詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月20日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-020-#3巻181-26 商山四皓(卷二二(二)一二九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8741 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-82 先生-巻八-01城南聯句【案:韓愈、孟郊】【案:此首又見張籍集。】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8706 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-110#2 別蘇徯#2 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8755 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (196)回目牛嶠二十六首《巻四24西溪子一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8744 (05/20) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
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玉集-013【字解集】 樂府三首 ・樂府 棄婦篇の【字解集】 〔曹植〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8745 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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四-2、公主の生活、婚姻、権勢
公主たちは封戸からの収入あるいは国が支給する銭、絹によって生活した。その生活状況はどうであったか。
玄宗の開元年間を例にして大雑杷な統計を出してみたい。祖庸調制の規定では、壮丁一人当り毎年租として粟二石、調として絹綾等二丈、綿三両を納付した。もし公主たちが一人当たり食実封千戸を給され、また戸ごとに三人の壮丁がいたとすれば、公主の収入は毎年粟米六千石、絹等六千丈、綿九千両ということになり、彼女たちが贅沢三昧の生活を送るに充分であった。この数字はおよそ各時期の公主たちの収入の中等以上の水準を表している。それ以前の中宗の時代、太平公主たちの収人は、この数字をはるかに越えていたようである。玄宗は公主たちの収人が多過ぎたので、彼女たちに「倹約を分からせ」ようとして、削減を行った。唐の後期になると国家財政は困窮し、公主たちの収人もおのずからかなり少なくなった。
ここで述べたのはただ正規の収入だけであって、公主たちにはまた別途の収入源があった。その一つは皇帝の賞賜である。同昌公主が嫁に行く時、父紀宗は宮中の珍宝をことごとく嫁入道具として持たせてやった。こうした種類の収入は値うちの計りようがない。第二は詐取強奪である。公主たちは常に大荘園主であったから、多くが田園、礪確(水車、又は畜力にょる石臼)を経営したり、高利貸をやって利を謀ったり、あるいはあからさまに権勢を振って他人の財産を強奪したりした。太宗の時、大臣たちは公主が高利貸をやって十分の一もの高利を取っていることを非難したことがあった。また太平公主らの封戸に対する過分の搾取は、大臣たちに「刻剥、過苦きなり」といわれた(『旧唐書』高季輔伝)。強奪による収入はおそらく封戸の納める税収より多かったに違いない。この種の風潮があったため、「皇帝の賜金の外に、寵愛を侍んで私利を謀ることをしない」とか、「租税収人以外に人と利を争わない」(『全唐文』巻六三一、呂温「大唐故紀国大長分主墓詰銘」)といったことが公主たちの美徳になった。このような合法的収入や非合法の掠奪によって、公主たちの大部分は豪奢な
生活を送っていたのであった。
唐代の公主のなかで、最も高貴を鼻にかけて鵜り高ぶり、最も横暴極まりないことを行った者として、太平公圭、安楽公主、長寧公圭の三人を数えることができゐ。太平公主は武則天の愛娘であることを侍み、また中宗、容宗を擁立した功績があったので、その権勢は天下を傾けるばかりか、富は帝王に等しく、また政治、経済の力も公主の中で最大のものとなった。彼女の所有する田園は京畿のいたるところにあり、階右(甘粛省蘭州、輦昌一帯)の牧場には一万頭に上る馬があり、家の中には珍奇な宝物が無数にあり、また美しい絹の衣裳を着た侍女が数百人もいた。彼女が権勢を失い死を賜った時、家産は没収されたが、その時発見された財宝は山のごとくであり、皇帝の内庫の宝物を越えていた。牧舎の羊、馬、土地からの利息収人などは数年間にわたって調査し国庫に収めたが、それでもなお尽きなかった。安楽、長寧の両公主は中宗と章后の娘であり、両親の寵愛を侍んでほしいままに土地、財宝を強奪し浪費の限りを尽した。安楽公主は人を派遺して珍しい鳥の羽や、獣の毛を集め「百鳥毛祐」(無数の羽毛で織ったスカート)をつくり、その一枚は一億銭にも値した。彼女は民田十九里四方を強奪して定昆池という池を掘り、石を積んで山となし、水を引いて谷川を造った。また珍しい石や宝石で飾り立て、天下第一の壮麓さを極め、そのありさまは宮廷の禁苑を越えていた。彼女はまた、一般民衆の家屋を取り壊して大規模な自分の役所を作り、そのため宮中の内庫の貯えを空にしてしまった。長寧公主は両京(西都長安、東都洛陽)で民田を占拠して邸宅を作った。東都にあったその一邸宅は都城一〇八坊中の一坊を占め、そのうえ三百畝の広さの池があった。長安にあった一邸宅は、二十億銭にも値した。彼女たちの夫も贅沢な生活をし、こともあろうに地面に油を浸みこませたポロの球場を作るほどだった(安楽公主の夫が影耶『新唐書』外戚41)0公主たちはまた一般民衆の子女を掠奪して奴婢こしたり、民を使役して大いに仏寺をつくったので、当時の大臣から皇帝に報告され、「人の力を燭にぺ人の財を費し、人の家を奪う」(『資治通鑑』巻二〇九、中宗景龍二年)と指弾された。
これ以後の公主たちの権勢はこれほど膨脹したことはなかったが、しかし贅沢の風潮はなお遍く行き渡っていた。玄宗の時代の公主たちは贅沢な料理を献上し、「一皿の料理が十戸分の中等の家の資産を越える」(鄭処海『明皇雑録』補遺)といわれるほどだった。徳宗の貞元年間、義陽、義章の両公主は、それぞれ墓地に百余間もある祠堂(先祖の霊を祭る堂)をつくり、銭数万梧(一紺は銅銭一千枚)を費やした(『旧唐書』李吉甫伝)。同じ時期、十一人の県主が同時に嫁に行ったが、それぞれ三百万銭を支給した。これにはまだ衣服、装身具の費用は入っていなかった。皇帝がこの費用を計算させたところ、花柄の装身具一旅だけで一人につき七十万銭であった。徳宗は、これは浪費に過ぎるといって三万に減額した。しかし残った六十余万銭もそれぞれ県主たちに与え嫁人り費用にしてしまった(『旧唐書』徳宗順宗諸子・珍王誠伝)。公主のうち、贅沢さで有名な人物としては、姑宗の愛娘同昌公主をあげねばならない。彼女の部屋の扉や窓はすべて珍宝で飾られており、井戸の囲い、薬を調合する臼、食器入れ、水槽、それに鍋、碗、ぴしゃく、盆などは金や銀で作られ、ザルや旅、箕は金を散りばめ、床は水晶、瑠璃で飾り、食器類は五色の玉器でつくられていた。さらにまた連珠帳(珠を連ねた帳)、却寒簾(防寒用カーテン)、鵡鵠枕(雄の羽でつくった枕)、鼎翠匝(ひすいの箱)、火蚕綿(四川の茂県産の良質綿)、九玉欽(九っの玉のっいた祷)、龍脳香【香料の】種)などの各国から献上された珍宝もあった。公主が家で食べる料理も珍味で貴族さえ知らないほどのものであったが、公主の方はそれを糟や糠のように粗末にした。一説によると、彼女の死後家中の器物を一緒に焼いたが、人々は争って灰の中から金銀珠玉を拾ったそうである。彼女の豪勢で贅沢な様は、人々から漢王朝以来のどの公主にもいまだなかったことだと噂された(蘇鴉『杜陽雑編』巻下、『太平広記』巻⊇二七)。
公主たちの豪奢の風は一般的となり、また常に彼女たちは世間で不法、横暴を働いたので、代々の皇帝たちも常に頭痛の種と感じ、それを制限せざるをえなかった。文宗の時、帝は公主たちがあまりに華美で高価な装身具を身につけることを厳禁した。ある時、帝は宴会の席上で延安公主の衣服の裾が広すぎるといって即座に追い返し、その夫に罰としてニカ月分の減俸を行った(『旧唐書』后妃伝下)。徳宗の娘の義陽公主はみだりに横暴な振舞をしたので、徳宗から宮中に監禁された。穆宗の娘の安康公主なども、宮廷の外で騒動を起こしたので、宮中に連れもどされて住まわされた。