詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-3 班固と『漢書』》Ⅲ-§-3-5.晩年の班固
2018年5月01日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-3 班固と『漢書』》Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10518
中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固とその兄妹の生き方 Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記』 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
中国史・古代女性論
Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
§-3 班固と『漢書』 |
Ⅲ-§-3-5. 晩年の班固 |
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5. 晩年の班固
さて班固が、後漢代の学術界に重きをなし始めたのは、第三代章帝の建初四(79)年、彼が48歳の時、勅命によって白虎觀に諸生・諸儒が会同して五経の異同を講学討議したころからである。そのころ、かれはまだ『漢書』を修史中であったが、碩学の一人として詩学に列なり『白虎通義』(六巻)を選述した。これについて『後漢書』章帝本紀には、このとき白虎観に会同した学者は、『班固年譜』の考証によれば、班固のほか楊終・魏応・淳子恭・李育・賈逵・張酺・魯恭・桓郁・丁鴻・召馴・楼望・劉羨ら十二人をかぞえたといわれる。ついで、かれは元和三(八六)年と、その翌年の章和元年には、礼楽改定の問題に関しても、章帝のお召しをうけ、叔孫通の『漢儀』十二編をのぼせた(『後漢書』曹褒伝)。
これよりさき、班固が『漢書』を脱稿し終える前後から、後漢では匈奴問題が政治上・外交上大きくクローズアップしつつあった。もともと匈奴と漢朝との関係をみると、前漢の武帝の討伐以後、匈奴はその本拠を長城地帯から北モンゴリア、今日のウランバートルの北西万に移したが、かさなる天災と単于位の継承をめぐる内輪争いによって東・西に分裂し、東方勢力を代表する呼韓邪単于一世は前五一年、ついに漢朝に帰順した(Ⅳ編第二節匈奴王に嫁いだ王昭君一三六ページ参照)。その後前漢がほろんだのち、王莽の匈奴政策の失敗や赤眉の反乱などによる中原の混乱に乗じ、かれらは攻勢に転じて北辺に侵冠をくりかえした。
しかし後漢朝にとって幸せなことには、やがて、かれらは再び内紛から南・北の両政権に分裂して抗争しはじめ、北匈奴部に敗れた南匈奴部(呼韓邪単于二世)は後漢朝に来降してきたので(四八年)、後漢朝では、かれらを長城内に遊牧させて北匈奴部防衛の役わりを負わせた。
孤立した北匈奴部は、後漢軍と南匈奴軍とに挟撃されるのをおそれて、しきりに和親を求めてきたため、南・北匈奴部に対する処置が後漢政府にとって大きな問題となってきた。班固も北匈奴部対策について献議するところがあったが、かれの主張は、あくまでも前漢の宣帝時代および後漢の武帝・明帝時代のような懐柔・羈縻策を踏襲すべきことであった。こうして班固は匈奴問題に深いかかわりをもつことになったのである。
章和二(八八)年、班固が五十七歳のとき母の喪にあい、一旦は官を去って喪に服したが、翌永元元年には車騎将軍竇憲の北匈奴征伐に中護軍としてその帷幕に参じ、北匈奴単于を追って遠く北モンゴリアの燕然山(杭愛山)にまで至り、漢の威徳を作文し石に勒して(燕然山の銘)凱旋した。賓憲はかつて父の彪が恩顧をうけた睾融の曽孫にあたるが、班国が北旬奴討伐
に従軍したのは、このような縁故からであろう。
ところが、軍功をかさねて大将軍となった竇憲が、永元四(九二)年に、和帝暗殺の陰謀を
くわだてた罪科で死を賜うと、憲との深い関係が禍いして班固も連座の罪に問われて官を免じられ、ついでまた洛陽令に対するかれの家奴の非行にも連座して投獄され、同じ年獄中に非業な死をとげた。六十一歳であった。こうして晩年の姓固は、政争にまきこまれ、ついに非命にたおれて『漢書』を完成することができなかった。それにしても、司馬遷といい班固といい、稀有の史才をいだく身ながら、はからざる禍によって、一人は死にまさる腐刑に泣き、一人は獄中に横死したことは、ともに相似た悲運な星の下に生まれた人たちといえようか。
なお、班国には『漢書』のほか『白虎通義』(白虎通)、洛陽・長安両都をうたった『両都賦』、『幽通賦』、『燕然山銘』などが有名であって、『両都賦』は三十三歳、『白虎通義』は四十
八歳のときの述作である。