詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと 《§-1 女性文学者班昭》Ⅲ-§-1-2『女誡』七章
2018年4月10日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固-父の遺志をつぐ Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
中国史・古代女性論
Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
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2 『女誡』七章 |
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Ⅲ-§-1-2 『女誡』七章
『女誡』七章
班昭には『漢書』続修のほかに、編著として『女誡』七章、「賦頌」十六篇などがある。そのうち『女誡』七章は、そのはしがきの末尾にも
妾はいま病重く、いつ死ぬかわからない。おん身たちが、こんなさまでは常に気がかりです。このごろ『女誡七章』を作る。どうか、女たちよ、それぞれ一通ずつを写しておいてください。おそらく、おん身らのためになります。さようなら。しっかりしてね。
とあるように、かの女の娘や孫娘たちのために綴った戒めであり、それは一般女性への躾の書、「女大学」として知られる。
班昭の『女誡』は七章(七篇)より成る嫁の心得であるが、要約すると、つぎのようである。嫁ぎ先の義母に理不尽に離婚、実家に帰されるという事が一般化されて入れていた時代の『心得』である。
第一章 卑弱 もの柔らかな態度で人にヘリ下れば、誉められる。
(1)女は謙譲・恭敬であって、人にへり下るよう心がけること。
(2)夜はおそく寝、朝は早く起きて家事につとめること。
(3)心清らかに静かな態度で夫に仕、え、心をこめた酒・食をととのえて、先祖に奉仕すること。
第二章 夫婦 男の子と女の子は、夫婦の道にかなうよう教育されねばならない。
夫婦の道を重んじるには、男子は夫としてふさわしく、古典を教えて身を慎ませ、女子は妻たるべく躾け教育しなければならない。
第三章 敬慎 女子は敬慎(順) が第一である。
男子は剛に、女子は柔であらねばならないから、敬順の道(辛抱づよく寛容なこと)が婦人の最高の礼である。夫婦の争いは敬順の道に欠けることから起こる。
第四章 婦行 女の行いには婦徳・婦言・婦答・婦功の四つが大切である。婦徳とは、清閑・貞静・守節・整斉を保つこと。婦言とは、ことばを慎み、考えてものを言うこと。婦答とは、身なりを清潔にすること。婦功とは、紡績につとめ、酒・食をととのえて客をもてなすこと。この四行を実行するには、やさしい心がけ一つで足りる。
第五章 専心 夫一人を大切にすること。
夫一人に対し、専一に顔色を正し、清潔に礼儀を守りとおす。
第六章 曲従 舅・姑には曲げて従うこと。
夫に愛されるためには、舅・姑(夫の父母)に気に入られるよう、我意をおさえ、曲げて従うこと。
第七章 和叔妹
夫の妹(叔妹)と仲よくすることは、かの女らを通じて舅・姑にも愛されるようになり、ひいては夫の気に入ることにもなる。したがって、叔妹の心を失わないためには、しとやかで謙遜に、叔妹と誼をあつくせねばならない。
班昭の『女誠』は文章こそ平易であるが、その内容は、かの女の長年の生活経験にもとづいて『詩経』、『礼記』、『論語』、『白虎通』など巧みにとりいれており、これほど細心にゆきとどいた家庭の子女訓は少ない。この書は当時、後漢朝の知識人たちから、もてはやされ、碩学馬融もこれをみて感動し、妻や娘たちに読み習わせたという。
このような子女訓を通じてみても、後漢時代は、ただ単に学問や文学・芸術などにすぐれていたばかりでなく、一般家庭における子女の教育も、倫理観の薄い時代ではあるが、儒教的秩序で貫ぬかれていた。
班昭は和帝の崩後、和真鄧皇后が太后として摂政105~121)になると、かの女は太后の相談役となって政事にも関与しているが、この点でも、かの女の才気と教養が役立ったようである。
二人の兄のうち、長兄の班固は、六十一歳で非命にたおれたが(九四ページ)、次兄の超と、かの女とは、ともに七十歳をこえる長寿を保った。かの女の死に際して鄧太后は、みずから素服をつけて、哀悼の意をあらわすとともに、勅使を遣わして葬儀を監督させている。いかに太后の信頼が深かったかがわかるであろう。ちなみに、一子の曹成は、かの女多年の忠勤の功によって、はじめ関内侯に封じられ、のち山東の斉国の宰相となった。