詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと 《§-2 班家の世系》Ⅲ-§-2-1班家の世系
2018年4月11日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと 《§-2 班家の世系》Ⅲ-§-2-1班家の世系 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10469
中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固-父の遺志をつぐ Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
中国史・古代女性論
Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
§-2 班家の世系 |
Ⅲ-§-2-1 班家の世系 |
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§-2 班家の世系
Ⅲ-§-2-1
班家 の世系
前Blogで班昭の人となりや、その高才・博学について略述したが、ここでかの女を育てはぐくんだ班家、学問の家系としての珪家の人びとについて、みてみることにする。
班固の『漢書』巻一〇〇「叙伝」によると、班家の先祖は、楚国の令尹(家老職)の子文の
後であるとい、えば、古く戦国時代の楚国の名族であったことがわかる。前二二三年に楚国が秦国にほろばされると、晋・代の間(山西北部)に移り住んで班氏を名のり、牧畜生活に入ったといわれる。班姓を名のった初代の班壹は、始皇帝の末年ごろには楼煩(山西省雁門)で馬牛・羊数千群を所有し、やがて漢初の孝恵帝および呂太后摂政時代には、北辺の一大豪族になっていたらしい。
この豪族の一子班孺は、任侠をもって州郡の信頼をえたが、孺の子班長になると、仕官して上谷(河北省延慶)の守(長)となり、長の子の回も茂材から長子(山西省長子)の令(長官)となった。回の子の況は孝廉の官にあげられ、功をかさねて上河の農都尉から、さらに左曹越騎校尉に任じられ、またその女は前漢朝第十一代成帝(前三三〜前七) の後宮に入内し、文才と婦徳をもって寵をえ、捷伃(女官の一位階)の官にのぼったので、一家は晋・代の本籍をはなれて、首都の長安に従り住むことになった。
こうして、班家の人びとが田舎まわりの役人から中央の官吏として指頭することができたのは、まったく班婕妤(捷伃)のお蔭である。
班況には班捷伃のほかに、伯・游・穉の三人の男子があった。長子の班伯は容貌が端麗で、儒学を好み、身を持すこと倹ましく、はじめ奉車都尉の官となったが、たまたま匈奴の単于が来朝したとき、その警護にあたって功があり、定襄郡太守を拝した。高級官僚の末席くらい、といってよかろう。しかし、やがて中風を病み、侍中光禄大夫として東宮侍従を命じられ、朝 延の信任が厚かったが、病のため三八歳で歿した。
ちなみに、定襄郡の郡治は、今日の内蒙古自治区の首都呼和浩特市の北郊にあたり、漢代には匈奴族を控制する要地であった。
次子の姓游も儒学の教養ふかく、博学俊才の名が高かったので、賢良方正の科目に及第し、やがて諌大夫・右曹・中郎将に進み、碩学の劉向とともに宮廷の秘籍の校訂にあたったが、これが機縁になって班氏の家学が生まれたわけである。
第三子の班穉は少くして黄門郎中、常侍となり、第十二代哀帝(前七〜前一)が即位すると、広平郡(河北省永年)太守を拝した。穉は王莽と親しかったが、漢末喪敗の際にも軽挙妄動せず、よく節を守って班家を安泰ならしめることができた。班回の父班彪は、この班穉の子であった。こうして班家は始祖の班壹から班彪に至るまで七世をへたといわれる(世系略表参照)。