詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-9)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》1.)家柄・性格の相違
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(Ⅱ-9)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》1.)家柄・性格の相違 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10406
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中国史・女性論 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-3 項羽と劉邦の人物評価
最後に、項羽と劉邦の人物評価を行って、このⅡ編をむすぶことにしたい。司馬遷は『史記』の巻七「項羽本紀」と巻八「高祖本紀」とでは、意識して両者を対照的に描いているように思われる。
しかし司馬遷は、漢帝国第七代の孝武帝(武帝)に仕えた人なので、高祖劉邦に対しては、どうしても遠慮がちなところがみられ、劉邦に都合のわるいことは、「高祖本紀」ではなるべく省略しているようにみえる。これは、誰しも成功者、建国者に対しては、筆が甘くなるのは免れがたいことかもしれない。そのうえ、司馬遷が『史記』、とくに楚漢時代の歴史を描くのに参考にした資料の多くは、漢代に成ったもので、たとえば、『漢書』の「司馬遷伝」には遷が『史記』に参考にした主要な資料として、秦以前は『左氏伝』、『国語』、『世本』、『戦国策』などを、また楚漢篇では陸賈―楚国の儒生ではあるが、漢の高祖に仕えて重用された人である―の『楚漢春秋』などをあげ、劉知幾も「子長(司馬遷)は、楚漢期の事件を述べるにあたっては、もっぱら『楚漢春秋』によった」という。このほか司馬遷は、かれが二十歳代の青年期に、項羽や劉邦の古戦場を旅行して探訪した口碑・伝承などの資料をも活用したと思われるので、これらにも漢がわのものが多かったであろう。このような事情は充分考慮にいれて、項羽・劉邦の両雄を評価しなければなるまい。
(Ⅱ-8)中国史・女性論 |
§-3 項羽と劉邦の人物評価 |
1.) 家柄・性格の相違 |
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1.) 家柄・性格の相違
さて、項羽についてみると、かれは楚國の項(河南省項城県)の城主で将軍の家柄の出身であったといえば、根からの軍人であり、劉邦にくらべて武人としての毛なみは、ずっとよかった。その人となりは、『史記』にみえるところからすれば、偉丈夫で力は強く、かつ才気もすぐれていたので、呉中(蘇州)の青年たちから畏敬されていたというが、そのすぐれたオ気がかえって邪魔したらしく、書を学んで成らず、剣を修業しても成らず、それをとがめた叔父の項梁に「書はただ姓名を記すことができればよく、剣は一人の敵を相手にするにすぎない。じぶんとしては万人の敵を相手にできるようなものを学びたい」といったので、項梁は兵法を教えたところ、かれはおおいに喜んだものの、そのだいたいを学ぶと、もはやそれ以上には努力しようとしなかった。
このように項羽は、家柄のよさと、人なみすぐれた体力と才気とによって、世をも人をもおそれない、奔放不覇な豪傑肌の性格をもっていたようである。それについてはよい例がある。
かつて項羽は、叔父項梁とともに、江東の会稽郡を巡遊して銭塘江を渡る始皇帝をみて、「自分は彼にとって代わってやろう」(彼可取而代也。)と叫んだというが、このことばからも、かれの胸中にひめた大きな野望と大胆・率直さとがうかがわれるであろう。項羽のこのあけすけな放胆さは人間的魅力であったろうが、半面思慮の浅さでもあった。
それに対して劉邦は、かれがかつて夫役のため咸陽の土木工事にかり出されたとき、始皇帝をかいまみて発したことばは「ああ男子たるもの、かくありたいものよ」(嗟乎、大丈夫当如此也)であったという。これらのことばをくらべても、両人の性格の議がわかるであろう。前者は率直・放胆だが思慮が浅く、のちにみるように、喜怒愛憎の感情の変化がはげしい。後者は憤重で用心深く、たやすくは心の中を人にみせない。
なお劉邦の性格については、さきにもいったように、司馬遷は少々ほめすぎて、「情深くて愛情があり、人に対しよく恵み、その心は寛容で太っ腹なところがあったが、家人の農作業など一向に手伝おうとしなかった」(伝而愛人、喜施意豁如也、常有大度、不事家人壹作業)とい、えば、いわゆる游侠的性格で侠客肌であったようである。かれはまた多少の読み書きもできたので、亭長という下級官吏となったが、亭長になると、その持ちまえの性格は、多くの人びとをひきつけた。
つぎの逸話は、亭長としてのかれの游侠的性格(侠気)をよく語っている。
あるとき亭長の役がらとして、沛県のために労務者(囚人)を監督して鄜山(咸陽付近)まで送ってゆく途中、かれらの多くは、労役をさらって逃亡したので、かれは処罰を覚悟して残りのものたちをみな放免してやったところ、かれの侠気に感じた十数人のものは、ついにかれの子分となった。
このように身の危難もかえりみず、法網をおかしても人びとの窮状を救うという侠気に、部下たちはひかれたのであり、建国の功臣として知られる斎何や曹参・張良・周昌らも、かれの魅力にひかれた人びとである。