皇帝から寵愛を受けたもの、たとえば高宗、中宗、容宗の乳母は、それぞれ国夫人、郡夫人に封ぜられた。それ以外に、本人が功を立てたとか、あるいは別の事情で封号の授与にあずかったものもいた。たとえば、剌史の鄙保英の妻呉氏は契丹の侵人に抵抗して功を立て、誠節夫人に封ぜられ、県令の古玄応の妻高氏は突疲の侵人に抵抗して功を立て、狗忠県君に封ぜられた(『旧唐書』列女伝)。また、武則天のとき故郷の八十歳以上の女性が郡君に封ぜられた、といった例である。
命婦に封ぜられたものに対しては、朝廷がおおむねその品級に応じて一定の俸料銭(給金)を支給した。『仝唐文』には玄宗の「乳母の賓氏に賜る俸料は三品(官)に準ずる詔」が収録されている。これは、乳母の燕国夫人(賓氏)に三品官を標準として俸給を授与せよと命じているのである。ただすべての命婦が俸給を授与されたかどうかは不明である。『容斎三筆』には、宋代の郡夫人、国夫人などの命婦には「みな月俸の銭米の支給と春と冬の絹布・生綿の支給があり、その数量はきわめて多いものだった」と記載されている。おそらく唐代にもほぼ類似の制度があったと思われる。そのほか、『太平広記』巻四九七には、顔呆卿の妻以降、湖南観察使には特別に夫人の脂粉銭(化粧料)の費目があり、柳州刺史の場合もそうだった、という。しかしこれは特定地域の現象に過ぎないだろうし、この『太平広記』の記載が歴史的事実でない可能性もある。
命婦には皇后に朝見する儀式があった。武則天が皇后になった時から、この大礼が始まった。その後、各代の記念日や祝典には、いつも命婦が皇后、太后に朝見することが慣例となった。憲宗のとき詔を下して次のように命じたことがある。およそ外命婦で皇太后に朝見する儀式に休暇をとって出席しなかったものは、官がその夫や子の一ヵ月の官俸を罰として取り上げる、また儀式にしばしば出席しないものは皇帝に報告せよ、と(『旧唐書』憲宗紀古。どうやら欠席は罰を受けねばならなかったようである。朝廷の命婦はち太っとした公職とみなされていたことが分かる。元棋の妻はかつて郡君の身分で、興慶宮で命婦の班長となって太后に朝見したことがある。この際、元袱は妻に贈った詩の中で、あなたは「興慶にて干の命婦に首行し、……君はこの外に更に何をか求めん」(「初て浙東(観察使)に除せらる。妻に阻色あり、因りて四韻を以て之に暁す」)と述べている。人々の意識においては、官僚の婦人として命婦に封ぜられ、宮中において謁見を賜ることが生涯最大の栄誉であったことが分かる。
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2017年5月22日 |
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Ⅲ 杜詩 |
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767年-集-15 【字解集】 ・e-贈李八秘書別三十韻 ・f.君不見簡蘇徯 ・g.-贈蘇四徯 ・h.-別蘇徯 ・i.- 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8767 |
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四-4、和蕃公主
唐は常に周辺の異民族政権と平和的手段で友好関係を保とうとした。そこで、公主の中に特殊な「和蕃公主」なる者が現れた。彼女たちの大半は皇帝の実の娘ではなく、唐の皇室、外戚などの娘であった。皇帝は一般的に実の娘を遠方の蕃国に降嫁させたくはなかったからである。たとえば、高宗の時代、吐蕃が太平公主を嫁にほしいと要求したが、高宗と武則天は大急ぎで彼女のために道観(道教の寺院)を建立し、すでに出家しているという理由で申し出を拒絶した。しかし、皇族やそれに連なる貴戚は皇帝の権勢に迫られて、自分の娘を和親の役目に差し出さざるをえなかった。これらの女性は嫁入り前は特別な栄誉を与えられたが、実際は替え玉にされた名前だけの公主に過ぎなかった。吐谷渾に嫁した弘化公主、吐蕃に嫁した文成公主・金城公主、契丹に嫁した永楽公主・燕郡公主・静楽公主、契に嫁した固安公主・東光公主・宜芳公主、突騎施に嫁した交河公主、回柁に嫁した崇徽公主等々。彼女たちは宗室の娘、公主の娘、皇帝の姪、あるいはまた帰順した少数民族の指導者の娘などであった。唐の中期以後、国勢は衰退したのズ回屹など少数民族の脅威は唐朝にとってきわめて大きくなった。その上、国内に藩鎮が林立し、皇帝権力が不安定になったので、皇帝は和親という手段を重視せざるを得なくなり、それによって周辺の諸民族と平和共存し、同時に皇帝に対する彼らの支持を取りつけようとした。かくして皇帝は実の娘を和親のために乎放さざるを得なくなったのである。こうして、粛宗の幼い娘寧国公主、徳宗の娘咸安公主、憲宗の娘太和公主らが、先後して遥か遠くの回屹可汗のところへ嫁いで行った。
唐が強盛で和親が成功し、両国関係が平穏で友好的であった時代には、公主たちは中華の故国や父母肉親と遠く離れていても、まだ家族と手紙を交換したり、また使節を派遣して皇帝に謁見したり、特産品を献上することなどができた。朝廷も常日頃、珍品、織物、衣服、書籍などを公主に贈った。彼女たちも異民族の中で常に礼遇され尊重されていたので、自分の地位、知慧、才能によって、少数民族の遅れた風俗習慣、生産、生活のあり方を改善したり、両民族の友好、交流を促進することができた。これは和蕃公主が民族関係に対して果した不滅の貢献である。これら公主の中でも文成公主は人々から最も称讃された人物であった。この聡明で教養のあった女性は、吐蕃の君臣たちの尊敬を受けたのみならず、チベット族の一般民衆からも末永く尊敬と敬愛を受けた。
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2017年5月21日 |
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四-3、貴族高官の娘の婚姻と禮法
唐朝では、公主の婿を選ぶ時には妃を選ぶ時と同じように、特に家柄、出身を重んじたので、公主たちは必ず「華族を選ん」で結婚しなければならなかった。唐朝前期には「尚主(公主の夫)は皆貴戚(天子の親戚)、勲臣(功臣)のバらぺづいハる」(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)のが普通であった。公主は皇室貴戚の家に嫁す例が最も多かったが、また皇室の外甥、つまり長公主(皇帝の姉妹)の息子に嫁すものもあった。当時の人は、皇帝の甥が公主の婿になるのは「国家のしきたり」といっており、こうしたことが最も一般的であったことがわかる。たとえば、太宗の娘の巴陵公主は叔母にあたる平陽公主の息子に嫁し、高宗の娘の太平公主は叔母にあたる城陽公主の息子に嫁し、玄宗の娘の臨晋公主は伯母にあたる代国公主の息子に嫁したというように。また、外戚に嫁した者もいる。たとえば、太宗の娘の長楽公主は母である長孫皇后の甥に嫁し、蘭陵公主は祖母賓太后の一族の男子に嫁し、太平公主は再婚、三婚したが、その相手はいずれも母親(武則天)武氏の一族の息子たちであり、中宗の娘の成安公主は章后の甥に嫁した。その次は勲功ある貴戚や名臣の子弟に嫁す例である。太宗の娘の清河公主は勲臣の程知節の息子に嫁し、臨川公主は勲臣の周範の息子に嫁し、襄陽公主は宰相蕭璃の息子に嫁し、高陽公主は宰相房玄齢の息子に嫁した。皇帝は自分の娘を重臣の家の嫁にやることを恩寵であるとか、龍絡の于段であるとか見なした。実際、娘が王妃となり息子が尚主となるのは貴顕の家の脊であった。郭子儀は「謝男尚公主表(息子が公主を尚るを謝す表)」(『全唐文』巻四四六)の中で、「臣は本来寒門の出身であり、勲臣の家柄でないことを愧じております。……陛下は特にこの賤族を受け入れ姻戚となすことをお許しくださいました。……臣は粉骨砕身しても御恩に報いたとは申せません」と感激した。ここには、自分の家柄が高くないことへの恥ずかしさもあれば、公主がわが家に嫁に来てくれたことに対する感激の気持も表れている。ところで公主の中で、ただ二人だけは例外であったようだ。それは高宗の蕭淑妃の二人の娘である。母親が武則天に罪をきせられ後宮に幽閉されたため、三十歳になっても嫁すことができずにいた。後、二人は宮中の衛士の嫁に降された。
唐の中期以後も、公主たちは依然として貴戚功臣の家に嫁す者が少なくなかったが、しかし婿選びの基準にいささかの変化が生じた。その一つは、詩文に優れた人物を重んじ始めたことである。これはおそらく社会において文学を重んじる風潮が日に日に高まり、科挙の進士科合格者が次第に重んぜられたことによるだろう。憲京は権徳輿の娘婿となった翰林学士の独孤郁が優れた文才をもっていることを羨み、嘆息して「徳輿は独孤郁を婿に得たが、いやはや朕は徳輿に及ばないのか」と言った。そして帝は宰相に、公主の婿を公卿士大夫の子弟で、「文雅にして清貫(侍従等の文官)に居る者」の中から選ぶように命じた。しかし諸家の多くは公主の婿になることを願わず、杜佑の孫の杜悴に白羽の矢が立てられた。憲宗はたいへん喜び、長女の岐陽公主を彼の嫁に与えた(『資治通鑑』巻二三九、憲宗元和九年)。敬宗もまた毎年の科挙合格者の中から公主たちの婿を選ぶよう命じた。宣宗はとりわけ進士を重んじ、宰相に彼らの中から公主の婿を選ぶよう厳命した。
第二の変化は名門貴顕を重んじることから、清廉な家柄で礼法を尊ぶ士族出身者を重んじるように変化したことである。躬示は徳宗、宣宗などの唐中期以後の皇帝たちが、山東士族の家風と礼法に非常な憧憬の念をもったことによる。憲宗は公主に命じて門閥の男子から婿を選ばせようとしたが、宣宗は一般士族の中から婿を選ばせ、愛娘の万寿公主を山東士族の進士鄭顔に、広徳公主を代々儒教の徳行で著名であった于踪に、それぞれ嫁がせた。
その外、唐の中期以後、皇室は衰微し藩鎮の勢いが強くなったので、公主たちの結婚も政治に左右されることが以前より多くなり、少なからざる公主が藩鎮やその武将の子に嫁した。これは婿を選ぶ基準が変ったからではなく、政治情勢に迫られて皇帝が娘を犠牲にせざるを得なくなったことに原因がある。つまり、娘を嫁にやって藩鎖を旅絡し、彼らの忠誠と交換するためであったから、これら公主は時としてまさに人質そのものとなった。たとえば、代宗の娘の嘉誠公主は藩鎮の田緒に嫁し、新都公主は田華に嫁し、徳宗の娘の義章公主は藩将の張孝忠の子に嫁し、憲宗の娘の永昌公主は藩鎮の干頓に嫁した。公主たちの結婚の中で、以上の例は政治的取引が最も濃厚な例であり、また最も不幸な例でもあった。
公主の夫となることは最高の栄誉であったが、しかしこの栄誉を受けようと願う人はいくらもいなかった。公卿の子弟、士族の家系はぴたすら恐れ避けようとし、甚だしい場合はこうした話に怨みをもつ者さえ出た。太平公主は蔀紹に嫁すことになったが、そのため藤家は大いに苦しみ悩んだ。そこで葬紹の兄は族長に教えを乞いに行った。族長は「慎んでおうけなさい」という外なかった。そしてまた嘆息して「恐ろしいことになったものだ」といった(『資治通鑑』巻二〇二、高宗開耀元年)。宣京が公主の婿を選ぼうとしたが、「衣冠(公卿大夫)は多くこれを避けた」(『旧唐書』于休烈附于踪伝)。そこである人が進士王徹を推薦したところ、王徹は「それを聞くと憂いが顔にあらわれ」、宰相に哀願してやっと逃れることができた(『旧唐書』王徽伝)。前出の山東士族の鄭頴はすでに同じ士族の盧氏の娘と結婚を準備していた。ところが白敏中の推薦によって公主の婿にさせられた。それで彼は白敏中を怨み、いつも皇帝のところで彼の悪口を言った。
このように人々が公主を嫁にするのを恐れたのは、第一に政治闘争に巻き込まれたり、皇室の権勢に翻弄されたりして故無く禍が身に及ぶことが心配だったからである。唐代に「婦を娶りて公主を得れば、事無くして官府に取えらる」(『資治通鑑に巻二〇二、高宗開耀元年』という諺があった。この諺は人々が公主の婿になることを敬遠した気持をよく表している。こうした情況はどの王朝でもみな同じであった。
第二の理由は公主の騏慢と無礼を恐れたためである。こうしたことは、特に唐代に顕著であったが、それは唐の公主が元来きわめて猛々しく礼儀をわきまえないことで有名だったからである。唐の皇室がそもそも儒教の礼法を重んじず、公主もまた子供の時から贅沢で安逸な生活を送っていたので、幼くして縞慢で放縦な性格が身についていた。宣宗の娘の広徳公主は父と一緒に食事をしていた時、かんしゃくを起しその場で箸を析った。宣宗は嘆息して「性質がこんなでは、どうして士大夫の妻になるこ妁砂できよう」(『資治通鑑』巻二四九、宜宗大中十三年)と歎いた。公主たちは嫁に行っても権勢を侍んで常々勝乎気ままに振舞い、倫理道徳も女性の礼儀も眼中になかった。「公主たちは自ら多くの役人をかかえ、……夫の屋敷内に別の邸宅をかまえて家族と会わず、自分の親戚ばかりをたくさん集めて宴会を開いたり、あるいは遊びにくり出したりした。夫はそれにあずかることができなかった」(『中朝故事』)。公主の夫が公主と顔をあわす時は婢僕と同じで、偉そうな態度を取れなかった。「公主は自分のしたいことだけを行い、夫と数日間も顔をあわせないことがしばしばあった」(同前)。
高陽公主は、夫をその兄から分家させるために、義兄を左遵させようと考え、彼が自分に無礼な振舞いをしたと嘘の訴えをした。しかし彼女自身はといえば、ある僧侶と密通して億万もの宝石や金銭財物を彼に貢いでおいて、夫には二人の女性を見つくろってあてがった。また宜城公主は人を派遺して夫が外に秘かに囲っていた妾を連れて来させ、耳鼻を削ぎ落とし、陰部の皮をはいで夫の顔にかぶせ、さらにまた夫の頭髪を切り落とし、禿頭のまま役所で裁判の審議を行わせ、官吏仝員を集めて見物させた(『朝野命載』補輯)。こうした公主たちの所業は、まさに当時の社会風潮と権勢とが結びついて生れた産物であった。千年来、夫は妻の大綱であると見なされてきた中国社会の中で、女が男の大綱であるという、母系家庭に忍従し慣れることは、男にとっては大変難しく、また妻の勝手気ままを容認することは言うまでもなくさらに一層難しかった。人々がどうして公主の婿になることを水火の禍のごとくに恐れ避けようとしたか、理解することは困難ではあるまい。
唐の中期、後期になると、皇帝は益々儒教の礼法を重んじるようになり、公主たちの無礼な振舞いは常々自分たちの休面を損なうと感じられるようになったので、彼女たちを礼法で縛ろうと考え始めた。徳宗の時代以前には、公主が嫁いでくる時に、婿の両親は嫁に敬礼をしなければならなかったが、嫁の方は答礼しなかった。徳宗は儀礼官に礼法をつくらせて、公主たちにも普通の人々と同じように夫の両親や年長者に拝礼をさせた。宜宗も士族の家に嫁した万寿公主に必ず婦人の礼儀を守らなければならないと言い、夫の一族を軽視することを許さなかった。ある時、夫の弟が病気で危篤になったが、万寿公主は芝居見物に行った。宣宗は腹を立て嘆息して言った、「朕は士大夫の家がわが家と姻戚になるのを願わないことをかねて不思議に思っていたが、誠によく分かった」と(『資治通鑑』巻二四八、宜宗大中二年)。そしてただちに公主を宮中に呼びもどし、ひとしきり厳しく説教して帰らせた。これ以後、公主たちは山東の士族のように礼を守り、再び勝乎な振舞いをしなくなったそうである。皇帝の教訓と躾によって、公主の中には婦人の礼儀を守り、謙譲でしとやかで、鵜り高ぶった態度を取らない者も現れ、彼女たちは人々から賢婦と称された。たとえば、憲宗の娘の岐陽公主、宣宗の娘の広徳公主などがそうした例であろ。しかし、こうした事例はきわめて少なく、しかもその大半は中唐以後、皇帝が礼法を提唱するようになった後のことである。
人々が公主を嫁にすることを願わなかったというのであれば、公主たちはその結婚から何を得ることができたのだろうか。当然のことながら、彼女たちの結婚と家庭生活の大半は不幸なものだったといえよう。その結婚はたいてい政治的取引きであったから、婿選びは各種の政治的要素や家柄を考慮に入れて行われ、人物、才能を重んじることはまずなかった。もちろん、公主たちの個人的感情が考慮されるようなことは決してありえなかった。このことは彼女たちに夫に対して強い不満を持たせる結果となった。高祖の娘丹陽公圭は武将で功臣の蔀万徹に嫁したが、藷は愚鈍で才気が無かったので非常に嫌い、数カ月も夫と同席しなかった。後に高祖は酒席を設けて二人を和解させようとし、遊戯の最中に皆の前で故意に婿の藤に負け、褒美として佩刀を与えて公主の機嫌をとったので、やっと彼女は夫と仲良くなった(劉鯨『隋唐嘉話』巻中)。公主の婿の多くは皇帝の権勢を恐れたり、あるいは功利のために公主を嫁に迎えただけであり、彼女たちに仝く好感をもっていなかった。こうしたことは、おのずから公主の結婚と家庭の不幸の原因となった。結婚の失敗、貞節観念の稀薄、皇帝の子が持つ権勢、この三つが結びついて、公主たちを勝手気ままにさせ、別に愛人を持つことをごく一般的現象にした。ある公主などは男妾の大集団を擁するまでになった。男女関係の上で、彼女たちは唐代の女性の中で最も自由気ままな人々であった。
この他、唐代の公主の結婚について、以後長く人々から注目されたのは、その再婚の風潮である。これらについては、後に「愛情、結婚及び貞操観」(第三章第八節)で詳しく紹介する。
2017年5月20日 |
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四-2、公主の生活、婚姻、権勢
公主たちは封戸からの収入あるいは国が支給する銭、絹によって生活した。その生活状況はどうであったか。
玄宗の開元年間を例にして大雑杷な統計を出してみたい。祖庸調制の規定では、壮丁一人当り毎年租として粟二石、調として絹綾等二丈、綿三両を納付した。もし公主たちが一人当たり食実封千戸を給され、また戸ごとに三人の壮丁がいたとすれば、公主の収入は毎年粟米六千石、絹等六千丈、綿九千両ということになり、彼女たちが贅沢三昧の生活を送るに充分であった。この数字はおよそ各時期の公主たちの収入の中等以上の水準を表している。それ以前の中宗の時代、太平公主たちの収人は、この数字をはるかに越えていたようである。玄宗は公主たちの収人が多過ぎたので、彼女たちに「倹約を分からせ」ようとして、削減を行った。唐の後期になると国家財政は困窮し、公主たちの収人もおのずからかなり少なくなった。
ここで述べたのはただ正規の収入だけであって、公主たちにはまた別途の収入源があった。その一つは皇帝の賞賜である。同昌公主が嫁に行く時、父紀宗は宮中の珍宝をことごとく嫁入道具として持たせてやった。こうした種類の収入は値うちの計りようがない。第二は詐取強奪である。公主たちは常に大荘園主であったから、多くが田園、礪確(水車、又は畜力にょる石臼)を経営したり、高利貸をやって利を謀ったり、あるいはあからさまに権勢を振って他人の財産を強奪したりした。太宗の時、大臣たちは公主が高利貸をやって十分の一もの高利を取っていることを非難したことがあった。また太平公主らの封戸に対する過分の搾取は、大臣たちに「刻剥、過苦きなり」といわれた(『旧唐書』高季輔伝)。強奪による収入はおそらく封戸の納める税収より多かったに違いない。この種の風潮があったため、「皇帝の賜金の外に、寵愛を侍んで私利を謀ることをしない」とか、「租税収人以外に人と利を争わない」(『全唐文』巻六三一、呂温「大唐故紀国大長分主墓詰銘」)といったことが公主たちの美徳になった。このような合法的収入や非合法の掠奪によって、公主たちの大部分は豪奢な
生活を送っていたのであった。
唐代の公主のなかで、最も高貴を鼻にかけて鵜り高ぶり、最も横暴極まりないことを行った者として、太平公圭、安楽公主、長寧公圭の三人を数えることができゐ。太平公主は武則天の愛娘であることを侍み、また中宗、容宗を擁立した功績があったので、その権勢は天下を傾けるばかりか、富は帝王に等しく、また政治、経済の力も公主の中で最大のものとなった。彼女の所有する田園は京畿のいたるところにあり、階右(甘粛省蘭州、輦昌一帯)の牧場には一万頭に上る馬があり、家の中には珍奇な宝物が無数にあり、また美しい絹の衣裳を着た侍女が数百人もいた。彼女が権勢を失い死を賜った時、家産は没収されたが、その時発見された財宝は山のごとくであり、皇帝の内庫の宝物を越えていた。牧舎の羊、馬、土地からの利息収人などは数年間にわたって調査し国庫に収めたが、それでもなお尽きなかった。安楽、長寧の両公主は中宗と章后の娘であり、両親の寵愛を侍んでほしいままに土地、財宝を強奪し浪費の限りを尽した。安楽公主は人を派遺して珍しい鳥の羽や、獣の毛を集め「百鳥毛祐」(無数の羽毛で織ったスカート)をつくり、その一枚は一億銭にも値した。彼女は民田十九里四方を強奪して定昆池という池を掘り、石を積んで山となし、水を引いて谷川を造った。また珍しい石や宝石で飾り立て、天下第一の壮麓さを極め、そのありさまは宮廷の禁苑を越えていた。彼女はまた、一般民衆の家屋を取り壊して大規模な自分の役所を作り、そのため宮中の内庫の貯えを空にしてしまった。長寧公主は両京(西都長安、東都洛陽)で民田を占拠して邸宅を作った。東都にあったその一邸宅は都城一〇八坊中の一坊を占め、そのうえ三百畝の広さの池があった。長安にあった一邸宅は、二十億銭にも値した。彼女たちの夫も贅沢な生活をし、こともあろうに地面に油を浸みこませたポロの球場を作るほどだった(安楽公主の夫が影耶『新唐書』外戚41)0公主たちはまた一般民衆の子女を掠奪して奴婢こしたり、民を使役して大いに仏寺をつくったので、当時の大臣から皇帝に報告され、「人の力を燭にぺ人の財を費し、人の家を奪う」(『資治通鑑』巻二〇九、中宗景龍二年)と指弾された。
これ以後の公主たちの権勢はこれほど膨脹したことはなかったが、しかし贅沢の風潮はなお遍く行き渡っていた。玄宗の時代の公主たちは贅沢な料理を献上し、「一皿の料理が十戸分の中等の家の資産を越える」(鄭処海『明皇雑録』補遺)といわれるほどだった。徳宗の貞元年間、義陽、義章の両公主は、それぞれ墓地に百余間もある祠堂(先祖の霊を祭る堂)をつくり、銭数万梧(一紺は銅銭一千枚)を費やした(『旧唐書』李吉甫伝)。同じ時期、十一人の県主が同時に嫁に行ったが、それぞれ三百万銭を支給した。これにはまだ衣服、装身具の費用は入っていなかった。皇帝がこの費用を計算させたところ、花柄の装身具一旅だけで一人につき七十万銭であった。徳宗は、これは浪費に過ぎるといって三万に減額した。しかし残った六十余万銭もそれぞれ県主たちに与え嫁人り費用にしてしまった(『旧唐書』徳宗順宗諸子・珍王誠伝)。公主のうち、贅沢さで有名な人物としては、姑宗の愛娘同昌公主をあげねばならない。彼女の部屋の扉や窓はすべて珍宝で飾られており、井戸の囲い、薬を調合する臼、食器入れ、水槽、それに鍋、碗、ぴしゃく、盆などは金や銀で作られ、ザルや旅、箕は金を散りばめ、床は水晶、瑠璃で飾り、食器類は五色の玉器でつくられていた。さらにまた連珠帳(珠を連ねた帳)、却寒簾(防寒用カーテン)、鵡鵠枕(雄の羽でつくった枕)、鼎翠匝(ひすいの箱)、火蚕綿(四川の茂県産の良質綿)、九玉欽(九っの玉のっいた祷)、龍脳香【香料の】種)などの各国から献上された珍宝もあった。公主が家で食べる料理も珍味で貴族さえ知らないほどのものであったが、公主の方はそれを糟や糠のように粗末にした。一説によると、彼女の死後家中の器物を一緒に焼いたが、人々は争って灰の中から金銀珠玉を拾ったそうである。彼女の豪勢で贅沢な様は、人々から漢王朝以来のどの公主にもいまだなかったことだと噂された(蘇鴉『杜陽雑編』巻下、『太平広記』巻⊇二七)。
公主たちの豪奢の風は一般的となり、また常に彼女たちは世間で不法、横暴を働いたので、代々の皇帝たちも常に頭痛の種と感じ、それを制限せざるをえなかった。文宗の時、帝は公主たちがあまりに華美で高価な装身具を身につけることを厳禁した。ある時、帝は宴会の席上で延安公主の衣服の裾が広すぎるといって即座に追い返し、その夫に罰としてニカ月分の減俸を行った(『旧唐書』后妃伝下)。徳宗の娘の義陽公主はみだりに横暴な振舞をしたので、徳宗から宮中に監禁された。穆宗の娘の安康公主なども、宮廷の外で騒動を起こしたので、宮中に連れもどされて住まわされた。